準備は終わった
ご覧いただきありがとうございます。
今週は屋敷編の佳境につき、少しだけ更新ペースを上げています。
本日分の続きは、明日更新予定です。
来週からは通常通り、毎週火曜日更新に戻ります。
どうぞよろしくお願いいたします。
三階の廊下を、
ガレスは大股で進んでいた。
踏みしめるたび、
重い靴音が床を叩く。
騎士団長として、
感情を表に出すべきではない。
分かっている。
分かっているが、
今だけは、怒りを押し殺せそうになかった。
公爵家当主、
ヴェインの執務室の前にたどり着く。
ガレスは足を止め、
一度だけ深く息を吐いた。
コン、コン。
「失礼いたします。
騎士団長、ガレスです。
入室の許可を」
しばしの沈黙。
「どうぞ」
聞こえてきたのは、
ヴェインの声ではなかった。
ガレスは眉を寄せたが、
そのまま中に入った。
「失礼いたします」
執務机の向こうでは、
ヴェインが書類にペンを走らせていた。
こちらを見ることもない。
手を止めることもない。
ただ黙々と、
書類にサインを続けている。
その傍らで、
白い仮面の男だけが、
静かにガレスへ顔を向けていた。
ガレスは執務机の前に立ち、
帳簿を置いた。
「こちらは、
執事長による横領の証拠となる裏帳簿です」
ペン先が、
紙の上を滑る音だけが響く。
「今回の件につきまして、
公爵閣下のご指示をいただきたく参りました」
それでも、
ヴェインは顔を上げなかった。
「……っ」
「本件に関する権限は、
騎士団長へ委任いたします。
お好きになさってください」
沈黙を破ったのは、
白い仮面の男だった。
その声だけが、
淡々と現実を処理していく。
ガレスの顔から、
騎士団長としての冷静さが消えていった。
「私は、
公爵閣下にお伺いしている」
殺気が、
その声に混じっていた。
仮面の男は黙った。
しかしヴェインは、
なおも書類へサインを続けている。
……何をしているんだ、この男は。
胸の奥に押し込めていたものが、
一気にせり上がってくる。
「指示をください。
公爵閣下」
返事はない。
「あなたの屋敷で起きたことです」
返事はない。
「あなたの娘のことです!」
怒号が、
執務室を震わせた。
それでもヴェインは、
ぴくりとも動かない。
ガレスは机を回り込み、
ヴェインの胸ぐらを掴み上げていた。
「いい加減にしろ!」
机の上で、
書類が乱れる。
ようやく、
ヴェインの手が止まった。
「いつまで現実から目を逸らす気だ。
あの子は、お前の娘だろう!」
ヴェインの瞳が、
ゆっくりとガレスへ向けられる。
そこに怒りはなかった。
悲しみもない。
ただ、
何も映していないような目だった。
「……好きにしろ」
吐き捨てられた言葉は、
それだけだった。
ガレスの拳が震える。
そのまま、
大きく腕を振り上げた。
──瞬間。
白い影が動いた。
鋭い一撃が、
横合いから飛んでくる。
ガレスは反射的に腕を上げ、
それを受け止めた。
重い衝撃が骨に響く。
白い仮面の男は、
何も言わずにガレスの前へ立っていた。
ただ、
そこにいる。
それだけで、
ガレスは息を飲んだ。
「……やめろ」
かすれた声が、
二人の間に落ちた。
ヴェインだった。
「もういい。
出て行け」
視線すら合わせないまま、
彼は再びペンを取る。
ガレスは、
すべてを飲み込むように歯を食いしばった。
「……失礼、いたしました」
絞り出すように告げると、
拳を固く握り、踵を返した。
やっと、
お嬢さまを地獄から救い出せる。
その許可を手に入れたはずなのに、
歩くたびに鎧が軋む音が、
酷く耳障りに感じた。
「それに……」
ガレスは足を止める。
最近の屋敷は、
何かおかしい。
ラドラの蛮行。
メイド長の失踪。
そして、
いつの間にか机に置かれていた裏帳簿。
「まさか、アモリスお嬢さまが?」
口をついて出た言葉に、
ガレスは、ふっと鼻を鳴らした。
馬鹿な。
あの方は、まだ幼い子どもだ。
そう切り捨てるように、
再び前を向く。
その時にはもう、
ガレスの顔は騎士団長のものに戻っていた。
私は自室の窓辺に立ち、
外を眺めていた。
昼間の青空が嘘のように、
空は赤く染まり、
屋敷の影を長く引き伸ばしている。
不吉な光景に見えてしまうのは、
これから起こることを知っているからだろうか。
背後から、
カーズの声がした。
「お嬢さま。
明日は朝から忙しくなります。
今日は早めにお休みになってください」
振り返った先にいたカーズは、
朝と変わらず、騎士の顔をしていた。
「わかった!
……そうだ、カーズ」
机に駆け寄り、
引き出しからあるものを取り出す。
「はい。
プレゼント!」
差し出したのは、
一通の手紙。
表には、
拙い字で『カーズへ』と書かれている。
その左右には、
小さな花の絵が描いてあった。
「お嬢さま……
ありがとうございます!」
「はずかしいから、
ひとりのときによんでね」
両手で手紙を抱え、
カーズは目を潤ませている。
そんな彼の姿に、
胸の奥が、くすぐったくなる。
簡単に表情が変わるなんて、
騎士と言っても、やっぱり子供ね。
「これは、星とぶどうですか?
上手に描けていますね」
……微笑ましく、
思っていた時もありました。
石化した私は、
顔面にヒビが入った。
「カーズはくいしんぼうなんだね。
おはなの・どこが・ぶどうとほしに、
みえるのかなー」
私は微笑んでいた。
それはもう、
これでもかってくらいの笑顔。
だって、
カーズよりお姉さんだもの。
……許さないけど。
青くなったカーズの手を引っ張り、
部屋の外へと追い出そうと試みる。
「もうねるから、
はやくでていって」
カーズは私に言われるがまま、
部屋の外へと押し出されてくれた。
「……はい。
すみませんでした。
おやすみなさい」
扉を閉める直前まで、
しょんぼりした顔をしていたカーズ。
あれで、
仕事ができるんだろうか。
ガタッ、ガタッ。
一人きりのはずの室内。
音は、
クローゼットから聞こえていた。
誰かは分かっている。
聞こえよがしに、
深いため息をつくが、返事はない。
「さっさと出てきたら?」
物音が止まり、
クローゼットの扉が、ゆっくりと開いていく。
「ぶふっ、おまっ……
一時間かけて描いた絵が、
食いもんと星って……あはははは!」
姿を現したのは、
腹を押さえ、
目に涙を滲ませるカインだった。
「笑いすぎ」
冷たく釘を刺す。
「いや、でもよ……
ぐっ……っ……ぶふぉ!」
イラッ。
「えいっ!」
「いだっ!」
脛を狙って、
思いっきり蹴ってあげた。
あーすっきり。
カインも可愛い子に蹴られて、
本望だよね。
「容赦ねぇな。
そんなんじゃ嫁の貰い手なんて、
見つかんねぇぞ」
もう一度足を上げて、
カインの脛に狙いを定める。
「分かった、分かった。
ちょっと落ち着け!」
なんだかムカつくけど、
睨みつけたまま、足は下ろした。
「この後はどうする気だ」
「今更ね。
準備は終わった。
後は、執事長に頑張ってもらいましょう」
窓辺へ顔を向ける。
真っ赤だった夕暮れは、
すでに黒く塗りつぶされていた。
木々の隙間では、
いくつもの光が、
彷徨うように揺れている。
屋敷の内外では、
大勢の騎士が、
執事長の捜索に当たっていた。
「くっ、なんでこんなことに」
長年勤めた知識を使って、
人の目をかい潜ってきたが、
心身ともに限界に近かった。
最初は、
しらばっくれるつもりだった。
ベリンダだけじゃない。
横領だって、
ばれるはずがなかった。
隠していたはずの裏帳簿は、
いつの間にか騎士団の手に渡っている。
媚びを売っていた使用人たちも、
手のひらを返したように、
俺を捕まえようとしていた。
身体が鉛のように重い。
手足を引きずりながら、
人けのない場所を選んで逃げ回っていた。
「はぁ……はぁ……」
早く逃げないと。
この屋敷に隠れ続けるのは、
もう限界だ。
『いたぞー!』
「……っ!」
感覚すら失われつつある足を引きずり、
咄嗟に窓から飛び出す。
『あれっ?』
運悪く、
一人のメイドが立っていた。
『執事長じゃないですか。
こんなところで、どうされたんですか』
……こいつ。
何も知らないのか?
『こっちだ!』
背後から聞こえた怒声に、
肩が跳ね上がる。
身体が凍りついた。
残されたのは、
荒い息と、耳をつんざく鼓動だけだった。
『……長、執事長!』
メイドの声で、
我に返って顔を上げた。
相手は心配そうに、
こちらを窺っている。
『ひとまず、隠れていてください。
私が誤魔化しときますから』
「……本当、か?」
そう返事をしたのに、
メイドの言葉が理解できなかった。
『早く、早く』
わけの分からないまま、
木の影に追いやられた。
入れ替わりで、
すぐに騎士が現れる。
『すみません。
こちらに執事長が来たと思うのですが、
どちらへ逃げていったか分かりますか』
『し、執事長なら……
あっちに』
メイドは怯えた表情で、
俺がいない方向を指差した。
『ご協力、感謝いたします。
夜道は危ないので、
気をつけてお戻りください』
騎士は頭を下げ、
メイドが指差した方へと走っていった。
……助かった、のか?
遠のいていく追っ手の声に、
身体の力が抜けていく。
膝が限界を迎えかけた時、
メイドが俺の前に立った。
『さっ、逃げますよ』
にかっと歯を見せたその顔に、
先ほどまで浮かべていた怯えは、
もう、どこにもなかった。
彼女は、
ひどく楽しそうに笑っていた。




