第46話 時渡り羊と、空っぽの記憶
なくした、と思っていたものが、本当は、心のいちばん奥に、ずっとあった。……その事実は、前世で擦り切れた私の心を、じんわりとあたためた。
「……ティル。私、あの羊にもう一度会いたい。そして、あの出汁を飲んでみたい。……私のいちばん奥に眠ってる、味の正体を、ちゃんと確かめたいの」
ティルは、こくり、と頷いた。
「うん。ぼくも、いっしょに、さがす。レンの、なつかしい味」
その言葉があたたかくて、私はまた少し泣きそうになった。
「ティル。私、この羊の出汁を、いつか絶対料理する。……そのためにも、いつか、このダンジョンの奥に、私たちの“隠れ家”を作れたらいいな。毎日、この羊を探しにいける場所に」
ティルは、私の涙のあとを小さな手でそっと拭ってくれた。その小さな手のあたたかさが、冷えかけていた私の心を、そっと包んだ。
「レンが、いっぱい、ないたの、はじめて、みた。……でも、だいじょうぶ。ぼくが、ずっと、そばに、いるから」
そのたどたどしい、けれど精一杯の言葉に、私はとうとう我慢できずに、ティルをぎゅっと抱きしめた。
守られる子だと思っていた。でも、この子は、いつのまにか私を支えてくれる存在になっていた。……本当に逞しくなった。
「……ありがとう、ティル。……うん。私には、あなたがいるもんね」
「うん!」
「……さ。今日は帰ろう」
私は涙をそっと拭って笑った。
「……この羊にもう一度会うために。いつか必ず、また来よう」
その日は無理をせず、地上へ引き返した。
帰り道、ティルはずっと上機嫌だった。採ってきた光る苔や地底きのこを大事そうに抱えて、「これで、あたらしいりょうり、つくろうね」と何度も言った。
私も同じ気持ちだった。
“いつかの隠れ家”の目星がついた。誰にも邪魔されない静かな場所。珍しい食材の宝の山。そして――いつか、あの時渡り羊にもう一度会える場所。
ヒノへのお土産のお肉も、ちゃんと確保した。(深層の魔物の肉だ。きっと喜ぶ。)
地上に戻ると、街の灯りがあたたかく瞬いていた。ネルさんも、ジオじいさんも、ガーゴさんもいる、あの街。ヒノが留守番している、あたたかい箱庭。……ぜんぶ、私の大切な“帰る場所”だ。
「ただいま、って言える場所が増えるって。……いいものだね、ティル」
「うん。ぼく、“ただいま”、だいすき」
かつて帰る場所も名前もなかったこの子が、今は“ただいま”が大好きだと言う。
そのことがたまらなく愛おしくて、私はそっとティルの手を握った。
箱庭の扉を開けると、留守番していたヒノが、嬉しそうに駆け寄ってきた。ぐるぐる、と喉を鳴らして、私たちの無事な帰りを喜んでいる。
「ただいま、ヒノ。……はい、お土産。深層のお肉だよ」
ヒノは大喜びでお肉にかぶりついた。その無邪気な姿を見ていると、さっきの切ない気持ちが、少しずつあたたかいものに溶けていく。
時渡り羊の“懐かしい味”は、まだ手に入っていない。私の記憶の空洞も、まだ埋まっていない。
でも――今、このあたたかい家には、ティルがいて、ヒノがいて、あたたかい湯気が満ちている。
過去の“懐かしい味”を探すのも大事。でも、それ以上に、今、この瞬間のあたたかさを、ちゃんと味わうこと。それがいちばん大事なのかもしれない。
私はそう思いながら、三人(二人と一匹)ぶんのあたたかい夕食の支度を始めた。
深層で採れた極上の食材で作った、あたたかいスープ。ヒノへのお土産のお肉も炙って。ティルの好きな蒸し野菜も。
「いただきます」
二人と一匹の声が、あたたかい箱庭に響く。
あの時渡り羊の“懐かしい味”は、まだ手に入っていない。でも――今、目の前にあるこのあたたかい一杯だって、何十年後かに思い返せば、きっと私の“懐かしい味”になっているはずだ。
ティルとヒノと囲むこの食卓。このあたたかさ。……これが、私がこれから作っていく“懐かしい味”。
いつか、あの羊の出汁で前世の忘れた記憶を思い出すのもいい。でも、それと同じくらい、この今のあたたかさを、大切に積み重ねていきたい、と私はそう思った。
スープをひと口すする。あたたかくて、優しくて。……ちゃんと美味しかった。それだけで、今日という日は十分、いい一日だった。
深層への道は、まだ遠い。時渡り羊が現れた場所も、ほんの中層だ。あの羊がいつもいるとは限らない。行商人も言っていた。あれは“何かを思い出す準備ができたとき”に、ふらりと現れる、と。
でも――私は確信していた。
いつか必ず、また会える。そして、その出汁をこの手で料理して、私のいちばん奥の、空っぽの場所に眠る味の正体を、確かめる。
そのための“いつかの隠れ家”。この暗いダンジョンの奥に、あたたかい我が家を作る日が、きっと来る。
……もっとも。その“いつか”が、思ったよりずっと早く、しかも望まない形でやってくることを、このときの私はまだ知らなかった。
でも、今夜は、ヒノの待つあたたかい箱庭へ帰ろう。深層のお土産と、今日の不思議な出会いの余韻を抱えて。
“懐かしい味”の、正体は。
次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。




