第47話 帰りたいけど、帰れない里の話
時渡り羊と出会った、あの日から。
私とティルは、時々、ダンジョンの下見に行くようになった。
もちろん、無理はしない。ネルさんとの約束だ。危ないと思ったら、すぐ引き返す。少しずつ、少しずつ、安全を確かめながら奥へ。
目的は三つ。時渡り羊にもう一度会うこと。珍しい食材を集めること。そして――“いつかの隠れ家”にちょうどいい場所を探すこと。
その日も、私たちはいつもより少しだけ深い場所まで足を延ばしていた。
ダンジョン探索も、だいぶ慣れてきた。
私は繭を張って盾に。ティルは鼻で危険や食材を嗅ぎ分けて剣に。ヒノは――相変わらず狭い通路が苦手なので、お留守番。でも、その代わり、私たちがいない間、箱庭をしっかり守ってくれている。
道中、私はまた、たくさんの珍しい食材を採取した。ティルはそれを、「これはいいにおい」「これはだめ」と選り分けてくれる。もはや名コンビだ。
二人で宝探しみたいにはしゃぎながら、少しずつ、少しずつ奥へと進んでいく。
……この探索の時間が、私はけっこう好きだった。危険なはずなのに、ティルと二人なら、まるであたたかい遠足みたいだ。
でも、その日の探索は、思いがけず、ティルのいちばん深い傷に触れることになる。
◇
中層の奥。開けた大きな岩室にたどり着いたときだった。
天井が高くて、近くに地下水の湧く泉がある。空気も意外と乾いていて、じめじめしていない。
「……ここ、いいかも」
私は思わず呟いた。
住むにはちょうどいい場所だ。ここに【箱庭】を根付かせれば、あたたかい隠れ家が作れそうだった。もちろん、まだ“いつか”の話だけど。候補として覚えておこう。
私は【箱庭】を試しに、その岩壁に根付かせてみた。ここなら、あたたかい家が建てられそうだ。泉から水を引いて、ヒノの炎で暖を取って、ティルの鱗で床をあたためて。……想像するだけで、わくわくする。
「よし。ここを“隠れ家の第一候補”にしよう」
そう決めて、あたりを見回していたティルが、ふと岩壁の隅で何かを見つけて、首をかしげた。
「レン……これ」
それは岩に彫られた、古い印だった。ずいぶん昔のものらしい。風化して薄れているけれど、確かに、何か意味のありそうな模様。
ティルがその印をじっと見て――はっと息を呑んだ。
「……これ。りゅうりんぞくの、しるし」
「え?」
「まちがいない。ぼくの、さとの、しるしと、おなじ。……りゅうりんぞくが、このちかくに、いるか。むかし、いた、しるし」
私はその印を、まじまじと見た。竜鱗族のしるし。ティルの故郷の痕跡。
このダンジョンの深いところに、ティルの里があるのかもしれない。あの子を「出来損ない」と追い出した里が。
そういえば――と、私は思い出した。
ティルは以前、言っていた。里が上位のダンジョンへ移り住むことになって、その時、自分は置いていかれた、と。「足手まといはいらない」と。
……ということは。ティルの里は、まさにこういうダンジョンの奥に移り住んだのだ。この印は、その移動の途中で刻まれたものかもしれない。
つまり、このずっと奥に、ティルを捨てた竜鱗族の里が、今もあるのかもしれない。
私はそっと、ティルの様子をうかがった。
この事実は、この子にとって、あまりに重い。忘れたい過去が、すぐそこにあるかもしれない、なんて。
◇
ティルの横顔が、複雑に揺れた。
帰りたいような。二度と会いたくないような。故郷への両方の気持ちが、そこにあった。
……無理もない。里は、この子に名前の代わりに呪いを浴びせた場所だ。殴られ、飢えさせられ、置き去りにされた場所。二度と思い出したくないはずだ。
でも、それでも、故郷は故郷なのだ。生まれ育った場所への、断ち切れない思い。憎しみと郷愁が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、ティルの小さな胸を締めつけている。
私はティルの肩に、そっと手を置いた。
「……大丈夫。急がなくていい。会いたくなったら会えばいいし、会いたくなかったら会わなくていい。あなたが決めていいの」
「……うん」
ティルは小さく頷いた。まだ、心の整理はついていないみたいだった。それでいい。ゆっくりで。焦る必要はない。
こういうときに、無理に「向き合え」とか「乗り越えろ」とか言うのは、違うと思う。傷は時間をかけて、あたたかいものを少しずつ積み重ねて、ゆっくり癒えていくものだ。ちょうど、硬い肉を時間をかけて柔らかくするみたいに。
私はそっと【箱庭】から、あたたかいスープを取り出して、ティルに持たせた。
「はい。……あったかいの、飲んで。少し、落ち着こう」
ティルは両手で器を包んで、ゆっくりとスープを飲んだ。あたたかい湯気が、こわばっていたティルの表情を、少しずつほぐしていく。
あたたかいものは、心を整える。怖い記憶に触れてざわついた心も、一杯のスープで、少し落ち着く。……料理の力は、こういうときにこそ役に立つ。
しばらく、二人で、暗いダンジョンの中で、あたたかいスープを飲んだ。危険な地の底なのに、その一角だけは、まるであたたかい我が家みたいだった。
その静けさの中で、ティルが、ふと、里のことを話し始めた。




