第九話 「侵食痕」
黒域が暴走していた。
空間が軋む。
崩壊したビル群の輪郭が揺れ、
存在そのものが不安定化していく。
少女は地面へ膝をつき、
苦しそうに呼吸していた。
その周囲だけ、
現実法則が壊れている。
「……っ、ぁ……」
涙。
白い指先。
震える肩。
どう見ても普通の少女だった。
なのに。
この都市全体が彼女へ同期している。
『固定率低下』
観測者の声が空へ響く。
『零番相位、
崩壊段階へ移行』
「止めろ!」
俺は叫ぶ。
誰へ向けた言葉か分からなかった。
観測者か。
榊か。
永久機構か。
あるいは。
この世界そのものか。
榊一臣が静かに口を開く。
「神代玲司。
お前は勘違いしている」
黒いコートが風に揺れる。
「零番相位は失敗作ではない」
「ふざけるな」
「むしろ完成形に最も近い」
怒りが込み上げる。
だが。
榊の目は本気だった。
「人類は不完全だ」
白百合部隊が静かに周囲を警戒している。
感情のない兵士たち。
再生された人間。
「恐怖によって壊れ、
死によって終わる。
だから文明は停滞する」
「それで人間を作り変えるのか」
「進化だ」
即答だった。
「死を克服した時点で、
人類は既に元の生物ではない」
その瞬間。
少女が苦しそうに顔を上げる。
黒い瞳。
その奥に、
何か別のものが混ざり始めていた。
「玲司……」
声が震えている。
「わたし、
消えちゃうのかな」
胸の奥が痛んだ。
何でだ。
出会って数時間しか経っていない。
なのに。
この少女を消したくないと思っている。
「消えない」
俺は即答していた。
「絶対に」
榊が小さく息を吐く。
「それが人間の欠点だ」
次の瞬間。
白百合部隊が一斉に動いた。
速い。
今度は俺を狙っている。
「玲司さん!!」
紗那の叫び。
通信復旧。
『避けて!!』
反射的に身体を捻る。
白い閃光が肩を掠めた。
激痛。
だが。
傷口が黒く再生していく。
榊の目が細くなる。
「やはり」
嫌な沈黙。
「お前も零番系列か」
空気が止まった。
「……何」
侵食痕が熱を持つ。
十四年前。
東京相位崩落事件。
俺だけが生き残った。
そして。
再生不能者になった。
「玲司さん、聞かないでください!」
紗那の声。
焦っている。
本気で。
「中央統制局はあなたを――」
ノイズ。
通信遮断。
榊が静かに歩み寄る。
「お前は知らないのか」
その目は、
観察者の目だった。
「東京相位崩落事件。
唯一の生存者。
再生不能者。
黒域侵食適合者」
侵食痕が脈打つ。
嫌な予感。
本能が拒絶している。
「神代玲司」
榊が告げる。
「お前は零番相位計画、
最初の成功例だ」
世界が止まった。
呼吸を忘れる。
少女が顔を上げる。
泣きそうな目で、
俺を見ていた。
「……うそ」
俺自身も、
そう思った。
だが。
左首の侵食痕だけが。
まるで答えるように、
静かに脈動していた。




