第45話 “懐かしい味”がするという、羊
足を止めた私の視線の先に、それはいた。
通路の、ずっと先。
薄暗い闇の中に――一頭の羊が佇んでいた。
白い、もやのような体。角はねじれて、まるで時間そのものを巻き取っているみたいに見える。その姿はぼんやりと揺らいで、実体があるのか、ないのか判然としない。
「……時渡り羊」
私は思わず呟いた。間違いない。行商人が言っていた、あのまぼろしの羊だ。
こんな中層で出会うなんて。よほどの幸運か、あるいは――何かの導きか。
行商人の言葉が、頭をよぎった。
――あの羊に会えるかどうかは、腕でも運でもない。その人が“何かを思い出す準備ができたとき”に、ふらりと現れる。
……思い出す準備。
そういえば、私は最近、ずっと“懐かしい味”のことを考えていた。自分の空っぽの記憶のことを。あたたかい食卓のことを。前世の孤独のことを。
もしかしたら、その心の動きが、この羊を呼んだのかもしれない。
私の心が、ようやく“あの日の味”を思い出す準備ができた。……だから、この羊は今、私の前に現れた。
そんな気がした。
羊は私を、じっと見つめた。まるで、こちらの心のいちばん奥を覗き込むみたいに。
「レン……あれ」
ティルが私の袖を、そっと引いた。逃げよう、というのでも、狩ろう、というのでもない。ただ、その羊のあまりに静かで不思議な佇まいに、二人とも動けずにいた。
時渡り羊は襲ってこなかった。行商人の言ったとおりだ。ただ、じっと私を見ている。その澄んだ瞳が、私の心のいちばん奥の、いちばん深いところまで、静かに下りてくる。
不思議と、怖くはなかった。むしろ――懐かしいような。ずっと昔に知っていた誰かに出会ったような。そんな感覚があった。
あたりの空気が、しん、と静まり返る。危険なダンジョンのはずなのに、その一角だけが、まるで時が止まったみたいに、穏やかで、あたたかかった。
羊の白い、もやのような体が、ゆらり、ゆらりと揺れる。実体があるのか、ないのか。夢を見ているみたいだ。でも、その瞳だけは、はっきりと私を見つめていた。
その澄んだ瞳と目が合った瞬間。
ふわり、と。
どこからか、あたたかい匂いがした。
出汁の匂い。優しくて、懐かしくて――胸が締めつけられるような。飲んだこともないはずなのに、どこかで知っている気がする味の匂い。
「……なに、これ」
私の目から、理由もわからないまま、すうっと涙が一筋こぼれた。
空っぽのはずだった。私の懐かしい味の記憶なんて、ないと思っていた。
なのに――この匂いは、確かに私のいちばん奥のどこかを揺らしていた。
それがなんなのか、まだわからない。
でも、いつか必ず確かめる。この羊の出汁を、この手で料理して。私のいちばん奥に眠る、味の正体を。
「……行かないで」
思わず手を伸ばした。もっとあの匂いを嗅いでいたかった。あのあたたかい記憶の続きを。
でも、時渡り羊は静かに、闇の中へ溶けるように消えていった。
まるで、「準備ができたら、またおいで」と言うように。
あとには、あたたかい匂いの余韻と、私の頬を伝う涙のあとだけが残った。
「レン、だいじょうぶ……? ないてる」
ティルが心配そうに、私の顔を覗き込んだ。……そういえば、ティルにはあの匂いはしなかったのだろうか。行商人も言っていた。時渡り羊は“その人の”懐かしい味を返す、と。きっと、あの匂いは、私にしか感じられない、私だけの記憶の味だったのだ。
「……だいじょうぶ。ごめんね、びっくりさせて。……なんでだろう。私も、よくわからないの」
私は涙を拭いながら笑った。
飲んでもいない出汁の匂いだけで、こんなに心が揺れるなんて。私のいちばん奥の空っぽの場所に、本当は何か――大事な、大事な味の記憶が眠っているのかもしれない。ずっと思い出せなかった、あたたかい何かが。
あの羊は、それをそっと教えてくれた気がした。「あなたにも、ちゃんと懐かしい味はあるんだよ」と。
……なんの匂いだったんだろう。
優しくて、あたたかくて、少し甘くて。ミルクのような、バターのような。それでいて、どこか切ない。……思い出そうとすると、するりと指の間からこぼれていく。まるで、夢の続きを思い出そうとするみたいに。
でも、確かに、あの匂いは、私のいちばん深いところに届いていた。
母がいた頃の記憶なのかもしれない。私がまだ、うんと小さくて、誰かにあたたかいものを作ってもらえていた、ほんのわずかな時間の。……もう思い出せないくらい昔の。
もしそうなら、私にもあったのだ。“懐かしい味”が。あたたかい記憶が。ゼロじゃなかった。
その事実が、なぜだろう、私の心を少しだけ軽くした。前世でずっと、心の底に抱えていた“空っぽ”の重さが、ほんの少し和らいだ。
私はずっと思っていた。自分には、あたたかい記憶なんてない、と。だから料理人になったのだ、と。誰にももらえなかったから、せめて自分で作ろう、と。
でも――もしかしたら、私は“忘れていた”だけなのかもしれない。あまりに幼い頃の、あまりに短いあたたかさだったから、思い出せなくなっていただけ。




