第一話 「再生不能者」
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「死ねない世界で、唯一死ねる男が戦争を終わらせる。」
『位相戦線』
第一話 「再生不能者」
音が消えた。
横浜第七相位区。
人口およそ十二万人。
その都市区画は、西暦二一四九年六月十八日午前二時十三分をもって、世界地図から静かに欠落した。
爆発は確認されていない。
火災もない。
崩壊も、倒壊も、悲鳴すら存在しなかった。
ただ。
街が消えた。
まるで最初から存在していなかったように。
だが奇妙なことに、道路だけは残っていた。
無人の高速道路。
無人の歩道橋。
無人の駅。
誰もいない。
いや。
“誰もいた痕跡がない”。
それが異常だった。
◆
俺が現地へ到着したのは、それから三時間後だった。
輸送機の後部ハッチが開く。
灰色の風が吹き込んできた。
「神代玲司特務観測官。作戦領域へ到達しました」
機械音声が響く。
俺は返事をしない。
返事を必要とする人間は、この機体には俺しかいないからだ。
黒い戦術コートの襟を上げ、崩壊区域を見る。
遠くに街灯が見えた。
だが光が揺れていない。
風がない。
音もない。
世界から“現実感”だけが削ぎ落とされたような空間だった。
「玲司さん」
背後から女の声。
振り返る。
白銀の識別ジャケット。
長い黒髪。
無機質な灰色の瞳。
雨宮紗那。
永久機構・相位観測局所属。
そして俺の監視役だ。
「黒域侵食濃度、観測値を超えています。内部で相位固定が解除される可能性があります」
「そうか」
「……怖くないんですか」
紗那は静かに言った。
感情の薄い声だった。
だが、その目だけは俺を見ていた。
俺は少しだけ考えてから答える。
「怖いよ」
紗那が僅かに目を見開く。
たぶん。
俺がそんなことを言うと思わなかったのだろう。
「でも」
俺は崩壊した街を見る。
「死ねない方が、もっと怖い」
◆
沈黙。
輸送機の駆動音だけが遠くで響いていた。
紗那は何か言おうとして、やめた。
その反応には慣れている。
人間は皆、不死を望む。
少なくとも、この世界では。
永久機構が《相位固定理論》を完成させてから、人類は死を克服した。
脳情報保存。
人格再構成。
肉体再生成。
人間は情報として管理され、
何度でも再生される。
戦争は変わった。
兵士は死ななくなり、
国家は崩壊しなくなり、
そして戦争だけが永遠に続くようになった。
その世界で。
俺だけが。
再生できない。
「……行きます」
俺は輸送機から降りる。
靴底が地面に触れた瞬間。
空気が変わった。
冷たい。
違う。
これは温度じゃない。
“世界の密度”が薄い。
感覚だけで分かる。
ここは正常な現実じゃない。
黒域。
相位そのものが崩壊した領域。
存在情報が固定されず、
人間が“消える”場所。
「通信状態を維持してください」
紗那の声が耳の通信機から響く。
「相位深度が危険域へ入った場合、即時撤退を――」
「無理だな」
「……理由を聞いても?」
「もう侵食されてる」
沈黙。
その直後、通信越しに小さく息を呑む音が聞こえた。
「玲司さん、今なんて――」
左首が熱い。
黒い痣のような侵食痕。
十四年前。
東京相位崩落事件から俺の身体に残り続ける傷。
黒域侵食痕。
俺は手袋越しにそこへ触れる。
脈動していた。
まるで何かが呼んでいるように。
◆
街は静かだった。
コンビニ。
歩道。
信号。
自動販売機。
全部残っている。
なのに。
人間だけがいない。
違和感が脳を削る。
ふと。
道路脇に落ちていた端末が目に入った。
拾い上げる。
画面はまだ点灯していた。
だが記録映像にはノイズしかない。
砂嵐。
その奥。
一瞬だけ。
白い影が映った。
『――どうして』
ノイズ。
『どうしてまだ』
通信が切れる。
俺は端末を落とした。
嫌な予感がする。
経験則だった。
黒域では直感の方が正しい。
理論は簡単に壊れる。
だから生き残るには、
“恐怖”を信じるしかない。
俺は歩き続ける。
崩壊区域中心部。
旧みなとみらい中央区。
そこだけ空が黒かった。
いや。
黒く“欠けていた”。
空間が歪んでいる。
視界が揺れる。
脳が現実認識を拒絶している。
だが。
その中心に。
少女が立っていた。
◆
白いワンピース。
裸足。
長い銀髪。
年齢は十代半ばほど。
少女は静かにこちらを見ていた。
逃げない。
怯えない。
まるで。
俺が来ることを知っていたみたいに。
「……生存者か?」
問いかける。
返事はない。
少女は首を傾げた。
その動作だけで、
言いようのない寒気が走る。
普通じゃない。
この黒域内部で、
正常に存在維持している時点で異常だ。
少女が口を開く。
「ねえ」
声は静かだった。
幼い。
だが妙に透明感がある。
「どうしてあなたは」
少女の瞳が俺を見る。
深い黒だった。
底が見えない。
「まだ“存在”してるの?」
その瞬間。
左首の侵食痕が激しく脈動した。
視界が揺れる。
耳鳴り。
そして。
少女の背後で。
空間そのものが裂けた。
黒い亀裂。
そこから無数のノイズが溢れ出す。
人間の声だった。
泣き声。
悲鳴。
怒号。
消えた十二万人の声。
「っ――!」
膝をつく。
頭痛。
脳が焼ける。
その中で。
少女だけが静かに俺を見下ろしていた。
「やっと見つけた」
微笑む。
その笑顔は。
どこか。
泣いているように見えた。




