第3話 空っぽの器と、痩せた竜の子
空になった器を両手で抱えたまま、その子はじっと固まっていた。
竜鱗族の男の子だ。頭には小さな二本の角。ぼろ布の隙間から覗く腕には、うっすらと緑がかった鱗が並んでいる。けれど、その鱗はずいぶんと薄い。触れたら剥がれてしまいそうなくらい、頼りない。
私は床に膝をついて、その子と目線を合わせた。中身は大人だが、体は小さいので、そんなに屈まなくてもいい。それも、ちょっと便利だ。
「もう一杯、いる?」
その子は、びくり、と肩を跳ねさせた。そして、慌てて首を横に振る。ぶんぶん、と痛々しいくらいの勢いで。
……ああ、この感じ。知っている。
「遠慮した」んじゃない。「怒られる」と思ったんだ。おかわりを望むことすら、この子はきっと、許されてこなかった。
前世の私もそうだった。残業を断ることも、有給を取ることも、「そんなこと言える立場じゃない」と勝手に自分に禁じていた。望む前に諦める。それが染みついた者の顔を、私はよく知っている。
だから私は、返事を待たずに、鍋の残りを全部その子の器に注いだ。
「うちは、残すほうが叱られるの。だから、食べて」
嘘だ。うち、まだ私一人だし。でも、こういう嘘はついていいと思う。
◇
二杯目を食べ終えるころには、その子の頬にようやく血の色が戻っていた。
私は、ギルドの床の隅っこという状況を、今さらながら思い出した。もう夜も遅い。受付のネルさんはとっくに帰ったし、酒場の灯りも半分落ちている。
こんな場所で、小さな子をひとりにはできない。
……という思考が浮かんだ時点で、私は内心、深いため息をついた。だめだ。私は静かに暮らしたいはずなのに。関わりたくないはずなのに。どうしてこう、腹を空かせた者を前にすると、体が勝手に動くんだろう。
社畜根性というやつは、死んでも抜けないらしい。困ったものだ。
「ねえ、あなた、名前は?」
その子はしばらく黙っていた。それから、掠れた声で、ぽつりと言った。
「……ない」
「ない?」
「里で呼ばれてた、のは……『出来損ない』、と……『餌にもならない』」
私は思わず、真顔になった。
名前じゃない。それは、ただの悪意だ。
この子は生まれてからずっと、名前の代わりに呪いを浴びせられてきた。誰にも「あなた」と呼ばれることのないまま、ここまで来てしまった。
……うん。決めた。
「じゃあ、私がつける。いい?」
金色の目が、まんまるになる。「え」と、声にならない声が漏れた。
私はその子の薄い鱗を、そっと指で撫でた。緑がかったそれは、灯りを受けて、意外にも宝石みたいに澄んだ光を返した。誰も気づかなかっただけで、きれいな鱗だ。
「ティル」
「……てぃ、る?」
「うん。ティル。しずくって意味の、私の故郷の言葉。……あなたの鱗、雨上がりのしずくみたいだから」
言ってから少し照れくさくなって、私は視線を逸らした。柄にもない。大人になると、こういう気恥ずかしさが、逆にうまく隠せなくなる。
ティルは、自分の腕の鱗をまじまじと見つめた。ずっと「出来損ない」の証だと言われ続けてきた、その薄い鱗を。
そして――ぽろり、と涙をこぼした。
「なまえ……ぼくの、なまえ……」
声を殺して、けれど止められないみたいに、ティルは泣いた。名前をもらう、というただそれだけのことで、こんなに泣ける。それはきっと、この子がどれだけ長いあいだ、「いなくていい存在」として扱われてきたか、という証だった。
私は、その頭を、ぽんぽん、と撫でた。角の付け根は、思ったよりずっとあたたかかった。
◇
夜の街は、思ったより剣呑だった。
ギルドを出て、路地を歩く。灯りの落ちた街角には、昼とは違う顔がある。酔った男たちの濁った笑い声。物陰で交わされる、値踏みするような視線。ティルは、私の背にぴったりと張りついて歩いた。
「……ここ、こわい」
「うん。夜の街は、みんな、ちょっと気が立ってるからね」
案の定、というべきか。角を曲がったところで、じろり、とこちらを舐めるように見る男がいた。だらしなく着崩した服に、腰には縄。目つきで、なんとなく商売の種類が知れる。人を売り買いする類の男だ。
男の視線が、私の後ろのティルに、ねばりつくように留まった。
「よう、嬢ちゃん。そのトカゲの子、どこで拾った? 竜鱗族なんざ、珍しい。……いい値がつくぜ。俺が買い取ってやろうか?」
ティルの体が、びくりと強張った。震える手が、私の服の裾をぎゅっと握る。
……ああ、なるほど。
この子が、名前の代わりに呪いを浴び、殴られ、置き去りにされても、なお「自分が悪い」と思い込んでいる理由が、少しわかった。この世界は、こういう手合いが、こんなにも当たり前に、夜の角に立っている。弱い者は、それだけで値札を貼られる。
私は、ティルの手をそっと握り返した。それから、男に向かって、心の底から面倒くさそうな声を出した。
「いりません。この子は、うちの子なので」
「うちの子ぉ? ガキが、なに生意気――」
男が、私の肩を掴もうと手を伸ばしてきた。
その手が、私に触れる寸前。
――ふわり、と、私を包む光の膜が、ほんの一瞬瞬いた。【硝子の繭】。触れたものを一切通さない。男の手は、見えない壁に阻まれて、ぴたりと止まった。
男の顔から、笑みがすっと消えた。何が起きたのか、わからない、という顔だ。指先に走った得体の知れない感触に、本能的な恐怖が滲む。
私は、にっこりと笑った。いちばん無害に見えるように。
「……次、この子に触ろうとしたら。今度は、止めませんよ」
嘘だ。私に攻撃手段はない。繭は、守るだけ。でも、こういう手合いは、たいてい、はったりに弱い。得体の知れないものからは、逃げる。
案の定、男は二、三歩あとずさって、それから、ばつが悪そうに舌打ちして、闇の中に消えていった。
ティルが、ぽかん、と私を見上げていた。
「……レン、つよい?」
「んー。強くはない。ただ、絶対に、痛くならないだけ」
我ながら、変な自己紹介だ。でも、それが、いちばん正確だった。
まずは、そう。……この痩せっぽちの子に、名前を、つけてあげよう。




