誰かを待つ馬小屋
ご覧いただきありがとうございます。
本話で第1章は一区切りとなります。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
次回からは第2章に入ります。
今週は少し更新ペースを早めていましたが、来週からは通常通り、毎週火曜日更新に戻る予定です。
引き続きお付き合いいただけましたら嬉しいです。
鼻歌を歌いながら、
メイドは先へと進んでいく。
「おい。
どこへ行くんだ」
逃げるのに必死だった頭が、
少しずつ回り始めていた。
『馬小屋ですよ。
今日は私が当番なんで、
誤魔化せるっすよー』
……思い出した。
この女、
俺が蹴りを入れたメイドじゃねぇか。
「……なんで、俺を助ける」
ただの疑問だった。
『それはもちろん。
執事長だからっすよー』
メイドは、
踊るように振り返った。
意味が分からない。
ただ、
執事長と呼ばれたことだけは、
満更でもなかった。
『ほらほらー、行くっすよ』
そう言って俺の背後に回り込み、
背中をぐいぐい押し始めた。
「やめろ、押すな」
振り払うが、
うまくかわされてしまう。
『はいはい。
馬小屋の準備はちゃーんと済ませてあるので、
心配はいらないっすよ』
どんなに抵抗しても、
少しずつ前へと押し出される身体。
『そうだ。
知ってるっすかー?
馬小屋の噂』
「そんなことより、
早く離せ!」
俺の言葉は、
耳に届いていないのか、
メイドの話は止まらない。
それに、
こいつはこんな喋り方だったか?
『なんでも、
昔自殺したメイドの幽霊が、
現れるらしいんすけどー』
そこで言葉を切り、
メイドは耳元で囁いた。
『たまーに。
ロープと踏み台が揃ってるらしいっすよ。
まるで、誰かを待ってるみたいに……』
ごくり、と喉が鳴った。
背筋に、
冷たいものが這い上がる。
何かが、おかしい。
『さっ、ついたっすよー』
気がつけば、
目の前には馬小屋。
背後には、
笑みを浮かべたメイドと、
木々すらも飲み込むような深い闇があった。
もう、
戻る選択肢は存在しない。
意を決して、扉を開く。
錆びついた音が、
俺を歓迎しているように聞こえた。
恐る恐る、
足を踏み入れる。
まず目に入ったのは、
山になった藁と、
唯一、残されていた一頭の馬。
身構えていた分、
想像通りの光景に、胸を撫で下ろす。
だが、
視界の端に、
何かが映った気がした。
馬小屋の奥に、
目を凝らす。
「……ひっ」
そこにあったのは、
梁に吊るされたロープと、
小さな踏み台。
『じゃ、ごゆっくりー』
バタン。
慌てて扉に駆け寄り、
取っ手を引っ張るが開かない。
「おい、ふざけるな!
早く開けろ!」
全力で扉を叩き、
喉が痛くなるほど叫び続けた。
聞こえてくるのは、
俺が出す音だけ。
息を乱して、
ずるずると座り込む。
「出口……出口は……」
馬小屋を見回す。
窓は高い位置にあり、
踏み台どころか、馬に跨っても届かない。
「くそっ」
静まり返った空間。
しつこかった追っ手はいない。
今聞こえるのは、馬の吐息だけ。
安堵したいのに、
馬小屋の薄暗さに、
俺の目はすっかり慣れてしまっていた。
さっきよりも、
奥がよく見える。
ぎしっ。
梁にぶら下がったロープが、
揺らめいた気がした。
心臓が痛い。
早く逃げろと暴れている。
「俺の、せいじゃない。
俺は関係ない」
──うそつき。
どこからともなく、
聞こえてきた声。
「嘘じゃない!
お前が勝手に死んだんだろう」
そうだ。
あの時に辞めるなんて、
言い出さなければ。
いや、
その前に子どもなんて、
産もうとした。
「お前が勝手なことをするから……
全部自業自得だ!」
──子どもが泣いてるの。
「うるさい、うるさい!」
どんなに否定しても、
ロープから目が離せない。
──怖いなら、こっちにくればいいのよ。
肩に、重さを感じる。
後ろを振り向けない。
その時。
扉の向こうから、
かすかな声が聞こえた。
『……こっちだ』
『馬小屋の方を探せ』
追っ手の声だ。
助けを呼べば、
ここから出られるかもしれない。
そう思ったはずなのに、
喉は凍りついたように動かなかった。
額から大粒の汗が流れる。
自然と足が、
馬小屋の奥へ進んでいた。
──親子三人で、幸せになりましょう。
ここから逃げれば、
俺は幸せになれるのか。
手を伸ばし、
ロープを掴んでいた。
──だからね、ほら。
俺が最後に覚えていたのは、
小刻みに揺れる視界。
そして、
頭上で軋む音だった。
『団長、発見しましたが……』
部下に連れられて、
ガレスは馬小屋に入った。
小屋の奥には、
執事長だったものが、
梁からぶら下がっていた。
その頃。
コン、コン。
私の部屋を、
誰かがノックした。
相手は分かっている。
「どうぞ」
現れたのは、
あの若いメイドだった。
使用人たちに噂を撒き、
ベリンダを踊らせ、
執事長を馬小屋へ導いた女。
一人でよく、
あそこまでやったものね。
「任務、完了しやしたー」
右手で敬礼をして、
にかっと歯を見せた。
「執事長の誘導、ご苦労さま」
淡々と告げる私を無視して、
彼女はカインに距離を詰める。
「ボスの言われた通りにしましたよ!
褒めてくださいっすー」
ずいっと頭を差し出され、
引きつった顔をするカイン。
「よく頑張ったな。
あいつに蹴られたんだろ、
怪我は大丈夫か?」
慣れた手つきで頭を撫でると、
彼女の目は、宝石のように輝いた。
「このくらい平気っす!
それに……」
目を細め、
私に視線を流す。
「これでようやく、
ボスも執事長になれるんすね」
その言葉に、
カインは一瞬だけ戸惑いを見せた。
彼女は、
私へと向き直る。
「報酬、
期待してるっすからね」
まるで、
値踏みするような目。
……流石カインの部下ね。
「好きなだけ持っていきなさい。
この屋敷を壊すためなら、
いくらでも使っていいわよ」
私の表情は動かない。
彼女は満足そうに、
にぃっと笑う。
「了解しやした」
そう言って、
部屋を出ようとした彼女を、
背後から呼び止めた。
「待って、買い物を頼みたいの。
花を買ってきてもらえるかしら……リネット」
彼女は、
ぴたりと動きを止める。
「……承知しやした。
あと──」
振り返った彼女の顔は、
別人のように鋭くなっていた。
「その名前、大っ嫌いなんで。
気安く呼ばないでください」
肌がヒリつくほどの殺気。
私は笑顔で手を振ってあげる。
お互いに、
言葉はない。
最初に動いたのは、
彼女だった。
「……明日、
お届けにあがります」
音もなく扉を閉め、
立ち去っていった。
どっちも、敵に回したくねぇ。
カインは、
閉じた扉を見つめたまま、
心の中で震えていた。
翌日。
執事長の騒動が、
ようやく落ち着いた頃。
私は花を携えて、
馬小屋の前に来ていた。
白い小花と、
淡い青の花を束ねた花束。
扉の前に屈み、
そっと花を供える。
派手ではない。
けれど、死者の眠りを妨げない、
静かな花だった。
「少しは、気が晴れたかしら」
ここで何があったのか、
私は知っている。
彼女は、
人を疑うことを知らなかった。
呼び出しに応じてしまい──
『執事長……これ、は』
『お前の行き先を、
用意してやったんだよ』
そこにあったのは、
踏み台と、梁に吊るされたロープ。
『私、帰ります!』
執事長の横を通り過ぎ、
馬小屋から出ようとした。
……彼らは、それを許さなかった。
後から来た、
大勢のメイドたちに取り囲まれる。
その中には、
メイド長、ベリンダの姿もあった。
『早く死んでくれ』
誰かが、そう言った。
誰も、
彼女に手を出さなかった。
ただ、ゆっくりと壁際に追い込み、
彼女に“死”を選ばせようとした。
そして、
追い詰められた彼女は……
気分が悪い。
全てが終わった後なのに、
胸の奥を掻き毟りたくなるような不快感だけが残っていた。
「来世では、
母子ともに幸せになりなさい」
今度こそ、
奪われないように。
すべきことは終えた。
私は立ち上がり、
背を向ける。
柔らかな風が、
頬を撫でるように通り抜けた。
──ありがとう。
そう聞こえた気がした。
振り返るが、
目に映るのは花束だけ。
私の口角が、
少しだけ上がった。
あなたの顔、
やっと思い出せた。
泣いているところじゃない。
怯えているところでもない。
私に笑いかけてくれた、
優しい顔。
──最後まで、
素敵な女性だったわ。
「お嬢さま。
そろそろ、お屋敷に戻りましょう」
背後から、
聞き覚えのある声。
そこにいたのは、
シワひとつない燕尾服を着た、カインだった。
「……馬子にも衣装ね」
「おい、ちょっと待て。
意味は分からなくても、
馬鹿にされてるくらいは分かるぞ」
顔を引きつらせ、
じろりと睨まれる。
「ふふ、今日からよろしくね。
私の執事長」
私は、
屋敷に向かって歩き出す。
カインは呆れながらも、
最後は笑みをこぼした。
将来、
父と対立することになる。
それまでに、
力を蓄えておかなくてはいけない。
だから、
この先は──
「馬車馬の如く働いてもらうわよ。
カイン」
「なんでだよ!?」




