第50話 発酵は、裏切らない
発酵は――私にとって、ただの料理法じゃなかった。
なんだか、生き方のお手本みたいに思えた。
急がない。焦らない。すぐに結果を求めない。じっと待つ。時間をかける。……そうすれば、いつか、とんでもなく深くて豊かな味になる。
前世の私は、真逆だった。すぐに結果を求められて、急かされて、焦って。……そして、限界まで詰め込まれて壊れた。
あれは発酵じゃなくて、ただの“腐敗”だったのかもしれない。時間をかけずに、無理やり絞り出そうとするから、人は壊れる。腐る。
でも、発酵は違う。
じっくり待てば、ちゃんといい味になる。人も、たぶん同じだ。ティルがそうだったように、時間をかけて、あたたかいものを少しずつ積み重ねて、ゆっくり“いい味”になっていく。
……そういえば、私自身も、この世界に来て最初は、ぎすぎすしていた。誰とも関わりたくなくて、心が乾いていて、前世の疲れをまだ引きずっていた。
でも少しずつ、ティルと出会って、ヒノと家族になって、ネルさんや街のみんなとあたたかいものを分け合って。……気づけば私も、少しずつ“いい味”になってきた気がする。
角が取れて、まろやかになって、前よりずっとあたたかい人間に。……たぶん、私もゆっくり“発酵”していたのだ。このあたたかい暮らしの中で。
急がなくてよかった。焦らなくてよかった。じっくり時間をかけて、この世界に馴染んでいった。その時間のぜんぶが、今のあたたかい私を作っている。
「発酵は、裏切らない、か」
私は壺を眺めながら呟いた。
ちゃんと手をかけて、ちゃんと待てば、発酵は絶対に応えてくれる。とびきりの深い味で。……そういう確かなものがあるのは、なんだか心強かった。
◇
ある日、試しに、と、半年ほど寝かせた深層きのこの発酵調味料を、料理に使ってみた。
ほんのひとさじ。それだけで、スープの味がぐっと深く、豊かになった。まるで、何十種類もの旨味が重なり合ったみたいに。
「……っ、これ、すごい!」
ひと口すすったティルが、目を輝かせた。
「でしょ。半年、待った甲斐があったでしょ」
そして、この発酵調味料を食べた者は、【秘密の隠し味】のバフで、驚くほど粘り強くなった。長時間の探索でもへばらない。毒にも疲労にも強くなる。
……発酵は、持久力。以前立てた仮説どおりだ。じっくり時間をかけた食べ物は、食べた者にも“じっくり粘る力”を授ける。理にかなっている。
深く、豊かで、しかも力になる。発酵食は、私の料理のいちばんの武器になりそうだった。
この発酵の力は、街のみんなにも役に立った。
少ない食材でも、発酵調味料がひとさじあれば、深い味の料理が作れる。日持ちもする。冷害の冬を越せたのも、この発酵のおかげが大きかった。
ネルさんに少し分けたら、「これ、一滴でうちの料理が料亭の味になるんだけど……あなた、ほんとに何者なの」と、また遠い目をしていた。
……まあ、ただの発酵好きの料理人です。それ以上でも以下でもない。
◇
その夜、私は発酵蔵のずらりと並んだ壺を眺めながら、あたたかいお茶を飲んだ。
この壺たちは、今はまだ地味だ。何も起きていないように見える。でも、その中では、静かに、確かに、素晴らしい変化が進んでいる。
ティルもヒノも、すっかりこの発酵蔵が気に入った様子だった。
毎日、ふたり(一人と一匹)で壺を見に行っては、「まだかな」「そろそろかな」とそわそわしている。特に、ティルが自分で仕込んだ壺のことは、宝物みたいに大事にしていた。
「レン。ぼくの、つぼ。……あと、どれくらい?」
「んー。あと三ヶ月、くらいかな」
「さんかげつ……! まだまだ、だ……」
ティルは、がっくり肩を落として、それからすぐに、けろっと笑った。
「でも、いいの。たのしみ、ずっと、つづくもんね。レンが、いってた」
……ちゃんと覚えていてくれた。私の言葉を。
“待つ楽しみ”を知ったティル。それは、この子の心がちゃんと“満たされている”証拠だ。今、食べられなくても、明日もあさっても、あたたかいごはんがあると信じられている証拠。
飢えていた頃のこの子には、なかった余裕。その成長が、私は何より嬉しかった。
……人生も、たぶんそうだ。
何も起きていないように見える日々にも、ちゃんと何かが育っている。ティルが少しずつ心を開いていったように。私が少しずつ、この世界に居場所を見つけていったように。
焦らなくていい。急がなくていい。
ちゃんとあたたかいものを積み重ねていけば、いつか必ず、深くて豊かな“いい味”の人生になる。
発酵は、裏切らない。
そして、たぶん、あたたかい暮らしも、裏切らない。
ちゃんと種を蒔いて、あたたかいものを積み重ねて、焦らず待てば、いつか必ず、豊かな実りが返ってくる。
……もっとも。私の暮らしには今、帝国という不穏な影も差している。その影が、いつこのあたたかい発酵を断ち切りに来るかは、わからない。
でも――だからこそ、私はこつこつと備える。発酵蔵に壺を仕込むように。地の底に隠れ家を作るように。いざというときのために、少しずつ、少しずつ。
急がず、焦らず、でも着実に。……それが、私のやり方だった。
私はそう信じながら、静かに更けていく夜のあたたかさを、ゆっくりと味わっていた。ことこと、と優しい音を立てる、移動かまどの火に照らされながら。
壺の中で静かに育っていく発酵食のように、私のあたたかい暮らしも、ゆっくりと深く、豊かに。……育っていきますように。そう願いながら。
発酵は、待つほどに応えてくれる。
次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。




