第二話 「黒域の少女」
頭痛が消えない。
脳の奥を直接掻き回されているような感覚だった。
膝をついたまま、俺は荒い呼吸を繰り返す。
視界の端で黒いノイズがちらついていた。
左首の侵食痕が熱を持って脈動している。
少女は静かに俺を見下ろしていた。
「……お前は、何だ」
声が掠れる。
少女は答えない。
代わりに、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
裸足の足音はしない。
黒域内部では音そのものが曖昧になる。
いや。
この少女だけが、
現実から切り離されているようだった。
「来るな」
反射的に拳銃を抜く。
黒い大型自動拳銃。
永久機構制式《G-41相位穿孔弾仕様》。
本来なら、不死兵士の相位固定を破壊するための武器だ。
だが。
少女は銃口を見ても表情を変えなかった。
「それ、意味ないよ」
静かな声だった。
その瞬間。
背筋が凍る。
敵意じゃない。
理解不能なものを前にした時の、
本能的な恐怖だった。
「玲司さん!」
通信機から紗那の声。
ノイズ混じりだ。
「今、何が起きています!? 観測値が急上昇しています!」
「……生存者を発見した」
『生存者?』
紗那の声が止まる。
当然だ。
黒域中心部で、
正常存在を維持している人間などあり得ない。
少女が俺の通信機へ視線を向ける。
「その人、怖がってる」
「お前には関係ない」
「でもあなたも怖がってる」
図星だった。
俺は舌打ちする。
呼吸を整えながら立ち上がる。
少女との距離は五メートルほど。
近い。
近すぎる。
普通ならもっと警戒する。
だがこの空間では、
距離感そのものが狂っていた。
「名前は」
俺は問う。
少女は少し考えるように首を傾げた。
「……分からない」
「記憶喪失か」
「違うと思う」
少女は空を見上げる。
黒く欠けた空間。
歪んだ現実。
「最初から、なかったから」
その言葉に、
胸の奥がざわつく。
最初から存在しない。
それは黒域消失者の記録と一致していた。
存在情報が崩壊した人間は、
履歴そのものが消える。
家族も。
戸籍も。
記録も。
世界から欠落する。
まるで最初からいなかったように。
「……お前は黒域で生まれたのか」
「分からない」
少女はまた同じ答えを返す。
だが。
今度はその目が真っ直ぐ俺を見ていた。
「でもあなたを待ってた」
寒気。
侵食痕が再び脈動する。
頭痛。
耳鳴り。
そして一瞬。
視界の奥に光景が流れた。
燃える東京。
崩壊する高層ビル。
黒い空。
泣き叫ぶ誰か。
『玲司――!』
ノイズ。
映像が途切れる。
「っ……!」
頭を押さえる。
十四年前の東京相位崩落事件。
断片的にしか思い出せない記憶。
だが今。
少女を見た瞬間、
何かが繋がりかけていた。
「玲司さん、応答してください!」
通信が乱れる。
紗那の声にも焦りが混じっていた。
「相位深度が限界値を超えています! そこは危険です!」
「……ああ」
だが撤退はできない。
目の前の少女。
こいつは黒域の核心だ。
直感だった。
そして。
黒域では理論より直感の方が生存率が高い。
少女がふいに俺のコート裾を掴む。
冷たい指だった。
「来る」
「……何がだ」
少女は答えない。
代わりに。
崩壊した都市の奥を見つめていた。
その瞬間。
遠くで。
何かが動いた。
人影。
いや。
違う。
“人だったもの”だ。
黒いノイズを纏った輪郭。
崩れた肉体。
歪んだ顔。
それがゆっくりとこちらへ歩いてくる。
数は一つじゃない。
次々に現れる。
消失したはずの住民たち。
だがその目は空洞だった。
少女が小さく呟く。
「失敗した人たち」
黒い群れが、
一斉にこちらを見た。




