第31話 その出汁は、母の味がした
厳しい冬が明けた。
私の蓄えと、街の支え合いのおかげで、この街はなんとか、飢えることなく春を迎えることができた。冷たい風がゆるんで、木々に新しい芽がふくらみ始める。
春のあたたかい日差しの下、私はまた、いつものように露店でスープを煮込んでいた。
その噂を聞いたのは、ちょうど、そんなのどかな昼下がりのことだった。
常連の年老いた行商人が、あたたかいスープをすすりながら、しみじみと話してくれたのだ。
「聖女様の飯は、たいそう美味い。……だが、わしが生涯でいちばん忘れられん味は、な。ずっと昔、深い森で迷ったときに、たまたま口にした、“時渡り羊”の出汁だよ」
「時渡り、羊?」
「ああ。深いダンジョンの奥深くにだけ現れる、まぼろしの羊さ。その肉で出汁をとるとな……不思議なことに、飲んだ者のいちばん懐かしい味が、するんだ」
私は、おたまを動かす手を止めた。
懐かしい味がする、出汁。
料理人として、その言葉には抗いがたい魅力があった。だって、出汁というのは、料理のいちばんの土台だ。その土台そのものが“食べた人の思い出”に化けるなんて。そんな食材、聞いたこともない。
でも、それ以上に――私の心をざわつかせたのは、“懐かしい”という、その言葉そのものだった。
◇
「わしは、あの出汁を飲んだとき、死んだ母親が、子どもの頃に作ってくれた、シチューの味がした。もう、顔も思い出せんくらい昔に死んだ母親のな。……涙が止まらんかったよ」
行商人は、目を細めて、遠くを見た。
「不思議なもんでな。時渡り羊ってのは、獲物を追わん。逃げもせん。ただ、じっと、こちらの目を見る。まるで、その人の心のいちばん奥を、覗き込むみたいにな。そうして、その人がいちばん忘れたくない味を、出汁にして返してくれる。……だから、時を渡る羊、と呼ばれておる」
「心のいちばん奥の、味……」
「そうさ。だから、あの羊に会えるかどうかは、腕とは関係ない。運でもない。……なんというか、その人が“何かを思い出す準備ができたとき”に、ふらりと現れる。そういう噂だ」
行商人は、スープを飲み干して、しみじみと言った。
「聖女様も、いつか会えるといいな。あんたのいちばん懐かしい味に」
懐かしい味がする羊。
その言葉が、私の胸の奥のほうに、こつん、と当たった。
私のいちばん懐かしい味。それは、いったいなんだろう。考えようとして――胸の奥が、しん、と静まり返るのを感じた。まるで、そこだけ、ぽっかりと空洞になっているみたいに。
◇
その夜。箱庭で。
ティルとヒノが寝静まったあと、私は一人、かまどの火を眺めていた。(ヒノのあたたかい寝息と、ティルの小さな寝息が、部屋に重なって聞こえる。それがなんだか、心地よかった。)
懐かしい味。
もし、私がその出汁を飲んだら――どんな味がするんだろう。
前世の私の、いちばん懐かしい味は、なんだろう。
……考えて、少し寂しくなった。思い出せなかったのだ。前世の、あたたかい味の記憶が、ほとんどない。
母は、私が小さい頃にいなくなった。父は、仕事で忙しかった。私は、幼い頃から一人で、ごはんを食べていた。コンビニのおにぎり。冷めた弁当。カップの麺。……そういう、味のしないものばかり。
誰かが、私のためにあたたかいものを作ってくれた記憶。「おかえり」と言って、湯気の立つ料理を出してくれた記憶。そういうものが、私にはほとんどなかった。
だから、たぶん、私は料理人になったのだ。自分がもらえなかったものを、誰かにあげたくて。あたたかい湯気を、誰かの前に置きたくて。
でも、今は違う。
今の私には、ティルがいる。ヒノがいる。私の料理を「おいしい」と言って食べてくれる者が。ジオじいさんも、ネルさんも、ガーゴさんもいる。もう、一人じゃない。
……それでも、なぜだろう。
“懐かしい味”という言葉は、私のいちばん古い傷を、そっと撫でるみたいに、胸に残り続けた。もらえなかったあたたかさ。埋まらなかった空洞。それを確かめてみたいという気持ちが、消えなかった。
その古い傷が、次の一皿を、私に作らせることになる。




