第32話 おなかを空かせた人を、放っておけない
翌朝。その話をすると、ネルさんは、露骨に渋い顔をした。
「やめときなさい。時渡り羊が出るのは、相当深い階層よ。ベテランでも、生きて帰れない死地。……あなた、繭があるから、死にはしないでしょうけど。ティルちゃんや、ヒノを、そんな場所に連れて行くの?」
その一言に、私は、はっとした。
そうだ。私は繭がある。何があっても傷つかない。でも、ティルは違う。ヒノだって、まだ子どもだ。あの子たちを、危険な場所に連れて行くわけにはいかない。
「……そう、ですよね。すぐには行きません。もっと、ちゃんと準備してから」
「準備って、あなたね……」ネルさんは、ため息をついた。「まあ、あなたのことだから、止めても、いずれ行くんでしょうけど。……せめて、無茶はしないでよ。心配するんだから」
「……ネルさん。心配してくれるんですね」
「っ……! 当たり前でしょ! スープ、美味しいんだから。あなたにいなくなられたら、困るのよ!」
顔を真っ赤にして、ネルさんは、そっぽを向いた。……本当に、素直じゃない。でも、あたたかい人だ。
「……ねえ、ネルさん。ひとつ、聞いていいですか」
私は、ふと思いついて尋ねた。
「ネルさんの、いちばん懐かしい味って、なんですか」
ネルさんは、きょとん、として。それから、少し考えて、ふ、と目を細めた。
「……そうねえ。子どもの頃、熱を出したときに、母が作ってくれた、すりおろしリンゴかな。あの、ちょっとすっぱくて、甘い……あれを食べると、あ、私、大事にされてるんだって、思えたの」
その顔が、いつものしっかり者の受付嬢じゃなくて、ただの、昔の女の子の顔に見えた。
「……不思議ね。何十年も忘れてたのに。あなたに聞かれた途端、味まではっきり思い出したわ」
懐かしい味は、その人のいちばんあたたかい記憶と結びついている。
ネルさんには、それがある。ジオじいさんにも、あの行商人にも、たぶんある。
私には――やっぱり、思い出せない。
でも、その“ない”という事実が、なぜか今日は、そんなに寂しくはなかった。だって、私には、これからそれを作っていく相手が、いるのだから。
◇
その日、露店の片付けをしながら、私はティルに聞いてみた。
「ねえ、ティル。あなたの、いちばん懐かしい味って、なに?」
ティルは、うーん、と考え込んで、それから、ぱっと顔を上げて言った。
「レンの、はじめての、スープ」
「……え?」
「ぼくが、はじめて、レンに、もらった、スープ。あれが、ぼくの、いちばん、なつかしくて、だいすきな、あじ」
不意打ちだった。
この子にとって、いちばん懐かしい味は、遠い過去の思い出じゃない。つい、この前、私が初めてこの子に出した、あの一杯なのだ。
「レンは? レンの、いちばん、なつかしい味は、なに?」
ティルが、逆に聞き返してきた。私は、少し言葉に詰まった。
「……わかんない、んだ。私、それが。小さい頃、あんまり、あったかいごはんを食べた記憶がなくてね。だから、“懐かしい味”っていうのが、私にはないみたい」
ティルは、しばらく、きょとん、としていた。それから、真剣な顔で、私の手をぎゅっと握った。
「じゃあ、これから、つくろう。ぼくと、レンの、“なつかしい味”。まいにち、いっしょに、たべて。……いつか、それが、レンの、いちばんの、なつかしい味に、なるように」
不意打ちだった。二度目の。
この子は時々、こうやって、私のいちばん柔らかいところに、まっすぐ優しさを差し込んでくる。里で、あんなに傷つけられたのに。どうして、こんなに優しくなれるんだろう。
◇
その夜、私は、ティルとヒノのために、いつもより少しだけ手の込んだシチューを作った。
行商人が言っていた、“母親のシチュー”の話が、心に残っていたのかもしれない。私には、そういう記憶がないから。せめて、自分で作ってみたかった。あたたかくて、優しくて、いつまでも忘れられないような、そんな一皿を。
「わあ……いいにおい」
ティルが、目を輝かせた。
「これはね、“はじまりの味”。私と、ティルと、ヒノの。これから、たくさん増えていく思い出の、いちばん最初の一皿」
ティルは、ひと口食べて、ふにゃり、と幸せそうに笑った。ヒノも、器に顔を突っ込んで、美味しそうに目を細めた。
「……あったかい。ぼく、これ、ずっと、おぼえてる」
「うん。……いつか、あなたが大きくなって、何かにつまずいて、心が冷えたとき。今日のこの味を思い出して、また歩き出せるように。……そういう味になるといいな」
私はそう言って、ティルの頭を撫でた。
いつか、この子が大人になっても、今日のこのあたたかい味を覚えていてくれたら。そのとき、私がもう隣にいなくても、この味が代わりに、この子をあたためてくれる。
……料理人が残せるものは、たぶん、そういうものだ。あたたかい味の記憶。それは、時を越えて、人を支え続ける。ちょうど、あの時渡り羊の出汁みたいに。
それでいい、と思った。
懐かしい味は、遠い過去に探すものだけじゃない。これから、二人と一匹で作っていくものでもいい。
……それでも。いつか、あの羊の出汁を飲んでみたい。私の空っぽの記憶の、いちばん奥に、何があるのか。確かめてみたい。
そのためには、もっと力をつけて、ちゃんと備えて、いつか、あの深い、深いダンジョンの奥へ。
その思いを、そっと胸にしまって、私は今日も、あたたかい一杯を煮込むのだった。
一杯の出汁が、誰かの記憶を呼ぶ。
次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。




