紫煙の力と分析
「ハァ、ハァ……! 全員いるか! 早く入れ!」
シゲさんが公民館の頑丈な鉄扉をこじ開け、マイクたちは転がり込むようにして中へ滑り込んだ。すかさずチェンとハンスが内側からカギを閉め、重いスチール机を何台も引きずってきて扉の裏へバリケードを築く。
ドンドン! ドン! バキバキバキッ……!
直後、鉄扉の向こうから、あの「後ろ向きに走る異形たち」が肉体を激しくぶつけるおぞましい音が響いてきた。
「マイク、エミリー、大丈夫ですか!?」
リンが青ざめた顔で二人を気遣う。エミリーはマイクの腕の中で激しく震えながら、恐怖で大きなお腹を強く抱きしめていた。
「おい、窓の隙間から何かが入ってくるぞ!」
ハンスが鋭い声を上げた。
外の猛吹雪とともに、窓のサッシのわずかな隙間から、まるで生き物のようにうごめく「グレーの霧(淀み)」が、室内の床を這うように侵入してきたのだ。その霧が近づくだけで、部屋の温度が急激に下がり、マイクたちの心にどす黒い鬱病のような絶望感が押し寄せてくる。
「舐めるなよ、ゴミ屑どもが……!」
シゲさんが怒りを込めて、ポケットからセブンスターの箱を取り出した。ジッポライターで火をつけ、深く息を吸い込むと、紫煙をそのグレーの霧に向けて力強く吹きかけた。
フゥーーーッ……。
驚くべきことが起きた。シゲさんが吐き出したタバコの煙が触れた瞬間、床を這っていたグレーの霧が、まるで悲鳴を上げるように激しく弾け飛び、結合を狂わされて霧散したのだ。
「……効いてる!? シゲさん、タバコの煙が効いてるぞ!」
マイクが目を見張る。
「有機物の不完全燃焼による『炭素粒子』と『熱運動』だ!」
生物学者のエルザが、ハンスの傍らで確信に満ちた声を上げた。
「密度ゼロの彼らの結合は非常に脆い。熱を持った無数の炭素粒子が彼らの構造を物理的に引っ掻き回し、擬態の結合を狂わせているのよ!」
「なるほど。今のうちにここにある資料を調べるぞ。シゲ、悪いが煙幕を頼む!」
ハンスは近くの書架から、埃を被った網走の古い「郷土資料」や「星の祠の伝承」と書かれた古い和綴じの文献を引っ張り出し、机の上に広げた。
「ハンス、あなたまさか……」エルザが夫の顔を見る。
ハンスは静かに頷き、マイクたちを見つめた。
「隠していてすまない、マイク。実は私はただの旅行者ではない。数年前、テキサスで『重さのないグレーの岩』が政府に回収された事件の後、ドイツ、アメリカ、そして日本が水面下で結成した『マイナス物質宇宙極秘共同研究チーム』のメンバーなんだ。私はその物理調査のために、日本側の要請でこの網走へ派遣されていた」
「じゃあ、ジョージが言っていたことは本当だったんだな!?」マイクが叫ぶ。
「そうだ。テキサスの事件を契機に、我々の日米独共同チームは宇宙の真実に辿り着いた」
ハンスはチェンが広げた古い絵図――江戸時代に空から降ってきたグレーの石と、後ろ向きに歩く村人たちの『ウラモドシ』の伝承――と、自身の持っていた研究データを照らし合わせながら一気に語り出した。
「私たちの宇宙(プラス宇宙)が誕生したビッグバンの瞬間、全く同じ質量を持ちながら、密度が完全に『ゼロ』である『マイナス物質宇宙』が双子として誕生した。この2つの宇宙は、宇宙の深淵に存在する超巨大ブラックホール『ウボサスラ0-01』の凄まじい引力を起点にして、まるでアメリカンクラッカーのように往復・交差運動を繰り返しているんだ」
ハンスの冷徹な知性が、世界の裏側のルールを解き明かしていく。
「マイナス宇宙は密度がゼロだからこそ、よりウボサスラの引力に近く、常に先行して動く。宇宙同士が直接衝突することはないが、交差する瞬間に、その『淀み』が地球規模の大事故や大量絶滅を引き起こす。それがこの地で起きている『ウラモドシ』の正体だ。そして、このマイナス物質の淀みに入ると、人間は強烈な寒気や鬱病を発症し、そこに長く居すぎると脳の神経系が変質して『マイナス物質過敏症候群』……いわゆる世間で言う『重度の霊感』を発症してしまう」
ハンスの話を補つように、妻のエルザが古い文学者の名を口にした。
「かつて怪奇小説を書いたハワード・フィリップス・ラヴクラフトも、重度の『マイナス物質過敏症候群』の患者だったのよ。彼は脳内の狂気を通じて、実際に宇宙の深淵に蠢くマイナス宇宙の真実――ウボサスラを知覚し、それをクトゥルフ神話として書き残していたの。彼が見ていたものは、オカルトではなく本物の宇宙的恐怖だったのよ」
マイクは背筋が凍るのを感じた。あのラヴクラフトの小説は、実在する宇宙のバグを捉えたものだったのだ。
「日米独のチームでも、奴らの弱点は掴みきれていなかった」ハンスはマイクを見た。「だがマイク、君の言葉で確信に変わった。マイナス物質は、人間が観測しようとするとプラスのエネルギーと衝突して、一時的にプラス物質に『擬態』する性質がある。だが、圧倒的な質量と密度を持つ『太陽光』や『真水』、あるいはチェンの放った『寸勁の質量波』、そしてこの『タバコの煙』に触れると、擬態を維持できなくなって自壊するんだ。人が死ぬときに21グラム体重が減るという古い実験データがあるが、あれは水分ではなく、体内に残留していたマイナス物質が一斉に放出されるからだ。ウラモドシの怪物は、その物質を媒介にして死者の形を模しているに過ぎない!」
理屈は完全に解明された。ウラモドシの弱点は「圧倒的な密度の塊」だ。
しかし、ここは網走の極寒の夜。
見上げる空に太陽はなく、周囲の水はすべてガチガチの氷になっており、質量としての機能を失っている。シゲさんのタバコの煙も、持っている数には限りがあった。
バリケードの鉄扉が、いよいよ悲鳴を上げて歪み始める。
「……星の祠だ」
シゲさんが短くなったセブンスターを床に踏み消し、裏山を指差した。
「この資料にある通り、ウラモドシの根源である『グレーの石』は、この真裏にある星の祠にある。あの大元を叩き壊さねぇ限り、俺たちに朝は来ねえぞ」
「行きましょう。僕たちの『命の密度』を信じて」
チェンが木の棒を強く握り直す。
マイクはエミリーの手を力強く握りしめた。太陽もなく、水も凍るこの絶望のデッドゾーンで、彼らはウラモドシの本拠地である裏山の「星の祠」へと、最後の突撃を決意するのだった。




