第4話 名前を、つけましょうか
「さて、と」
泣きやんだティルを連れて、私は路地裏の奥に戻った。ギルドの床で寝るわけにもいかない。
誰も見ていないのを確かめて、私は壁に手を触れた。
「【箱庭のおままごと】」
空間が、ぐにゃりと歪む。
何もなかったはずの壁の向こうに、ぽっかりと扉が現れた。木でできた、素朴で、あたたかい色の扉。
ティルが、ひゅっと息を呑んだ。
「な……なに、これ」
「私のお家。中に入れる亜空間、みたいなもの。まあ、細かいことは気にしないで」
説明するのも面倒なので、私は扉を開けて、さっさと中に入った。ティルが、おそるおそる後をついてくる。
中は、小さいけれど、居心地のいい一部屋だ。かまどがひとつ。寝床がひとつ。棚には、私がこつこつ集めた保存食と調味料。窓の外には、本当は存在しないはずの、穏やかな夕暮れの景色が広がっている。この景色は、私の“気分”で変えられる。今日はなんとなく、夕暮れの気分だった。
ティルは、部屋の真ん中で、ぽかんと立ち尽くしていた。
「……あったかい」
ぽつり、と、そう言った。
部屋の温度の話じゃない、と思う。たぶん、もっと別の、何かのことだ。
私は、寝床の毛布を一枚、ティルに放って投げた。
「今日はそこで寝なさい。明日のことは、明日考える」
「……いいの? ぼく、ここに、いても」
その問いに、私は一瞬、答えあぐねた。
いいの、と即答するには、私は面倒くさがりすぎるし、警戒心も強い。この子が何者で、これからどうなるのか、正直、何もわからない。関われば、絶対、面倒が増える。静かな暮らしからは、また一歩、遠ざかる。
でも。
名前をもらって泣く子を、この寒い夜に外に放り出せるほど、私は、ちゃんとした社畜だったことは、一度もない。
「いていいよ。ただし」
私は、人差し指を立てて、いちばん大事な条件を告げた。
「ごはんは、残さず食べること。それが、この家の、たったひとつのルール」
ティルは、毛布をぎゅっと握りしめて、何度も、何度も頷いた。
◇
その夜。
ティルは、毛布にくるまって、あっという間に寝息を立て始めた。よほど疲れていたんだろう。時々、うなされるように、小さく「ごめんなさい」と呟く。里で、どれだけ謝らされてきたのか。その寝言だけで、なんとなく想像がついてしまった。
私は、かまどの残り火を眺めながら、冷めかけたお茶をすすった。
「……はあ」
我ながら、どうしてこうなった、と思う。
今朝まで、私はただの「ギルドの隅でスープを売る、身元不明の子ども」だった。誰にも期待されず、誰にも頼られず、それが心地よかった。静かで、身軽で、自由だった。
それが、一日で、一気に。
冒険者たちに聖女と崇められ、受付嬢に目をつけられ、挙句、竜鱗族の子どもまで拾ってしまった。
完全に、目立っている。前世の教訓、丸つぶれだ。
しかも、さっきの男のことがある。竜鱗族の子は、珍しくて、いい値がつく。つまり、ティルを狙う手合いは、あの一人だけじゃない。この子をちゃんと守るつもりなら、私は、私の“静かな暮らし”の枠を、少し広げないといけない。
……本当に、面倒だ。
でも、と、私は思う。
面倒だと思いながら、それでも、この子を売り飛ばさせないために、はったりまでかけた。柄にもなく。あの瞬間、私の頭にあったのは、損得の計算じゃなかった。ただ、この子の震える手を、二度と、あんなふうに強張らせたくない。それだけだった。
社畜根性は抜けない、なんて、さっきは思ったけれど。
たぶん、これは、社畜根性とは少し違うものだ。もっと、ずっとあたたかくて、厄介な、何か。
「目立つな、期待されるな、静かに生きろ、って……あれだけ自分に言い聞かせたのに」
寝ているティルの、あどけない顔を見る。
角の生えた小さな頭。名前をもらって泣いた金色の目は、今は静かに閉じられている。明日の朝、この子が目を覚まして、「これは夢じゃなかった」と気づいたとき、どんな顔をするだろう。
……まあ、いいか。
その顔を見てみたい気もする。ほんの、少しだけ。
私は、お茶を飲み干して、もうひとつの毛布にくるまった。誰かの寝息が聞こえる部屋というのは、思っていたより、ずっと眠りやすかった。
「……おやすみ、ティル」
返事は、もちろん、なかった。
でも、静かな寝息が、返事の代わりみたいに、部屋にそっと響いていた。
明日は、何を作ろう。
この子は、何が好きなんだろう。
そんなことを考えながら眠りにつくのは――前世を含めても、たぶん、初めてのことだった。
名前は、家族になる第一歩。
次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。




