第五話 「観測者」
世界が軋んでいた。
空気ではない。
空間そのものが、
巨大な“何か”に押し潰されている。
黒域の空に立つ異形。
《観測者》。
少女はそう呼んだ。
全長二十メートルを超える漆黒の巨体。
ノイズで形成された輪郭。
中央に埋め込まれた巨大な眼球。
それが。
俺を見ている。
『未固定存在を確認』
声が脳へ直接響く。
耳じゃない。
頭の奥へ無理やり流し込まれる感覚だった。
左首の侵食痕が焼ける。
熱い。
いや。
痛い。
「玲司さん!」
通信機が一瞬だけ復旧する。
紗那だ。
背後では警報音が鳴り響いている。
『すぐに撤退してください! その反応値は危険域を超えて――』
ノイズ。
通信断。
観測者が一歩踏み出す。
その瞬間。
周囲の建物が消えた。
崩壊じゃない。
“存在が削除された”。
高層ビルが音もなく消滅し、
後ろの夜景が露出する。
理解が追いつかない。
「……ふざけてる」
こんなのは兵器じゃない。
災害だ。
少女が俺のコートを掴む。
「見ちゃだめ」
「何を」
「眼」
言われた瞬間。
観測者の巨大な眼球が開く。
視線が合った。
脳が凍る。
世界が反転する。
視界が白く染まった。
◆
――誰かが泣いていた。
炎。
崩壊した都市。
赤く燃える東京。
十四年前。
東京相位崩落事件。
『逃げろ、玲司!』
男の声。
誰だ。
思い出せない。
黒い空。
泣き叫ぶ人々。
そして。
巨大な“眼”。
あれは。
あの時もいた。
「――っ!」
意識が現実へ引き戻される。
呼吸が乱れる。
膝をついていた。
少女が俺の前へ立っている。
観測者の視線を遮るように。
「お前……」
観測者が止まる。
巨大な眼が少女を見る。
『識別』
低い声。
『零番相位反応を確認』
少女の表情が僅かに歪む。
初めてだった。
彼女が明確な感情を見せたのは。
「……いや」
『未固定核の存在を確認』
観測者の周囲で空間が歪む。
黒いノイズが渦を巻き始める。
まずい。
本能が警鐘を鳴らしていた。
あれは何かをする。
そしてそれは、
人間が耐えられるものじゃない。
「伏せろ!」
反射的に少女を抱き寄せる。
次の瞬間。
黒い衝撃波が街を貫いた。
音が消える。
光が消える。
世界そのものが塗り潰される。
視界の端で、
高架道路が消滅した。
崩壊じゃない。
存在が“なかったこと”にされていく。
「くそっ……!」
俺は少女を庇ったまま地面へ転がる。
侵食痕が悲鳴みたいに脈動していた。
視界が赤い。
黒域が、
俺を侵食している。
「玲司」
少女が俺の名を呼ぶ。
初めてだった。
彼女が自然に俺の名前を口にしたのは。
「逃げなきゃ」
「……どこへ」
「ここじゃない場所」
観測者が再び動く。
巨大な眼球。
その中心が、
ゆっくりこちらへ収束していく。
狙っている。
俺たちを。
『排除を開始』
その瞬間。
上空が閃光で裂けた。
轟音。
複数の飛行物体が黒域上空へ突入してくる。
永久機構の紋章。
重武装強襲部隊。
そして。
先頭機体の機首に、
白い百合の紋章が描かれていた。
少女の顔色が変わる。
「……来ちゃった」
「知ってるのか?」
少女は答えない。
ただ。
震えていた。
観測者ではなく。
その紋章を見て。




