狂気からの生還――最高指揮官の15年
マイクたちに「肉の言い訳」で加勢し、島民を鮮やかに納得させた最高指揮官。彼の内に秘められたこれまでの歩みは、マイクたちの死闘に勝るとも劣らない、執念と奇跡の連続だった。
彼の名は、織田。かつては優秀な気象学者だったが、網走の山奥に潜むマイナス物質の「淀み」を調査中に直撃を受け、重度の『マイナス物質過敏症候群(霊感)』を発症。脳の神経系を完全に狂わされ、網走駅前でマイクに掴みかかった時は、精神をウラモドシの恐怖に乗っ取られた完全な「狂人」だった。
駅前で警察官に連行された織田は、網走警察署の頑丈な「留置所」の檻の中に放り込まれた。
だが、その逮捕こそが彼の命を救うことになる。網走警察署の留置所は、分厚いコンクリートと鉄格子、そして凍結防止のために「常にスチーム暖房の熱い水道水(真水)」がパイプを循環している、頑丈極まりない「高密度の箱」だったのだ。
その夜、裏山(星の祠)でマイクがグレーの岩を粉砕し、網走全体がウラモドシの恐怖から解放された時、留置所の箱の中にいた織田だけが、精神の完全な崩壊(乗っ取り)を免れ、難を逃れることができた。
「俺は……一体何をしていたんだ……?」
翌朝、釈放された織田の脳裏には、狂っていた間に知覚した「マイナス宇宙の真実」と「ウボサスラ0-01」の悍ましいビジョンが、確かな記憶として刻み込まれていた。
織田は自力で本州へ向かい、着の身着のまま東京へと移動した。世界の裏返しが、次は日本の首都から始まることを、元気象学者の脳が完全に予測していたからだ。
そして数年後、あの『東京決戦』が勃発する。
東京の街がバキバキと裏返り、巨大なウラモドシの腕が人々を貪る地獄絵図の中、織田は頭を抱えて街を彷徨っていた。再び脳裏にマイナス物質の淀みが侵入し、かつての狂気が彼を飲み込もうとしていた。
その絶望の瞬間、東京の空が激しく鳴動した。
中国の科学が誇る人工雨発生装置――『レイン・メイカー』が起動したのだ。
ザーーーーーーッ!!!
東京駅を中心に、激しい高密度の人工雨が街全体を包み込んだ。
その質量を孕んだ大雨が、織田の頭部と全身を激しく叩きつけた瞬間、彼の脳内にこびりついていたマイナス物質の残滓が、文字通り綺麗に「洗い流されて」いった。
「……あ、頭が、軽い。世界が……見える……!」
レイン・メイカーの雨によって、織田は100%の『正気』を完全に取り戻した。澄み渡る知性を取り戻した彼の目に映ったのは、ヘリやボートで南方へと敗走していく、マイクやシゲさんたちの姿だった。
「彼らを追わなければ、人類に明日はない」
織田は壊滅していく東京の港へと走り、奇跡的に無傷で残されていた、世界一周も可能な最高級の「遠距離航海用大型ヨット」に飛び乗った。
幸いにも、海は100%の「水」のバリアだ。ウラモドシの異形たちは、海の上までは追ってこられない。
織田は一人でヨットの帆を張り、荒れ狂う太平洋へと舵を切った。羅針盤と、自分の脳が記憶している「質量の淀みが最も少ない綺麗な場所(バリアのある場所)」だけを頼りにした、命がけの孤独な大航海。
数日間の漂流の末、ヨットの甲板から水平線を見つめていた織田の目に、燦々と降り注ぐ太陽光と、透き通るような美しい海に囲まれた「離島」が飛び込んできた。
「ハァ、ハァ……辿り着いたぞ……!」
浜辺にヨットを座礁させ、泥だらけの姿で這い上がってきた織田を、島を守っていた佐藤陸曹やクラウス、そしてマイクたちが驚愕の表情で出迎えた。
「おい、お前……網走駅前のあのキチガイか!?」マイクが目を見開く。
織田は砂まみれの顔を上げ、かつての狂気は微塵もない、冷徹で知的な、美しい笑みを浮かべて言った。
「私の名は織田。元気象学者だ。……ウラモドシを完全に滅ぼすための『戦略』を、君たちに授けにきた」
それから15年間。織田はその圧倒的な知性と気象学の知識、そして狂気の中で見てきたウラモドシの行動パターンを元に、島民を統率する『最高指揮官』として、マイクたちのバックアップを完璧にこなしてきたのだ。
コンロの煙を見つめながら、最高指揮官・織田は静かに眼鏡を押し上げた。
「マイク。君たちが前線で戦えるのは、あの東京の雨が私を救ってくれたからだ。さあ、明日はいよいよ、アメリカの地へ、我々のヨットとアントニオの船で殴り込みをかけるぞ」
「ああ、頼りにしてるぜ、指揮官!」
マイクは形見のライフルを強く握りしめた。網走の留置所、東京の人工雨、そして太平洋の孤独な航海――。全ての奇跡が、今この離島で一つの太い線へと繋がり、人類の反撃の準備は完全に整ったのだった。




