18
〇
なぜだか藤村は制服のままだった。そばへ寄るとふんわり汗の匂いがする。子供のままではないけれど、大人というにはまだ早い。わけもなく落ち着く香りだった。
「それで、なんでバット?」
貸すと言ったくせに、事情を聞いてからだと肩に担いで隣を歩く。移動しながらが良いと言ったのは私だった。
「藤村、原田と殴り合いしたんでしょう」
「殴り合いはしてない」
「聞いたんだから」
「で、それが何?」
「あ、そこ登る」
堤防へ続く歩道橋を指さした。
藤村は訝しげに私を見たけれど、何も言わずにそちらへ歩を進める。対岸の堤から頭を出すビルの窓明かりが、川面にくっきり映っている。風がないせいだろう。昼頃に降っていた霧雨はもうやんでしまい、すこしひんやりと湿った空気が辺りに漂っていた。
「このままじゃダメだと思うから。ちゃんと向き合わないと」
「それで殴り合い?」
「まさか。これは……そう、お守りみたいなものよ。万が一ってこともあるし」
「ふうん」
気のないような相槌を打って、「変わったなあ、霧島」
「変わってなんか……」
雫にしてしまったことはもう、取り返しはつかない。けれども謝ることさえできないのは、私自身の弱さのせいだ。私自身の醜さのせいだ。藤村と原田が喧嘩をしたという噂を耳にして、ともかく立ち向かわなければならないと思った。
変わるために、立ち向かわなければならない。大嫌いな父親に、そして自分に。
さなぎや芋虫のまま朽ちてたまるか。
再婚をして綺麗になった母親や、髪を切り恋人を作った雫を思うとき、無性に胸が締め付けられるのは、翅のない身の焦燥だ。細い枝、小さな葉の上から動けない私をおいて、みんな飛んで行ってしまう。それがたまらなく心細かった。だから雫を手元に置いて私の物にしてしまいたかった。歪んだ愛の方法。無意識に父親を見習ってしまった。母親を奪ったそれと同じことを、私はしていたのだ。
私がずっと見て見ぬふりをしていた父親の蛮行に、私は立ち向かわなければならない。
河川敷の原っぱにごつごつと岩が転がっているのが、闇の中になお暗いシルエットとして見えた。ゆるりとした川風をさえぎるものは何もなくて、ひんやりした空気が鼻先をくすぐる。ほんのすこし潮の香りがした。
暗闇にぼうっと人影が浮かんできた。暗さにも草むらにも慣れぬふうに、慎重な足取りできょろきょろと辺りをうかがっている。父親だと分かったけれど、私はじっと気付くのを待った。
「……祥子ちゃん?」
こちらの姿を捉えてから、誰だか確かめるように一歩ずつ近づいて、ほんの何メートルかの距離で父親は確認するように言った。「ああ、良かった。河川敷のバーベキューをした所って、ここで合ってるか迷ったよ」
そんなに何度もしたの? と、わけのわからない怒りがわいた。
「どうしてこんなところ。夜に女の子一人できたら危ないだろう。さ、帰ろう」
義理は果たしたとばかりに、父親は来た方を振り返る。「お母さんも心配するぞ」
「お母さん……」
父親は気付かなかったらしい、離れて立っている藤村を横目にうかがう。また親指を噛んでいたことに気が付いて、ぎゅっと両手でバットを握った。擦り切れたグリップが、崩れそうな身体を支えてくれた。
「ねえ……お母さんのこと、どう思ってる?」
「え? そりゃあもちろん好きだよ。だから結婚したんだ」
「ならどうして……お母さんを叩くのよ」
息を呑むのが気配で伝わった。見えないはずの顔が蒼白に凍るのが、手に取るようにわかった。たぶん私はこの何年か、そうしてずっと父親の顔色をうかがってばかりいた。
「何を……いや、知ってたのか……」
「同じ家に住んでいるんだもの。気付くわ」
自嘲気味の吐息が漏れた。
「その、あれはな……」
言い訳を探しあぐね、父親はうろたえた。社会や家庭に見せる対外的な鎧をすべてなくしてしまえば、ひどく頼りのない一人の中年でしかなかった。運動をしてきたわけでもないのに、ジムに通い身体を鍛えるのも、そういう外殻の一部なのだろう。
「なにも手を上げようと思っているわけじゃなくて……いや、しかしまあ……」
「原因がお母さんにあるなら、どうだっていいわ。でも私の帰りが遅いとか、そんなことでどうしてお母さんに当たるのよ」
「それは……祥子ちゃんに嫌われ……いや……」
責任を私に押し付けているのだと思ったのか、慌てて口をつぐんだ父親に訊ねた。
「私のことを、どう思っているの?」
「自分の……自分の子供みたいに思ってる」
「だったらッ!」
ぞわり――と粟立つ。
黒い泥が渦巻き、煮えたぎり、私という器を壊してこぼれていく。
「……バカみたい」
きっと何気なく口にした「みたい」という言葉が、すべての欺瞞をひっぺがす。
はじめてあなたに会ったとき、この人はお母さんと一緒になるんだって思った。それが良いのか悪いのかはわからなかったけれど、そうなるんだろうなってことは嫌ってほどにわかった。
だけど男の人が怖かった。それは知らないものだったから。それでも精一杯に勇気を出して、可愛く思われようと努力したわ。でもやっぱりダメだった。ご機嫌をうかがうみたいな笑顔と態度が、ひどく不気味だった。「祥子ちゃん」って手探りに呼ばれるのが、越えられない線をひかれた気がした。
そうして不器用そうに、お母さんをとっていった。
わたしはお母さんの娘で、あなたはお母さんの夫で、わたしとあなたに繋がりはない。肌も髪も、言葉遣いや物腰まで、みるみる綺麗になったお母さんが、家にいないときよりも遠くに感じられて、わたしはどんどん孤立した。あなたの娘になれないと、いつか捨てられてしまうんじゃないかって、ずっと、ずっと怖かった。
寒くもないのに、吐く息が震える。
「わたし……わがままなんか言わなかったわ。嫌いだったキノコもちゃんと食べたし、家でばかり遊ばないようにした。勉強だって学校で一番で……あとどれだけ頑張ったら……」
良い家に貰われるのだから、それに相応しい人間になるべきだと思った。そうでなければ愛してもらえないのだと、自分を追い立ててきた。
百点のテストを見せたときに「頑張ったね」なんて褒めて欲しかったんじゃない。「さすがは俺の子だ」って、的外れでいいから自慢して欲しかった。他人行儀に良い顔を見せてなんていらないから、ドアの開け閉めがうるさいとか、靴をちゃんと揃えなかったとか、理不尽でもいいから叱って欲しかった。
わたしは見知らぬ誰かに甘えられるほど、人懐っこくなんてない。
霧島祥子という大人の鋳型の中に、弱気で内気で人見知りをする、幼いままの自分がいる。急に背を伸ばしたって、成績が良くなったって、どこまでいっても私はわたしでしかなかった。その弱さを誤魔化そうと、立派な人という成虫を模した殻に閉じこもっただけだった。
暗闇の中にぼうっと浮かぶ父親の姿は、私の態度に戸惑って、何かを言うべきかするべきかと考えながら動けないでいる、情けない恰好だった。中途半端に差し出しかけた手が笑える。
たぶん――父親も同じなんだ。
世間にも私も良い顔見せていて、唯一甘えられるのが母……彼の奥さんに対してだけで、その娘の私にはどう接して良いのかもわからないで、おろおろと中途半端に立ち尽くしている。嫌われたらどうしようと、自分を取り繕っている。
血の繋がりも心の繋がりもないけれど、私たちは嫌というほどに親子だ。
そのことが悲しい気持ちにさせるけれど、不思議と温かい悲しさだった。
吐く息はやっぱり震えている。出そうとした声が涙声になりそうで、一度深呼吸をした。
「とにかくそういうの……子供の教育に良くないから。私が悪いなら、私を叩いて。話はそれだけ」
握りしめたバットのグリップエンドをこつんと額に当てる。金属の冷たさが心地良い。「先に帰ってて。そのうち、帰るから」
これで良かったのだろうか。
とぼとぼと歩く帰り道でふと思う。けれども他に言いようも、やりようもなかった。ほんの少し何かが変わった気もしたけれど、それは微々たるものだろう。
もし明日雫とばったり顔を合わせたときに、きちんと彼女に謝れるのかしら。父親に見捨てられることと、雫に嫌われてしまうことの、どちらが辛いだろう。
何か言ってはくれないかと藤村を見るけれど、不気味なほど何も言わない。父親が振り返り振り返り返った後で、
「バット返せよ」
「すぐに顔を合わせるの気まずいから。藤村の家に届けてから帰るわ」
という会話があったきりだった。
あんまり黙っているから、つい自分から探りをいれてしまう。
「話、聞こえてた?」
「まあ、途切れ途切れに」
「あっそう」
堤防の斜面を越えると、街灯りの眩しさに目がくらむ。ずいぶん暗さにも慣れていたのだなと、いまさら気が付く。
「藤村は家族のこと……おばさんとか美幸ちゃんのこと、好き?」
「はぁ?」
元々高い声を裏返して、藤村は不満そうにする。「そんなわけないだろ。自分で言うのもなんだけど、十代で家族大好きなんてどれだけ幸せな家なんだって感じだよ」
「嫌いなの?」
「まあな。親はうるさいし、妹はもっとうるさいし。あいつ俺のこと自分よりガキだって思ってるし」
愚痴というにはさっぱりとした声音で言ってから、すこし考える間があった。「でもまあ、好きじゃないけど、それでもいいかって思う」
「へえ」
「良い所を好きになるのは普通だろ。嫌なとこをどれだけ許せるかだよ」
何気なく口にしてから恥ずかしくなったのか、坊主頭をかいてそっぽを向いた。
小さくても、声が高くても、中学二年の男の子なんだなと思う。
「変わったわね、藤村」
不本意そうにじろりと視線をよこして、吐き捨てるように言った。
「そう見えるのは、おまえが変わったからだろ。目線が変われば見え方も変わるんだよ」
ああ、俺も見下ろしたい、と空き缶を蹴飛ばした。
「変わってないわよ。変わったのは、外見だけ」
中身は昔のままだ。かつて秘密基地にしたゴミ捨て場を通り過ぎた。進化も成長も不可逆だ。もう戻れないあの頃から、どれだけ変われたのだろう。
「人間も脱皮できたらいいのに」
そうして古い自分を脱ぎ捨てて、もっと効率的で美しい姿になれたら、どんなに生きやすいのだろう。
「脱皮、なあ……」
藤村は上の空というふうに私の言葉を繰り返しながら、家のドアを開けた。
その途端に、
「あっ! あ、今帰ってきました」
と、おばさんの声がした。「大樹ぃ! ちょっと!」




