第四十四話 信長が生きていると知った明智光秀が、山崎で絶望した
天正十年。
六月。
山崎。
京と大坂の間に位置するこの地に、明智光秀の軍勢が集結していた。
光秀は本陣で、各地から届く報告を読んでいた。
「……羽柴秀吉が戻ってきただと?」
家臣が答えた。
「はい」
「馬鹿な!」
光秀は立ち上がった。
「備中にいたはずではないか!」
「毛利方と和睦し、急ぎ引き返しているようです」
光秀は歯を食いしばった。
「……早すぎる」
さらに、別の使者が駆け込んできた。
「申し上げます!」
「何だ!」
「丹羽長秀の軍勢も、畿内で動いております!」
「……何?」
「さらに、柴田勝家も北陸から兵を返そうとしているとのこと!」
光秀は地図を見つめた。
秀吉。
長秀。
勝家。
そして、関東の滝川一益。
織田家の軍団が、次々に動き始めている。
「……なぜだ?」
光秀は呟いた。
「信長は死んだはずだ」
その時。
一人の使者が、本陣へ飛び込んできた。
「明智様!」
「今度は何だ!」
使者は青ざめていた。
「……織田信長が」
光秀の動きが止まった。
「……何?」
使者は震える声で答えた。
「織田信長が、生きております!」
本陣が静まり返った。
「……馬鹿な」
光秀は呟いた。
「本能寺は焼けたはずだ」
「しかし、間違いありません!」
「遺体は……」
「見つかっておりません!」
光秀は立ち尽くした。
その時。
外から、大きな声が聞こえた。
「織田信長様、ご健在!」
「明智光秀討伐の軍勢、山崎へ進軍!」
「羽柴秀吉、丹羽長秀、両軍合流!」
光秀は目を閉じた。
「……そういうことか」
自分は、信長を討ったと思っていた。
だが、信長は生きていた。
しかも、死を装って各地の軍団を呼び戻していた。
「……謀られた」
光秀は静かに呟いた。
その頃。
山崎の織田軍本陣。
信長は、集まった武将たちを見渡していた。
織田信忠。
羽柴秀吉。
丹羽長秀。
池田恒興。
高山右近。
中川清秀。
そして、各地から駆けつけた武将たち。
柴田勝家と滝川一益は、まだ帰還の途中だった。
だが、先に到着した軍勢だけでも、光秀に対抗できる戦力が集まっていた。
秀吉が頭を下げた。
「殿!」
「うむ」
「ご無事で、何よりでございます!」
信長は笑った。
「猿」
「はっ!」
「よく戻った」
秀吉は深く頭を下げた。
「ありがたき幸せ!」
信長は長秀を見た。
「長秀」
「はっ!」
「畿内の兵をまとめたこと、大儀であった」
「恐れ入ります」
信長は立ち上がった。
「皆の者!」
武将たちが姿勢を正した。
「光秀は、わしを裏切った!」
広間が静まり返った。
「本能寺を焼き、わしを討ったつもりでおった!」
信長は笑った。
「だが、わしはここにおる!」
武将たちが一斉に頭を下げた。
「ははっ!」
信長は刀を抜いた。
「明智光秀を討つ!」
「おおおおお!」
本陣に歓声が響いた。
一方。
俺は山崎から少し離れた補給拠点にいた。
源兵衛が報告してきた。
「新太郎さん!」
「はい」
「織田軍の兵糧、予定どおり届いています!」
「よかった」
「ただし、前線への輸送が混雑しています」
俺は地図を見た。
「荷車を分散させましょう」
「はい!」
「それと、負傷者を運ぶための荷車も確保してください」
源兵衛が頷いた。
「承知しました!」
俺は帳簿を閉じた。
戦争は嫌いだ。
できれば、誰にも死んでほしくない。
だが、信長と光秀の争いは、すでに始まってしまっている。
俺にできることは、限られていた。
少しでも補給の混乱を減らす。
民間の食料を守る。
そして、戦いが終わった後、商売を再開できるようにする。
その時遠くから、法螺貝の音が聞こえた。
山崎の戦いが始まった。
戦闘は激しかった。
明智軍は、京への道を守ろうと必死に抵抗した。
だが、織田軍には勢いがあった。
何より、信長が生きている。
その事実が、兵士たちの士気を高めていた。
「信長様、ご健在!」
「明智を討て!」
織田軍が前進する。
明智軍も応戦した。
だが、時間が経つにつれ、戦況は織田軍へ傾いていった。
そして夕方。
明智軍の一角が崩れた。
「退け!」
「本陣を守れ!」
光秀は馬上で戦場を見つめていた。
「……終わったか」
家臣が叫んだ。
「明智様! お逃げください!」
光秀はしばらく動かなかった。
そして、静かに頷いた。
「……坂本へ戻る」
明智軍は撤退を始めた。
だが、すでに織田軍の追撃が始まっていた。
翌朝。
俺のもとに、使者が届いた。
「佐倉様!」
「はい」
「明智光秀、討ち取られました!」
俺は黙った。
「……そうですか」
使者は続けた。
「信長様より、直ちに本陣へ来るようにとのことです!」
俺は頷いた。
「分かりました」
織田軍本陣。
信長は、戦勝の報告を受けていた。
秀吉。
長秀。
その他の武将たちが並んでいる。
俺が入ると、信長が笑った。
「新太郎!」
「はい」
「光秀を討ったぞ!」
「おめでとうございます」
信長は大笑いした。
「はははは!」
そして、俺を見た。
「今回の勝利、お前の働きも大きい」
俺は頭を下げた。
「私は兵糧を運んだだけです」
「それが大きいのだ!」
信長は続けた。
「秀吉の帰還を支え、長秀の軍勢を整え、各地の兵糧を集めた」
「はい」
「お前の物流網がなければ、これほど早く軍を動かせなかったであろう」
俺は黙った。
信長は笑った。
「新太郎」
「はい」
「褒美を取らせる」
俺は慌てた。
「いえ、私は商人ですので……」
「遠慮するな!」
「ですが……」
信長は言った。
「望みを申せ」
俺は少し考えた。
そして答えた。
「では、一つだけ」
「何だ?」
「戦が終わった地域の街道を、早く再開させてください」
信長は眉をひそめた。
「……街道?」
「はい」
「領地ではなく?」
「はい」
「金でもなく?」
「はい」
俺は続けた。
「戦争で止まっていた米や塩を、また運びたいのです」
信長はしばらく黙っていた。
そして。
「……はははは!」
大笑いした。
「お前は、本当に商人だな!」
俺は笑った。
「はい」
信長は頷いた。
「よかろう」
そして、武将たちに命じた。
「京と近江の街道を整えよ!」
「はっ!」
「商人の通行を再開させよ!」
「はっ!」
「戦で荒れた市場も、立て直せ!」
「はっ!」
俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
信長は笑った。
「新太郎」
「はい」
「わしは、光秀を討って天下を取り戻した」
「はい」
「だが、お前は戦が終わった途端、商売の話を始める」
俺は苦笑した。
「商人ですので」
信長は静かに言った。
「……よい」
そして、続けた。
「わしが天下を治める」
「はい」
「お前は、天下を豊かにせよ」
俺は顔を上げた。
信長は笑っていた。
「戦は、わしら武士の仕事だ」
「はい」
「商売は、お前たち商人の仕事だ」
俺は頷いた。
「承知しました」
信長は最後に言った。
「二度と、光秀のような謀反を起こさせぬ国を作る」
俺は少し考えた。
そして答えた。
「では、殿」
「何だ?」
「戦争をしなくても、皆が豊かになれる国を作りましょう」
信長は笑った。
「……面白い」
そして、大声で言った。
「よし! やってみよ!」
俺は深く頭を下げた。
こうして、本能寺の変から始まった織田家の危機は終わった。
明智光秀は討たれた。
織田信長は生き延びた。
羽柴秀吉、柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀らの軍団も、再び信長のもとにまとまり始めた。
そして、天下商業連合は、戦争を支えるだけでなく、戦争の後の復興を担うことになった。
俺は本陣を出て、空を見上げた。
「……やっと商売に戻れるな」
その時。
背後から信長の声が響いた。
「新太郎!」
「はい!」
「次は、天下統一じゃ!」
俺は固まった。
「……え?」
信長は笑った。
「光秀を討っただけでは終わらぬ!」
俺は頭を抱えた。
「……まだ戦争するんですか?」
信長は大笑いした。
「当たり前じゃ!」
俺はため息をついた。
どうやら、戦国時代はまだ終わらないらしい。
だが俺には、別の考えがあった。
信長が武力で天下統一を目指すなら。
俺は、経済で天下統一を目指す。
そして、いつか。
信長が戦争をする必要すらなくなるほど、全国の大名を商売でつなげてみせる。
俺は小さく笑った。
「……次は、全国の関所を減らすか」
こうして、俺の経済戦争は、さらに大きな舞台へ進むことになった。




