天にとどく魔法
「今度こそ、ここから去ろ──えっ!?」
そう促した矢先、俺はレイナが信じられないものを見るような表情で、大きく目を広げて固まっているのに気づく。俺も慌てて視線を彼女の視線の先に合わせ、眼下の異様な光景に凍り付いた。
先ほどまでは朽ちた屍のように小さくうずくまっていた伯爵に異変が起きたからだ。
このまま消え去ってしまうのではないかとさえ思えたその体から、黒い瘴気が吹きだす。その瘴気に包まれたどす黒い存在が、そのままゆっくりと立ち上がり、
『グウ嗚呼ァアアアアアア阿アア嗚呼アアッ!』
巨大で醜悪な声で、再び吠えた。
伯爵の髪は全て朽ち果てていたが、そんなものはもはや必要がないのだろう。それは膨大な呪いを元に新生した魔獣であった。吹き荒れる魔力は、今までの比ではない。
〝幻獣〟。きわめて希少な例ではあるが、時を経た魔獣の中には寿命の拘束から外れ、さらに上の存在に昇華する存在がいる。それは幻獣として、神獣に次ぐ種として分類されていた。
「まさか伯爵がここまでの呪いを蓄えていたなんて」
レイナは悲鳴に近い声をあげる。
『ギウ嗚呼ァアアアアアア阿アア嗚呼アアッ!』
伯爵はおぞましい雄叫びをあげながら、再び俺たちのもとに迫ってきた。
「くそう、逃げられない……」
もはや打つ手はない。どんな魔法具をもってしても、幻獣を倒すすべなどないからだ。だが逃げ切れるとは思えない。
俺の全身を絶望が襲う。それは明かりのない漆黒の闇に包まれるような、初めて感じる感覚だった。その闇の中で、レイナの凛とした声が響いた。
「──イマジンドレスよ、その拘束を解き、真の姿を示しなさい」
『がはは、了解』
突如レイナを中心に白銀の魔力が吹き荒れる。ワンピースは粒子となって光の中に消え去り、白と青を基調とした美しいロングドレスに姿を変える。
突然のことに、俺は何が起こったのか認識できない。だがあのドレスには見覚えがあった。
清楚にして華麗、その二つを頂点に近い形で調和させた、この世のモノとは思えないほど美しいドレス。それは先日、バルコニーでみた〝白麗聖衣〟そのものだった。
「信じられない、あのイマジンドレスの正体が、〝白麗聖衣〟だと!?」
魔法の糸で編み上げた衣装は、持ち主の魔力で形を変化させることができると聞いたことがあったが、あの下品なイマジンドレスがそうだったとは、思いもしなかった。
いつの間にかエルフ化のイヤリングの効果も消え失せ、レイナの輝くばかりの黄金の髪が風になびいている。全ての絶望を遥か彼方に吹き飛ばすようなその姿は、地上に舞い降りた女神のようだった。詠唱を始めるレイナの威風に圧倒されたのか、幻獣も微動だにできず、レイナの姿に釘付けになっていた。
「血の契約に従い、始祖王ロランが末裔、レイネシア・フォン・ローラントが宣言する」
呪文の詠唱と共にレイナの周りの魔力の濃度が、一段と増す。今までとは次元違いの魔力量。それはまるで王国中から魔力の全てを汲み上げているような、すさまじい魔力の渦だった。
「我ら、至上の歓喜の声と共に、全ての業を浄化する天の扉を、共に叩かん」
衝撃の事態に、俺は直感する。まさか、眼前の行為は、魔法の奇跡の顕現なのか!?
「──〝天位魔法〟──」
レイナがそう宣言するとともに、彼女を取り巻いていた濃密な魔力の渦が、空を向けて飛び上がる。刹那、目の前に現れたのは、まさに天にとどくかと思うほど巨大な白き光の柱だった。
天にとどきうる魔法、まさか!?
まるで時が止まったごとき光景。ローラント王家が秘匿していた天位魔法が起こす奇跡に、俺はまばたきひとつできずにいた。
「〝浄化する天からの御光〟(リサナウト・グリトニル)」
レイナが魔法の真名を開放すると同時に、天に弾かれたかのように光の柱が舞い戻り、幻獣を直撃する。幻獣は一瞬のうちに天の光に包まれ、声をあげることすらできないまま焼き払われてしまった。瞬く間に消えた幻獣の姿。
あっけないと言えば、あまりにあっけない。天の魔法が起こす奇跡の前では、人が生み出したどんな呪いも、存在しないも同然なのか。
──これが王家の天位魔法──
俺は驚きのあまり、声すら出ない。だがどういうことだ? レイナが言うには、現在の王家には天位魔法がないという話だったはず。
レイナのロングドレスが再び粒子となって消え去り、元のワンピース姿に戻ると、レイナはその場に倒れこんでいた。
「大丈夫か、レイナ?」
「……うん、大丈夫」
駆け付けた俺に対して、わずかに微笑むレイナ。様子を見る限り、何とか立てそうだ。どういうことかはわからなかったが、幻獣の危機は去った。何が起こったのかを聞くのは、あとでいい。




