寸勁の真実
「グ、ルルルル……、ガ、ガハッ……!」
後ろ向きに爆走してくる鹿の喉からは、およそ草食動物とは思えない、裏返った人間のしゃっくりのような怪音が漏れ出ていた。目は顔の側面に歪に張り付き、狂ったようにヨダレを撒き散らしながら、一直線にマイクたちへと突進してくる。
「下がってろ!」
シゲさんが瞬時にライフルを肩に担ぎ直し、激しい銃声を響かせた。
ドン! ドン!
百戦錬磨の猟師の弾丸は、正確に鹿の脳天と胸部を撃ち抜いた。しかし、鹿は怯むどころか、傷口から不気味な黄色の粘液を噴き出させながら、さらに加速する。
「銃が効かない……!? 避けて、シゲさん!」
叫んだのはチェンだった。彼はいつもの温厚な日本マニアの顔から、一瞬にして冷徹な武術家の目へと切り替わっていた。
チェンは雪に突き刺さっていた、太く頑丈な、みっちりと密度の詰まった「ナラの木の棒」をひったくるように引き抜くと、突進してくる鹿の懐へと恐れを知らずに踏み込んだ。
「ハァッ!!」
鋭い呼気とともに、チェンの右拳がナラの棒を握り込み、至近距離から鹿の胸へと突き出された。それは、中国武術における究極の発力――動作の予備動作を一切排し、わずか数センチの距離から全身の質量を一点に叩き込む「寸勁」だった。
ド、ンッ!!!
まるで大砲が炸裂したかのような重低音が雪山に響き渡る。
銃弾すら貫通しただけの異形が、チェンの一突きを受けた瞬間、まるで目に見えない巨大な壁に衝突したかのようにその場で完全に動きを止めた。
「ギ、ギエエエエッ!?」
鹿が絶叫する。チェンが放った一撃は、単なる打撃ではなかった。筋肉としなやかな骨連動によって、自らの肉体の「詰まった質量」を一点に凝縮し、密度ゼロのマイナス物質の結合を強引に引き裂く、物理的な衝撃波だったのだ。
バキバキバキ、と鹿の体内の骨が砕ける音が響き、次の瞬間、鹿の肉体は形を保てなくなり、黄色いキノコの胞子を撒き散らしながらボロ雑巾のように雪原へと転がった。
「ふぅ……」
チェンは静かに残心を取り、木の棒を構えたまま息を整える。その見事な体捌きと威力を前に、マイクとシゲさんは言葉を失っていた。
「チェン、お前、今の技は……」
マイクが呆然と呟く。
「少林拳の技術です。私の実家は代々、拳法を教えていまして」
チェンはいつもの人当たりの良い笑顔に戻り、少し照れくささそうに頭を掻いた。
「でも、おかしいですね。今の『それ』……まるで、手応えがありませんでした。大きな体をしているのに、中身がまるっぽ『空っぽ』のプラスチックを殴ったような……質量がまるで感じられなかったんです」
その言葉に、それまで寡黙に鹿の死体を観察していたドイツ人の物理学者、ハンスが鋭く反応した。
「質量がない……? 変だ。この生物たちの異常な変異、そして重さの矛盾……。科学的にはあり得ないことが起きている」
ハンスの冷徹で知的な呟きを聞いた瞬間、マイクの脳裏に、数日前のあの出来事が電撃のように駆け巡った。テキサスの従兄弟、ジョージからのけたたましい国際電話。そして、網走駅前で警察官に引きずられていった狂人の叫び声。
「……密度・・だ」
マイクは自分の両手を見つめながら、震える声で呟いた。
「え? マイクさん、何か言いましたか?」
チェンが不思議そうに振り返る。マイクはハンスとチェンを交互に見つめ、一気に言葉を吐き出した。
「テキサスのジョージが、わけのわからない化け物に襲われたとき、『太陽と水から逃げるな』って俺に言ったんだ。水も太陽も、どっちも物凄い『質量の塊』だろ? そして、さっき駅前で狂っていたあの男は、俺たちにこう叫んだ……『密度だ! 命の密度だ! これがあればウラモドシに勝てる』って!」
「太陽、水、そして命の密度……」
ハンスの眼鏡の奥の目が、鋭く見開かれた。「なるほど。もし、この怪異たちの正体が『質量がゼロの物質』なのだとしたら、彼らはその逆である『圧倒的な密度の塊』に触れると、存在を維持できなくなる……。ジョージの野生の勘と、あの狂人の言葉は、この世界の裏側のルールを指し示している!」
「理屈は後だ!」
シゲさんが愛用のライフルを握り直し、険しい表情で周囲の木々を見回した。
「山の空気が完全に変わっちまった。ウラモドシが動き始めてる。急いで宿に戻るぞ。女たちが危ねぇ!」
一行は、重苦しい予感を抱えたまま、猛吹雪の予兆を見せる雪道を急いで古民家宿へと引き返し始めた。




