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【新版】痛いのも苦労するのも嫌なので、お家で美味しいご飯を作って静かに暮らしたい(※ただしダンジョン最深部)  作者: 翠碧ノ人


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第2話 ギルドの隅で、スープを煮込みます

 四日目の朝だった。


 器の中の水は、いつのまにか、澄んだ琥珀色に変わっていた。あの紫の濁りも、つんとした匂いも、跡形もない。代わりに立ちのぼるのは、深く、丸く、食欲をまっすぐに刺激する、香ばしい匂い。


 俺は、震える指を、そっと液体に浸した。


 舐める。


 舌の上で、味が――()()した。


 塩気。旨味。コク。そのどれもが、前世で口にしたどんな高級調味料より深く、複雑で、幾層にも重なっていた。毒霧スライムの毒は、正しい温度で、ゆっくりと寝かせてやれば、世界一の発酵調味料に化ける。


 ただ、誰も。


 誰も、そんな面倒なことを、試さなかっただけだ。


「……役に立たないスキルなんて、ないんだな」


 思わず、笑ってしまった。


 役に立たない力なんて、ない。役に立つ使い方が、まだ見つかっていないだけだ。【常温】は最弱かもしれない。でも、この一滴を生み出せた。それで十分だと、俺は思う。


 俺は森で採った山菜と、川辺で見つけた小さな芋を鍋に入れ、火をおこし、そこにその琥珀色の一滴を、慎重に垂らした。


 湯気が、立つ。


 鍋を火から下ろし、器によそう。木のスプーンで、ひと口ぶんをすくって、口に運ぶ前に、俺は【常温】で、湯気を、ちょうどいい温度に整えた。熱すぎず、ぬるすぎず。舌を火傷しない、いちばん美味しい温度に。


「……いただきます」


 誰もいない森の中。誰も聞いていない、小さな声だった。


 ひと口すすった瞬間、体の芯が、じんと温まった。


 久しぶりだった。「味のするご飯」を食べるのは、本当に、久しぶりだった。前世でいつ、こうやって、湯気を立てた飯を、味わって食べただろう。思い出せない。ずっと、立ったまま、冷えたものを、飲み込むように食べていた。


 鼻の奥が、ツンとした。


 俺は慌てて、天を仰いだ。


「……いや、泣かないぞ。社畜は泣かない」


 ただ、ちょっと。ほんの、ちょっとだけ。目の奥が熱くなった、それだけだ。


 スープは、あたたかかった。誰のためでもない、自分ひとりのための一杯。それでも、こんなにも、あたたかかった。



    ◇



 その夜のことだった。


 夕食を終え、仮の寝床を整えていた俺の耳に、こつ、こつ、と、遠慮がちに戸を叩く音が届いた。


 こんな森の奥に、こんな時間に。


 警戒しながら、俺は建てかけの小屋の戸を、そっと開けた。


 そこに立っていたのは、獣人の少女だった。


 頭に獣の耳。ぼろぼろの服。細い体は震えていて、今にも倒れそうだ。頬はこけ、唇は乾いている。けれど、その鼻だけは、ひくり、ひくりと、けなげに動いていた。まるで、命がけで、何かの匂いを追いかけてきたみたいに。


 俺と目が合うと、少女はびくりと肩を震わせ、逃げるように半歩、後ずさった。殴られることに、慣れている体の動きだった。人に良くしてもらった記憶より、痛めつけられた記憶のほうが、ずっと多い。そういう体の、動き方だった。前世で、限界まで擦り切れた同僚が、同じような目をしていたのを、俺は覚えている。


 それでも、彼女は逃げなかった。


 鼻を、ひくり、ひくりと動かして、必死に、この場所につなぎ止められている。あたたかい匂いに。


 彼女は、震える声で、言った。


「……その匂い。……なにか、あったかいもの、作ってる、よね」


 俺は、少しだけ考えた。


 この子が何者なのか、俺は知らない。どこから来て、何を抱えているのかも。


 でも、腹を空かせた誰かが、あたたかい飯の匂いを頼りに、暗い森を歩いてきた。それだけは、確かだった。


 俺は、戸を、大きく開けた。


「作ってるよ」


 鍋には、まだ、ひとり分のスープが残っている。


「……まだ、あったかいうちに、食べてく?」


 少女の目が、大きく見開かれた。信じられない、というふうに。そして、その大きな瞳に、みるみる涙が盛り上がって――


 こくり、と、彼女は、小さく頷いた。


 俺は残りのスープを器によそい、湯気を【常温】で、ちょうどいい温度に整えてから、彼女に手渡した。熱くて驚かせたくなかったし、ぬるくてがっかりさせたくもなかった。ただ、いちばん美味しい、いちばん優しい温度で、渡したかった。


 少女は器を両手で包むように受け取り、その温かさに、また少し、目を潤ませた。そして、おそるおそる、ひと口すすって――


 ぴたり、と、動きが止まった。


 もう一口。もう一口。二口目からは、もう止まらなかった。こぼしそうな勢いで、けれど一滴も無駄にしないように、彼女は夢中でスープを飲んだ。獣の耳が、ぴん、と嬉しそうに立っている。細い喉が、こくり、こくりと鳴るたび、こけた頬に、少しずつ、生きている者の色が戻っていく。


 器が空になると、彼女はしばらく、その底をじっと見つめていた。それから、蚊の鳴くような、けれど確かな声で、言った。


「……おいしい」


 たった、それだけ。


 それだけの言葉が、なぜだろう、俺の胸の、いちばん柔らかいところに、まっすぐ刺さった。


 誰かが、俺の作ったものを食べて、「おいしい」と言ってくれる。ただ、それだけのことが、こんなにも――こんなにも、あたたかい。


「……そっか」


 俺は、それだけ返すのが精一杯だった。また鼻の奥が、ツンとした。今度は、ごまかさなかった。


 これが。


 働きたくもない、痛いのも嫌な、元社畜の俺が、この世界で一番強い場所を作ってしまう――その、最初の一杯だった。

一杯のスープから、物語は始まりました。

次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。

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