第5話 お手伝いします、と竜の子は言った
朝、目を覚ますと、ティルが枕元に正座していた。
微動だにせず、じっと私の顔を見つめている。金色の目を、まんまるに見開いて。
「……おはよう。何してるの、それ」
「お、起きるの、待ってた。……勝手に動いたら、いけないと思って」
……なるほど。里では、勝手に動くと殴られたりしたんだろう。
私は起き上がり、ぐっと伸びをした。窓の外の景色を、朝の光に切り替える。箱庭のいいところは、朝がいつでも気持ちのいい晴れだということだ。天気に機嫌を左右されなくて済む。
「ティル。この家では、好きに動いていいの。お腹が空いたら空いたって言っていいし、眠かったら寝ていい。……まあ、ごはんは残さない、それだけ守ってくれれば」
ティルは、こくこくと頷いた。頷いたけれど、まだ正座は崩さない。体に染みついた緊張は、ひと晩やそこらではほどけない。
わかっている。焦らなくていい。
私は、かまどに火を入れた。
「じゃ、朝ごはんにしよう。手伝ってくれる?」
◇
「手伝う」と言った瞬間のティルの顔は、見ものだった。
ぱあっ、と電気がついたみたいに、目が輝いたのだ。「役に立てる」ということが、この子にとっては、それだけで飛び上がるほど嬉しいことらしい。
……なんて健気なんだ。ちょっと、涙腺にくる。
「じゃあ、この芋、洗ってくれる? そこの桶の水で」
「うんっ」
ティルは、勢いよく立ち上がって――そして、思いっきり桶をひっくり返した。
ばしゃーん、と、盛大に水がこぼれる。
時が、止まった。
ティルの顔から、さっと血の気が引いていく。輝いていた目が、みるみる恐怖に染まる。彼は、その場に崩れるように膝をつき、床に額を擦りつけた。
「ご、ごめんなさいっ、ごめんなさい、ぼく、また、しくじって、ぶたないで、ぶたないでください……っ」
がたがたと震える背中。
――ああ。
私は、静かにこみ上げるものを飲み込んだ。怒りだ。ティルにじゃない。この子をここまでにした、里の誰かに対する、静かな怒り。
私は、こぼれた水を布でさっと拭いた。それから、震えるティルの前にしゃがみ込む。
「ティル。顔、上げて」
「……っ」
「大丈夫。誰もぶたない。ここには、そんな奴、一人もいないから」
ゆっくり顔を上げたティルの、涙でぐしゃぐしゃになった顔に、私は、できるだけ穏やかに笑ってみせた。
「水をこぼしたら、拭けばいい。それだけのこと。誰だってやる。私だって昨日、味見しすぎて味が濃くなって、一回やり直した」
「……やりなおし、て、いいの?」
「いいに決まってる。失敗しない人なんて、いない。失敗したら、直せばいい。料理も、たぶん人生も、そういうふうにできてる」
――前世の私に、誰かそう言ってくれていたら。
ひとつのミスで、深夜まで謝り続けなくてよかったのかもしれない。もう、戻れないけど。
だから、せめて、この子には言う。何度でも。
ティルは、しばらく私の顔を見つめて――それから、ぐしぐしと袖で涙を拭った。
「……もう一回、やる。芋、洗う」
「うん。今度は、ゆっくりね」
◇
こぼした水を拭き直し、芋を洗い、二人で朝ごはんの支度をした。
ティルの手つきは、びっくりするほど不器用だった。芋の皮は分厚く剥きすぎるし、火の番を任せれば燃やしかけるし、皿は二枚も割った。
でも、私は一度も怒らなかった。
「そこ、もうちょっとゆっくり」「うん、上手」「大丈夫、割れた皿は替えがある」――そう言い続けた。ただ、それだけ。
不思議なもので、怒らないでいると、ティルの手つきは少しずつ、ましになっていった。萎縮しなくなると、人はちゃんと動けるようになる。当たり前のことだ。前世の職場が、それを知らなかっただけで。
私は、鍋に昨日の琥珀色の出汁を張った。
ことこと、と、鍋のふちで出汁が小さく踊る。そこへ、ティルが不格好に切った芋をそっと沈める。芋が、出汁の色をゆっくりと吸って、透きとおるように煮えていく。灰汁をすくい、味をみて、岩塩をひとつまみ。指先の感覚だけで、味がぴたりと決まる場所を探り当てる。この一瞬が、私はたまらなく好きだった。
「ねえ、ティル」
芋の様子を見ながら、私はなんとなく聞いた。
「あなた、何か好きな食べ物とか、あった? 里にいた頃」
ティルは、火の番をしながら、うーん、と考え込んだ。それから、ぽつり。
「……わからない。すきとか、きらいとか、かんがえたこと、なかった。あるものを、たべる、だけ、だったから」
さらり、と、また胸に刺さることを言う。
好き嫌いを考える、というのは“選べる”ということだ。この子は、選ぶ側に一度も立たせてもらえなかった。
「じゃあ、これから探そう」
私は、鍋をかき混ぜながら言った。
「毎日いろんなもの作るから、その中で、あなたの『いちばん好き』を、ゆっくり見つけていけばいい。……好きなものがひとつずつ増えていくの、けっこう楽しいよ」
ティルは、火の向こうで、こくり、と頷いた。その目がほんの少し潤んでいた気がしたけれど、湯気のせいだ、ということにしておいた。
やがて、湯気を立てる朝ごはんが、小さな机に並んだ。
昨日の琥珀色の出汁で作った、あたたかいスープ。ふっくら煮えた芋。それから、保存していた干し肉を軽く炙って、香ばしくしたもの。豪華ではない。でも、ちゃんとあたたかい。
私は、ティルの器にスープをよそった。湯気を、いちばん優しい温度に整える。
「はい。いただきますは、言える?」
ティルは、こくり、と頷いた。そして、両手をぎこちなく合わせた。たぶん、生まれて初めての形だ。
「……いた、だき、ます」
たどたどしく、けれど、精一杯の声で。
「うん。いただきます」
私も、手を合わせた。
二人ぶんの「いただきます」が、小さな箱庭にそっと重なった。
あたたかい朝ごはん。……それが、この子を変えていく、はじまりだった。




