幕間 第四夜(後編) 焦らず、待つということ
私は、その場に、そっとしゃがんで、持ってきた携行のかまどで、あたたかいスープを、一杯煮た。
深層の奥の、静かな暗闇の中に、あたたかい湯気と、いい匂いが、ふわりと広がる。……ここは、時渡り羊の、すぐ近く。もしかしたら、この匂いを、あの羊も、どこかで嗅いでいるかもしれない。
「はい、ティル。あったかいの、飲もう」
ティルと二人で、あたたかいスープをすする。危険な深層の奥なのに、その一角だけは、まるで、あたたかい我が家みたいだった。
……焦らなくて、いい。私は、そう思った。
羊の出汁を料理して、私の"懐かしい味"の正体を確かめる。それは、いつか、必ずやりたい。でも、今すぐじゃなくていい。ちゃんと、心の準備ができたときに。……ゆっくりと。発酵と同じだ。急いで絞り出そうとすれば、ろくなことにならない。じっくり、待てばいい。
◇
「レン。……あの、ひつじの味って。どんな味なんだろうね」
スープを飲みながら、ティルが、ぽつりと言った。
「んー。……わからないんだ。飲んだことが、ないから。でも」
私は、少し考えて。
「たぶん、あったかくて、優しくて。……少し、切ない味。誰かが、私のために作ってくれた、いちばん最初の、あたたかいごはんの味。……そんな気がするの」
母がいた頃の記憶なのかもしれない。私が、まだ、うんと小さくて、誰かに、あたたかいものを作ってもらえていた、ほんのわずかな時間の。……もう、思い出せないくらい、昔の。
もし、そうなら。私にも、あったのだ。"懐かしい味"が。あたたかい記憶が。ゼロじゃなかった。……その事実だけで、私の心は、少しだけ、あたたかくなる。
「ぼく、レンが、そのあじに、あえるといいなって、おもう」
「うん。……ありがとう、ティル。きっと、いつか、会えるよ。……そのときは、あなたにも、飲ませてあげるね」
「うん! やくそく!」
私たちは、そっと、小指を絡めた。……いつか、あの懐かしい味を、みんなで囲む。その日を、約束して。
◇
その日は、羊には会えないまま、我が家へ引き返した。
でも、私の心は、不思議と、満たされていた。……会えなかった。それでも、いい。焦らず、この暮らしを続けながら、待とう。いつか、私の心が、ちゃんと"準備"できたとき、あの羊は、また、ふらりと、私の前に現れてくれる。
我が家に帰ると、ヒノが、ぐるる、と嬉しそうに駆け寄ってきた。
「ただいま、ヒノ。……今日は、羊には会えなかったけど。でも、いい探索だったよ」
ヒノは、こてん、と首をかしげてから、私の手に、あたたかい鼻先をすり寄せた。「おかえり」と、言うように。
◇
その夜。あたたかい夕食を囲みながら。
私は、窓の外の星空を見上げた。私が選んだ、穏やかな夜。
……いつか、あの羊の出汁で、私の、いちばん奥の、空っぽの場所に眠るものを、確かめる。それは、きっと、この物語の、いちばん大切な場面になる気がする。
でも、それは、まだ先の話。今は、この、あたたかい「ふつう」の暮らしを、ひと口ずつ味わおう。
時渡り羊も、いつか、きっと。私が、ちゃんと"準備"できたとき、その懐かしい出汁を、この手に届けてくれる。……それまで、私は、あたたかいごはんを作り続ける。この、地の底の、いちばんあたたかい場所で。
――懐かしい味を、探しに。その旅は、まだ、始まったばかり。でも、焦らなくて、いい。あたたかい暮らしを積み重ねながら、私は、ゆっくりと、その日を待つのだった。
いちばん大切なものほど、じっくり待つ。時渡り羊は、いつでも待っていてくれます。
★次回は「幕間 第五夜」。ついに、ティルの里へ、心が動き出します。 次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。




