第十話 「最初の成功例」
耳鳴りが止まらなかった。
黒域の風景が揺れている。
違う。
揺れているのは俺の認識だ。
『お前は零番相位計画、
最初の成功例だ』
榊一臣の言葉が、
頭の奥で反響していた。
「……ふざけるな」
掠れた声。
だが榊は表情を変えない。
「記録上、お前は十四年前に死んでいる」
侵食痕が熱い。
焼けるみたいに。
「東京相位崩落事件。
死者約三万人」
観測者の巨大な眼が、
静かにこちらを見下ろしている。
「だが中央統制局は、
一人だけ“回収”した」
少女が震えながら俺を見る。
「玲司……」
俺は答えられない。
脳の奥で、
何かが軋んでいた。
思い出したくない記憶。
いや。
思い出せないようにされていた記憶。
「……俺は普通の人間だ」
「違う」
榊は即答した。
「お前は“死ねなかった”」
その瞬間。
視界が白く染まった。
◆
炎。
赤い空。
崩壊する東京。
泣き声。
悲鳴。
燃える高層ビル。
十四年前。
俺はまだ子供だった。
『固定率急低下!』
『零番適合体が暴走します!』
『停止しろ!』
白い研究室。
警報。
ガラスの向こうで、
幼い少女が泣いている。
いや。
違う。
もう一人いる。
床に倒れている少年。
黒い侵食痕。
左首。
『この個体は危険だ!』
『まだ人格維持しています!』
『あり得ない!』
誰かが叫ぶ。
その時。
幼い俺が、
ガラス越しに少女を見ていた。
泣いている少女。
そして。
彼女も俺を見ていた。
『……れい、じ』
少女の声。
世界が崩れる。
黒い光。
絶叫。
そして。
巨大な“眼”が開いた。
◆
「――っ!!」
意識が現実へ戻る。
呼吸が乱れる。
膝が震えていた。
少女が目を見開いている。
「思い出したの……?」
俺は答えられない。
だが。
分かってしまった。
俺はこの少女を、
初めて会った気がしていなかった。
理由は単純だった。
もう会っていた。
十四年前。
東京相位崩落事件で。
「……お前」
少女の瞳から涙が零れる。
「れいじ……」
名前を呼ぶ声が震えていた。
観測者が低く唸る。
『記憶同期を確認』
榊の顔から笑みが消える。
「まずいな」
初めて。
この男が焦った。
「零番同士の記憶共鳴が始まった」
黒域全体が脈動する。
空間歪曲。
ノイズ。
崩壊。
都市全体が呼吸しているみたいだった。
『黒域拡張率上昇』
観測者の巨大な眼が開く。
『境界維持不能』
「玲司さん!」
紗那の通信が割り込む。
『黒域が東京湾外周まで侵食を開始しています!』
まずい。
このままじゃ。
横浜だけじゃ終わらない。
少女が苦しそうに胸を押さえる。
「いや……」
空間が裂ける。
黒い亀裂。
そこから無数のノイズが漏れ出した。
消えた人々の声。
悲鳴。
泣き声。
怒号。
少女が叫ぶ。
「いやあああああッ!!」
その瞬間。
黒域が爆発した。
轟音。
世界が黒に染まる。
そして。
観測者の巨大な眼が。
初めて。
“笑った”。




