幕間 第四夜(前編) 時渡り羊を、探して
幕間、四夜目。飲んだ者の、いちばん懐かしい味がするという、時渡り羊。レンは、その“懐かしい味”を、探しに行きます
地の底の暮らしが、すっかり落ち着いたある日。
私は、ずっと胸の奥にしまっていた、あることを思い出していた。
……時渡り羊。
深いダンジョンの奥にだけ現れる、まぼろしの羊。飲んだ者の、いちばん懐かしい味がするという、あの出汁。前に一度だけ、街にいた頃、中層で、ふらりと出会った。その澄んだ瞳を見た瞬間、私は、飲んだこともない出汁の匂いに、わけもわからず、涙をこぼした。
……あの羊に、私はまだ、会えていない。
行商人が言っていた。あの羊は、"何かを思い出す準備ができたとき"に、ふらりと現れる、と。だから、会えるかどうかは、腕でも、運でもない。……その人の、心の問題なのだ、と。
◇
「ねえ、ティル。……今日は、ちょっと、羊を探しに行こうか」
私がそう言うと、ティルは、こくり、と頷いた。
「じかわたりひつじ、だね。……レンの、なつかしい味の」
この子は、覚えていた。私が、あの羊に会って泣いたことも。「私の空っぽの記憶の答えを、いつか確かめたい」と言ったことも。……ティルは、私のいちばん柔らかいところを、いつも、そっと覚えていてくれる。
私たちは、ヒノを我が家に残して、深層の、まだ足を踏み入れていない一角へと、探索に出かけた。……我が家がある場所より、さらに奥。時渡り羊の生息域が、その辺りにあるらしい、と、ティルの鼻が告げていた。
◇
暗い通路を、慣れた足取りで進む。
深層の奥へ行くほど、空気が、しん、と澄んでいく。危険な魔物の気配も、ここまで来ると、まばらになる。まるで、世界の、いちばん静かな底に、少しずつ近づいていくみたいだった。
「レン。……このさきに、いる。あの、やさしいにおいの、ひつじ」
ティルが、鼻をひくつかせて、そっと言った。
私は、足を止めた。……この先に、時渡り羊がいる。ティルの鼻が、そう言うなら、間違いない。胸が、とくん、と鳴った。
でも――そこから、いくら進んでも、羊の姿は見つからなかった。
気配は、確かにある。あのやさしい匂いも、うっすらと漂っている。なのに、羊は、どこにもいない。まるで、私たちを、そっと避けているみたいに。あるいは――まだ、私の"準備"が、できていないみたいに。
◇
私たちは、しばらく、その一角を歩き回った。でも、やっぱり、羊には会えなかった。
「……いないね」
ティルが、少し残念そうに言う。
「うん。……いないね」
私は、あたりを見回して、それから、小さく笑った。
……不思議と、がっかりはしていなかった。むしろ、なんだか、腑に落ちる感じがあった。
「たぶん、まだ、なんだよ。ティル」
「まだ?」
「うん。……あの羊はね。"心の準備ができたとき"に、会えるんだって。だから、まだ会えないってことは。……私の心の準備が、まだできてないってこと」
私の、空っぽの記憶。いちばん奥に眠っているもの。……それを受け止める準備が、私には、まだできていない。だから、羊は、まだ姿を見せてくれない。
会えなくても、いい。……そんな気がして、私は、その場に、そっと、しゃがみこんだ。




