第1話 目が覚めたら、知らない森でした
はじめまして、あるいは、おかえりなさい。
本作は、既存作『【作品名】』を、1話を短く読みやすく区切り直し、各話の終わりに次への“引き”を添えて再構成した【改訂版】です。第一章の内容は、旧版とほぼ同じ。第二章からは、このページで新しく続けていきます。
旧版から来てくださった方も、初めましての方も、どうぞ、あたたかいごはんの物語を、ゆっくり味わっていってください。
(この物語には、完結済みの旧版もあります。作者名から作品一覧をたどると、「(原題)【旧版・完結】」でご覧いただけます。URL:https://ncode.syosetu.com/n6381mm/ )
目が覚めたら、知らない森の中だった。
頬に触れる下草が湿っていて、鼻の奥に土と青葉の匂いが満ちている。頭上では、見たこともないほど大きな木々が枝を絡ませ、その隙間から差す光が、ゆっくりと地面の上を移動していた。
前世の最後の記憶は、会社の非常階段だ。深夜二時。片手にコンビニのおにぎり、もう片手にノートパソコン。おにぎりは冷え切っていて、味なんてしなかった。――いや、正直に言えば、あの頃はもう、何を食べても味がしなかった気がする。忙しくて、疲れていて、口に入れるのは「燃料」であって「食事」ではなかった。
だから、こうして草の匂いを「いい匂いだな」と感じられている今の自分に、俺は少しだけ驚いていた。
「……で、これが異世界、ってやつか」
声に出してみると、状況がすとんと腑に落ちた。困ったことに、俺は昔からわりとすぐ順応するタイプらしい。理不尽な残業にも、無茶な納期にも、気づけば体が慣れていた。社畜として磨いた適応力を、まさか死んだあとに発揮することになるとは思わなかったが。
立ち上がって、服の土を払う。体は軽い。前世よりずっと若く、健康な感触がある。
そして――なんとなく、わかった。
この体には、力がひとつ、宿っている。頭で考えるより先に、指先がその輪郭を知っていた。名前まで、勝手に胸に浮かんでくる。
俺の力は、【常温】。
触れたものを、ちょうどいい温度に保つ。それだけ。
……それだけ、である。
火は出ない。氷も出ない。雷も呼べないし、空も飛べない。ただ、熱いものをぬるく、冷たいものをぬるく、そのままのものをそのままに――「ちょうどいい」に整えるだけの力。
俺はしばらく無言で自分の手のひらを眺め、それから、盛大にため息をついた。
「……まあ、いいか」
悪くない、とすら思った。
なにせ、火を出せる奴は戦争に駆り出される。氷を出せる奴も、雷を出せる奴も、きっと同じだ。強い力を持って生まれた人間は、その力を「使え」と誰かに命じられる運命にある。前世でよく知っている構図だ。できる奴のところに、仕事は集まる。そして潰れる。
でも、「ぬるくする男」を戦場に連れて行きたい将軍は、この世のどこにもいないだろう。
つまり――俺は、働かなくて済む。
最高じゃないか。
誰にも期待されず、誰にも呼び出されず、静かに、のんびり暮らせる。痛いのは嫌だ。苦労も、もう二度としたくない。前世で一生分やった。今度こそ、あったかい飯を作って、静かに生きる。それだけでいい。それだけが、いい。
あとで村人から聞いた話だが、【常温】という技法は、この世界では「歴史上もっとも役に立たない力」として、酒場の笑い話のネタにされているらしい。曰く、「あれを授かった子どもは、生まれた瞬間に将来が決まる」。曰く、「せいぜい、宿屋の湯を冷ますくらいしか能がない」。
結構なことだ、と俺は思う。
みんなが笑って、誰も欲しがらない力。誰も俺に、それで戦えとは言わない。誰も俺を、便利な道具として使い潰そうとは思わない。前世の俺に、いちばん足りなかったものだ。「あいつに任せれば大丈夫」という信頼は、気づけば首を絞める縄になっていた。もう、あれはごめんだ。
最弱、大いに結構。
笑われるくらいが、ちょうどいい。
「よし。家を建てよう」
俺は決めた。目的が決まれば、あとは動くだけだ。この体は、そういうふうにできている。
◇
森を少し歩くと、ひらけた場所に出た。近くに川が流れていて、水の音が心地いい。ここに家を建てよう――そう思って川に近づき、俺は顔をしかめた。
水が、濁っている。
うっすらと紫がかった色をしていて、水面に泡が浮いては消えていく。手をかざすと、つんと鼻を刺す匂いがした。明らかに、まともな水ではない。
「毒か……」
ちょうどそのとき、川の下流のほうから、ひとりの老人が歩いてきた。近くの村の者らしい。彼は俺を見て目を丸くし、それから川を指さして、慌てたように言った。
「兄さん、その水は飲めんよ。触れれば腫れる。上流の沼にな、毒霧スライムってのが棲んでおって、そいつの毒が流れ込んどるんだ。この辺じゃ誰も、その川には近寄らん」
「なるほど。……ありがとうございます」
老人は「悪いことは言わん、飲むなよ」と念を押して、去っていった。
普通なら、ここで諦める。毒だと言われたものを、わざわざどうこうしようとは思わない。
でも、俺は――コンビニ飯で舌を殺した、元社畜だ。
「美味いもの」への執念だけは、前世の何倍も強くなっている。味のしない飯を、何年も、口に押し込み続けた。その反動なのか、この体になってからずっと、腹の底が疼いている。ちゃんとした飯が食いたい。深くて、複雑で、体の芯に染みるような、そういう味が。
俺は毒の水を、その辺に落ちていた木の器に汲んだ。そして、そっと、水面に指を触れる。
【常温】を、使う。
熱くもなく、冷たくもなく。ただ――発酵に、いちばんいい温度に。
根拠があったわけじゃない。ただ、なんとなく思ったのだ。この匂い。つんと鼻を刺すこの匂いは、腐敗の匂いというより、どこか、発酵の匂いに似ていないか、と。前世で嗅いだ、糠床や、味噌蔵の匂いに。
毒が、菌の仕業なら。
殺すんじゃなく、飼えばいい。
「三日、待ってみるか」
我ながら、諦めが悪い。
その間に、家の骨組みを立てた。木を組み、蔓で縛り、屋根に大きな葉を葺く。前世でキャンプの経験があったわけでもないのに、手は不思議とよく動いた。ときどき器のそばにしゃがみ、指を触れて、温度を確かめる。熱くなりすぎていたら少し下げ、冷えていたら少し上げる。ちょうどいいを、保ち続ける。
一日目の夜、器の匂いはまだ、つんと尖ったままだった。
二日目、匂いの角が、わずかにとれた気がした。
三日目、濁りが少しずつ沈み、底のほうに、うっすらと透明な層が生まれはじめた。
変化は、退屈なほど、ゆっくりだった。けれど俺は、その退屈が、嫌いじゃなかった。前世の時間は、いつも誰かに追い立てられていた。締め切り。着信。上司の足音。けれど、この器の中の時間は、誰にも急かされず、ただ静かに、確かに、前へ進んでいく。待つ、というのは、こんなにも穏やかなことだったのか。
俺は、待った。
森での、ひとりぼっちの時間が、もうすぐ終わる。……そのことを、このときの俺は、まだ知らなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
最弱スキル【常温】を授かった、元社畜のレン。痛いのも、働くのも嫌だから、あったかいごはんを作って静かに暮らしたい――そんな彼女のスローライフ、あらためて、ここから始まります。
次回、ついに、彼女の“最初の一杯”が生まれます。
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