第四十一話 信長が生きていることを隠していたら、明智光秀が天下人を名乗り始めた
天正十年。
六月。
本能寺の変から、すでに数日が過ぎていた。
京では、織田信長が死んだという噂が広がっていた。
本能寺は焼け落ち、信長の遺体も見つかっていない。
だが、世間では信長の死は、ほぼ確実なものとして扱われていた。
そして、明智光秀が京の支配を固めようとしていた。
「……予想どおりですね」
俺は堺の商人屋敷で、各地から届いた書状を読んでいた。
隣では、源兵衛が帳簿を整理している。
「新太郎さん、明智軍が京の周辺を押さえ始めたそうです」
「そうでしょうね」
「さらに、近江方面にも兵を動かしているとか」
「……なるほど」
俺は地図を広げた。
京。
坂本城。
安土城。
瀬田。
山崎。
光秀が京と近江を押さえれば、織田家の中心部を支配できる。
そして、信長の死を知った各地の大名たちが、どう動くか。
それが天下の行方を左右する。
だが、光秀には一つだけ、大きな誤算があった。
「……信長が生きていることですね」
源兵衛が小声で言った。
俺は頷いた。
「はい」
現在、信長は堺の商人屋敷に身を隠している。
本能寺から脱出した後、俺の商会の輸送網を利用して、密かに堺まで移動したのだ。
生存を知っている者は、ごくわずか。
そして信長は、今も自分が死んだことになっている状況を利用していた。
「新太郎!」
奥の部屋から声がした。
織田信長だった。
俺は急いで部屋へ向かった。
「お呼びでしょうか」
信長は地図を見つめていた。
「光秀は、どう動いておる?」
「京と近江の支配を固めようとしております」
「そうか」
信長は静かに笑った。
「……あやつ、わしが死んだと思っておるな」
「おそらく」
「ならば、しばらくそう思わせておけ」
俺は頷いた。
「承知しました」
信長は地図を指した。
「新太郎」
「はい」
「羽柴秀吉は、今どこにおる?」
「備中高松城を攻めております」
「柴田勝家は?」
「北陸方面です」
「滝川一益は?」
「関東方面におります」
「丹羽長秀は?」
「四国への出陣準備のため、大坂方面におります」
信長は頷いた。
「……よし」
そして、俺を見た。
「全員、呼び戻せ」
俺は固まった。
「……全員ですか?」
「そうだ」
「各地で戦をしておりますが」
「構わぬ」
信長の目が鋭くなった。
「光秀を討つ」
部屋の空気が変わった。
「秀吉には中国方面から戻らせる」
「はい」
「勝家には北陸から兵を返させる」
「はい」
「一益には関東から引き揚げさせる」
「はい」
「長秀には畿内の兵をまとめさせよ」
俺は地図を見た。
距離が違う。
秀吉は中国方面。
勝家は北陸。
一益は関東。
全員が同時に京へ到着するのは難しい。
しかも、光秀が街道を封鎖する可能性もある。
「殿」
「何だ?」
「全軍を同時に集結させるのは困難です」
信長は俺を見た。
「分かっておる」
「ならば、先に到着できる軍団から動かすべきです」
俺は地図を指した。
「丹羽様の軍勢を畿内の集結拠点に置きます」
「うむ」
「秀吉様には、可能な限り早く中国方面から戻っていただきます」
「うむ」
「勝家様と一益様には、撤退可能な状況を確認しながら帰還していただきます」
信長は頷いた。
「それでよい」
俺は続けた。
「ただし、問題があります」
「何だ?」
「兵糧です」
信長が笑った。
「……また米か」
「はい」
俺は帳簿を開いた。
「数万の軍勢が移動するとなれば、莫大な兵糧が必要になります」
「分かっておる」
「しかも、短期間に集中します」
信長は俺を見た。
「……できるか?」
俺は少し考えた。
天下商業連合。
全国の倉庫。
運送人。
商人。
船。
街道。
俺が長年かけて作った仕組み。
それを使えば。
「……できます」
信長の口元が上がった。
「ほう」
俺は続けた。
「ただし、軍勢の移動そのものは各将の判断が必要です。私は補給と輸送を支援します」
「それでよい」
信長は立ち上がった。
「新太郎」
「はい」
「わしの天下を奪おうとした男に、教えてやる」
「……何をでしょう?」
信長は笑った。
「織田家の軍団が、どれほど恐ろしいかをな」
俺は背筋が寒くなった。
どうやら、明智光秀は大変なことになりそうだった。
だが、問題はもう一つある。
信長が生きていると知れば、光秀は必死に抵抗するだろう。
そして、信長が死んだと思っている秀吉や勝家が、本当に命令に従うかどうか。
俺は地図を見つめた。
「……まずは、書状を届けるところからですね」
信長は頷いた。
「わしの花押を入れた書状を用意する」
そして、静かに言った。
「光秀には、まだ知らせるな」
こうして、織田家の全軍団を呼び戻す計画が始まった。




