第54話 また、噂が広がっちゃいます
詩人はその日、街に泊まって、夜、酒場で一曲歌った。
それは――“隅っこの聖女様”の歌だった。
毒の水を出汁に変え、誰も食べられない肉を蕩けさせ、飢えた者にそっと一杯を差し出す。あたたかい料理で街を救った、小さな聖女の物語。
詩人の澄んだ歌声と、竪琴の優しい調べが、酒場いっぱいに響き渡る。歌の中の“聖女様”は、実物よりずっと立派で美しくて、私はこそばゆくて仕方なかった。
……いや、あの。私、そんな大層なことしてないんですけど。ただ余り物でスープ煮てただけで。……なんて心の中でツッコんでも、歌はどんどん盛り上がっていく。
酒場は大盛り上がりだった。みんな、「そうだそうだ」「聖女様はすごいんだ」と大喜び。ジオじいさんは涙ぐんで、ガーゴさんは「オレの聖女様だ!」となぜか自慢げだ。(あなたのじゃないですけど。)……私は隅っこで、いたたまれない気持ちでそれを聞いていた。
……嬉しいような、恥ずかしいような。
歌が終わって、詩人は私のところに来て言った。
「お嬢さん。この歌、私が行く先々で歌わせてもらうよ。……こんなにあたたかい話、埋もれさせるのはもったいない。もっとたくさんの人に聞かせたい」
「え……そ、それはちょっと」
目立つのは苦手だ。断ろうとしたけれど、詩人のそのキラキラした目を見たら断れなかった。彼は心から、この物語をいいものだと思ってくれている。
「……はい。あの、ほどほどにお願いします」
「はは、任せておいで。……ありがとう、聖女様。あなたのスープは、私の旅のいい思い出になるよ」
翌朝、旅立つ詩人に、私はたっぷりの携行食を持たせた。日持ちする干し肉と、あたたかいスープの素になる発酵調味料と、それから、道中で疲れたときに食べる甘い焼き菓子を。
「これ、旅のお供に。……あたたかいものが食べたくなったら、このお湯にこれを溶かすだけでスープができますから」
詩人はその荷物を受け取って、少し目を潤ませた。
「……お嬢さん。あなたは本当に。……いや、なんでもない。ありがとう。この恩は歌で返すよ。あなたのあたたかさが、行く先々の寂しい誰かの心をあたためられるように」
そう言って、詩人は竪琴を背負い直し、朝の光の中へと旅立っていった。その足取りは、来たときよりずっと軽やかだった。
……旅は寂しい。でも、どこかにあたたかい一杯が待っていると思えば、人はまた歩き出せる。あの詩人にとって、この街がほんの少しでも“帰りたい場所”になれたなら。……それは、素敵なことだ。
◇
「……これで、また噂が広がっちゃいますね」
見送ったあと、ネルさんが少し心配そうに言った。
「まあ、いい話だからいいんですけど。……でも、レンちゃん。噂が広がるってことは、良くない人の耳にも届くってことよ。……気をつけてね」
「はい……」
その言葉に、私はちくり、と胸の奥が痛んだ。
……そういえば、少し前に、帝国の密偵らしき男が来た。あのときの冷たい視線を思い出す。
「……そうですね。気をつけます」
「あなたのことを悪く言うつもりはないのよ。あの吟遊詩人さんも、あなたも、何も悪くない。……ただ、いい話ほど遠くまで飛ぶ。そして遠くには、あたたかい人ばかりじゃないってだけ」
ネルさんは少し寂しそうに笑った。
あたたかい話が広がるのは嬉しい。困っている人に届けば、その人の救いになるかもしれない。私の料理を必要としている遠くの誰かに、この歌が届くのなら、それはいいことだ。
でも――同時に、私の名が広がることでもある。いつか、それが私の静かな暮らしを脅かす何かを引き寄せるかもしれない。
あたたかさと危うさは、いつも背中合わせ。……それが、私の抱えている“お値段”だった。
……考えすぎ、かな。
私はその小さな不安を、そっと胸の隅にしまった。今は目の前のあたたかい日々を大事にしよう。心配事は、そのとき考えればいい。
◇
その夜。箱庭であたたかい夕食を囲みながら、私はティルとヒノに、詩人の歌の話をした。
「レンの、うた、できたの!? すごい!」
ティルは大はしゃぎだった。ヒノも面白そうに、ぐるる、と鳴く。
「まあ、恥ずかしいけどね。……でも、あの詩人さん、いい人だったな。私のスープのいちばん大事なところ、ちゃんとわかってくれた」
「いちばん、だいじな、ところ?」
「うん。……“食べる人を思う気持ち”。それがいちばんの隠し味だって、あなたにも教えたでしょ」
ティルは、こくこく、と頷いた。
「ぼくの、りょうりにも、はいってる? その、かくしあじ」
「もちろん。ばっちり入ってるよ。……あなたがジオじいさんのために作ったおかゆ。あれ、すごくあったかかったもん」
ティルは嬉しそうに笑った。ヒノも、「自分にもあの匂いはわかる」とでも言うように、ぐるる、と鳴く。
「ぼくも、いつか、うたになるくらい、すごい、りょうりにん、なりたい」
「なれるよ、きっと。……でも、うたになるより、目の前の大切な人をあたためられる料理人のほうが、ずっとすごいと思うけどね。私は」
「……そっか。じゃあ、ぼく、そっちの、りょうりにん、なる」
そのまっすぐな言葉に、私は微笑んだ。
旅の詩人が運んでいく、あたたかい物語。それが遠い街の誰かの心をあたためられたら。……それは、素敵なことだ。
でも、その物語が、同じくらい遠い場所の、あたたかくない誰かの耳にも届こうとしていることを。
このときの私は、まだ深くは考えていなかった。あたたかい湯気の向こうのティルとヒノの笑顔に、ただ幸せを感じながら。……静かに迫る影に、気づかないまま。
噂は、勝手に広がるもので。
次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。




