幕間 第五夜(前編) ティルの、こわい場所
幕間、最終夜。ティルが、また、生まれた里のことを、気にし始めます。……そして、レンの旅も、次の一歩へ。
その日、ティルの様子が、いつもと少しだけ違った。
夕食のあと、あたたかいお茶をすすりながら、ティルは、我が家の一角を、じっと見つめていた。……正確には、その壁の向こう。もっと、ずっと奥のほうを。まるで、何かの匂いを、そっと、たどるように。
「どうしたの、ティル」
私が聞くと、ティルは、鼻を、くん、と鳴らしてから、ぽつりと言った。
「……におい、するんだ。あっちのほうから。ぼくの、うまれた、におい」
◇
竜鱗族の、里。
ティルが生まれ育った、あの場所が、この最深部の、そう遠くない奥にあるらしい、と。前に一度、そんな話を、この子から聞いたことがあった。……鱗の厚さで、人の値打ちが決まる里。薄い鱗を持って生まれたティルが、「出来損ない」と呼ばれ、隅っこで、震えて暮らしていた場所。
私たちが、この地の底に、あたたかい我が家を築いてから。ティルの鼻は、日を追うごとに、その里の気配を、濃く感じ取るようになっていた。
「……ティルは。里に、帰りたい?」
私が、そっと聞くと。ティルは、少し困ったように、うつむいた。それから、小さな声で、言った。
「……わかんない。……こわい、から。でも」
「でも?」
「……ばあちゃんの、おはかが。あるんだ。……ぼくに、ごはんを、くれてた、ばあちゃん」
◇
お婆さん、の話は、前にも、聞いたことがあった。
里じゅうから「出来損ない」と爪弾きにされていたティルに、たった一人、あたたかいごはんを、作ってくれた人。里の隅で、素朴なシチューを、そっと差し出してくれた、ただ一人の味方。……その人は、ティルがまだ小さい頃に、亡くなってしまった。粗末なお墓が、里の隅に、ぽつんと、残されているのだという。
「ばあちゃん、しんじゃう、まえに。……いってた。おまえは、できそこないなんかじゃないって。いつか、おまえを、たいせつにしてくれる、ひとが、あらわれるって」
ティルの、小さな指が、湯呑みを、きゅっと握った。
「……ぼく、ばあちゃんに、いいたいんだ。……ほんとうに、あらわれたよって。かぞくが、できたよって。……しあわせ、だよって」
◇
私は、しばらく、何も言えなかった。
……この子は、ずっと、それを、胸の奥に、しまっていたのだ。あたたかい我が家で、笑って、ごはんを食べて。それでも、いちばん奥の、いちばん柔らかい場所には。まだ、報告できていない、たった一人の人がいた。
私にも、覚えがある。空っぽの記憶。懐かしい味。……確かめられないまま、胸の奥に、そっと、しまってあるもの。ティルの、里への想いは。きっと、私の、時渡り羊への想いと、どこかで、繋がっている。
私は、ティルの、あたたかい手を、そっと握った。
「じゃあ、行こうか。……ティルの、里に」
「……いいの?」
「うん。急がなくて、いいよ。ティルの準備が、ちゃんとできたら。そのときに、一緒に。……ヒノも、連れて」
この子の、いちばん柔らかい場所が、いま、静かに、震えていた。




