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 体育館を歌声が満たす。

 音楽室よりずっと広くて、その分だけ力の入った声は不器用な硬さで広がっていく。教室なんかで歌うのとは聞こえ方が全然違って手応えがない。ひょっとすると、床一面に広がった養生シートが音を吸っているのかもしれない。

 ――声にならないさけびとなってこみあげる、この気もちはなんだろう

 男声女声に分かれていた歌がひとつになって最後の一節まで歌いきると、ピアノの旋律が静かに消えていき、指揮の原田が軽く開いた手を宙で握って合唱を終える。

 目印にしろと言われていた向こう正面のバスケットゴールから視線を下げたところに、担任教師と北村が反対側の壁際に立っている。担任が両腕で丸をつくって「聞こえてるぞぉ」と気のない声を出した。

 明日に迫った合唱コンクールのため、横長のパイプ椅子がずらりとならび、中央をまっすぐに通路が通っている。北村は手首だけで四拍子を刻みながら、ゆっくりとそこを歩いてきた。控えめな足音でアルミ製の雛壇を登って舞台にあがると、リズムをとっていた手をそのまま自分のあごに当てた。ギプスの取れた腕をかばうように反対の手を添えた。

「声はよく出てた。でも前も言ったけど、大きな声にしようって力任せになりがちだから、もっと遠くに届けるんだ、って感じでね」

「だーから、もっと具体的に言えって」

「えー? だから……あそこで先生が暇そうにしてるでしょ。体育館中に響かせるんじゃなくて、先生にだけ届けようって意識するっていうかな。ここで音を破裂させちゃダメ。ビームを撃つ感じ? あと、口の形意識」

「おお、なるほど」

 この夏の間に説明の上達した北村は、その後何点かの注意を与えて、「それで」と首を舞台下手に向けた。グランドピアノの前に三条がちんまりと座っている。

「三条はちょっと弱いかな。丁寧なのはいいんだけど、合わせよう合わせようって、後ろから引っ張っちゃってる。もうちょっと、リードするくらいの気持ちで」

「は、はい……」

 しきりに肯いて、指折り言われたことを確認するようだった。

「それじゃ、もう一回」と今度は北村も列に加わって全員で歌う。

 北村のアドバイスのおかげか二度、三度と歌うたびに合唱は良くなっていった。しかし三条の伴奏は、回数を重ねるごとに悪くなる。夏休みが明けて以降、ずっとこの調子だった。

 以前に偶然聴いたように、決して下手で弾けないふうではなくて、頼りないと指摘されば音が硬くなり、遅いと指摘されれば気が急いて……というように、改善しなければと気負うほどに演奏が乱れていき、最後には明らかなミスが出てしまう。

「ご、ごめんなさい……」

 変な音を響かせて合唱を止めた三条が、あわてて頭を下げた。腕をあげたままの原田が心配そうに見つめる。三列になったクラスメイトの中から聞えよがしのため息が漏れる。「明日なのにね」「間に合うのかよ」と、ささやき声。三条は前髪を垂らした。

 助け舟を出そうにも、どうすれば良いのか、どうするべきなのかがわからない。

 三条に突き刺さる言葉や視線、場の空気を振り払ったのは、担任の手を叩く音だった。

「はいはい、とりあえず十分休憩。そのあと学年課題のほうやって、残った時間でもう一度やるぞー」

 弛緩した空気とともに、クラスの半分ほどがわらわらと外へ出て行く。三条もその中に紛れていたようで見当たらない。

 空には灰色の蓋がされて、霧雨が音もなく辺りを濡らしていた。それほど暑くはないけれど、湿度ばかりが高くてすっきりとしない。なんとはなしに落ち着かなくて、無目的に足を動かした。誰とも会いたくない気がして、ふらりと校舎裏に向かった。

 ブロック塀と校舎の隙間は一メートルほどで、隣接する公園から枝葉が伸びてトンネルみたいになっている。その細道の途中に三条がうずくまっていた。

 校舎に背中預けて屈みこみ、膝にのせた腕にぐったりと顔を埋めている。かけようとした声は喉で止まり、伸ばそうとした手は中空をさまよって、踏み出そうとした足は二歩目を出せずに根を下ろす。

 息継ぎをするように三条が顔をあげた。意志の火が潤んだ瞳に揺れている。今にも崩れてしまいそうな危うさで、ぐっと踏みこたえている。その健気さがひどくもどかしい

 結局俺は校舎の陰に隠れて、肌を湿らすばかりの雨にさらされていた。いっそ降りだせば良いのにと、ぐずついた空を恨めしく睨んだ。



 がやがやとやかましい体育館。薄暗い屋外から戻ると、照明は白々しい眩しさだった。

 舞台に近い長椅子に北村の姿があった。ギプスのない腕に違和感があるのか、しきりにさすり、彼の前に立つ原田に指揮のアドバイスをしているらしい。原田は難しい顔をして腕を振っていた。

「そうそう。別に指揮の上手い下手で審査があるわけじゃないんだから、とにかくわかりやすく、強弱の指示はおおげさに。でもテンポは一定にして」

 することもないのでそばに寄ると、原田が「難しいわー」と肩の筋肉をほぐして笑った。

「しっかし北村、音楽に強いなあ」

「まあずっと教室に通ってるからね」

「将来ピアニストにでもなるのか?」

 俺の質問に、北村はおおげさに目を丸くした。

「まさか。やめどきを見失っただけだよ」

 ねえ、と女の声がした。ひとつ後ろの席から野木が顔を突き出してくる。

「三条.あれ、大丈夫なの? 本番明日だよ」

「弾けてないわけじゃ、ないからねえ」

 北村が思案顔で答えた。

「じゃ、何が問題なわけ?」

「気持ちの問題かな……ブランクもあるんだろうけど」

「気持ちねえ……。それ、明日までになんとかなるの?」

 北村は返事に困って天井を見上げた。男にしてはほっそりした喉には、しかし男らしい喉仏。

「そういえば、わたし聴いたんだけど」

 舞台前の雛壇でおしゃべりをしていたテニス部の足達が、思わず上げてしまった手を恥じるように引っ込めて、軽い身のこなしで近付いてきた。

「こないだ外周さぼったんだけど、そのとき音楽室から、春に? だっけ。聴こえてきてね。上手だし先生が練習してるのかなって思ってのぞいたら、三条だったの。わたしびっくりしたよ」

「なにそれ」

 野木が不機嫌そうに低い声。「じゃああいつ、合唱じゃ真面目にやってないの?」

 俺は慌ててかばおうと、

「そういうわけじゃ……」

「じゃあなに?」

「いや、それは……」

 何をどう説明して良いものかわからなかった。三条の家庭事情やコンクールでの苦い経験に触れなければ、ただ本番に弱いのだというほかはなくて、一人でなければ練習でさえ弾けないのであれば、とても務まるものではないということになるだけだ。

 救いを求めるように北村を見るが、彼も渋い顔をしていた。そしてその顔のまま、

「とにかく、できるだけリラックスして弾かせてあげれば、もっと良くなるだろうから」

 なだめるように言う北村に、野木は不満そうに唇を尖らせた。

「っていうかさ、元々北村が腕折っちゃったから三条が代役になったんでしょ? 治ったんだったら北村がやればいいじゃん」

「いや、それは……」

「そしたら原田だって、指揮でやらなきゃいけないこと、減るんじゃないの?」

 同意を求められた原田はうろたえ、

「まあ……いや、でもなあ……」

「ほら、ね?」

 再び迫られて、北村はこれ見よがしに腕をさすった。

「ギプスが取れたって、まだ治ったってわけじゃないよ。それに俺が怪我をしたから無理言って引き受けてもらったのに、それはないんじゃないかな」

「どうして? 無理に引き受けたんだったら余計に、喜んでやめるんじゃないの。それに――」

 野木は身体を起こして、舞台周辺で時間を潰す連中に顔を向ける。「みんなだってこのまま三条が弾くより、北村にやってもらったほうが良いって思わない?」

 遠くにいた連中は何事かわかっていない顔をしているが、比較的近くにいたクラスメイトたちは否定も肯定もなく、ただ気まずい表情をしていた。それは無言の肯定だった。

「あ」

 原田が声を出したのは、その時だった。彼の視線を追って、舞台脇の鉄扉を振り返る。

 見知らぬ場所に放り出された子供のように三条雫が立っていた。震える唇は閉じきらない。怯えた瞳でクラスメイトを見渡し、悲しそうに斜め下へ目をそらした。

 ずいぶんそうしていたように感じる一瞬の後で、三条はうつむいたまま、建物の陰へと走り去る。

「さ――」

「三条っ!」

 立ち上がって追いかけようと踏み出したときにはもう、原田が先を走っていた。その大きな背中を見た途端に、暗い靄が俺の奥底の方からあふれ出てきて身体を縛りつけた。

 原田が追いかけたんだから、俺が行く必要なんてないではないか。俺が行ったところで何になるというんだ。何の力にもなれやしない。精々が夕飯の寂しさを紛らせることしかできないのだ。俺よりよっぽど頼りがいがあって、行動力も、自信にも満ち溢れた原田の方がずっと、三条にふさわしいはずだ。

 俺なんかが行ったところで……。

 それが正しいはずだ。これが正しいはずだ。

 シャツの胸元を握りしめる。引きちぎって、胸を切り開いて、心臓を鷲掴みに握り潰したい。

 悔しくて、情けなくて、申し訳なくて、諦めたくて――

 原田が行く方が良いに決まっている。それなのにどうして俺は、こんな気持ちになるのだろうか。

 体育館のざわめきを遠くに感じながらじっと出入口を見つめた。やがて原田一人がゆったりした足取りで戻ってきた。俺はたまらず駆け寄った。

「三条は?」

 原田は答えずにごつごつした顔をゆっくりとこちらに向けて、不思議なほど無感動な目で見下ろした。そしてそのまますれ違いざまに、ぼそりと言った。

「うるせえ、チビ」

 あっと思ったのは、原田の背中に飛び蹴りを食らわせた後で、次にあっと思ったのは、原田の回し蹴りを腕で受けた後だった。パイプ椅子を巻き込んで倒れ、そこから這い出て原田に飛びかかったところで、周囲からわっと腕が伸びてきて、俺と原田は無理やりに引き離された。「落ち着けって!」という声が、わんわんと響いていた。



『晩飯どうする?』

『おじゃまします』

 昨日付のメールを見返してはため息をつくのを繰り返す。さかのぼってみても三条とのやりとりは、ほとんどその応酬だ。何日かに一度、まるでお見合いをするみたいな探りさぐりの日常会話が挟まるばかり。

 三条はいつも俺のすこし後ろをついてきた。その距離はこの三ヵ月で、きっと一歩も近づいてはいない。そうして心のどこかでは前後が入れ替わっていて、やはりわずかも接近できてはいなかった。

 三条に宛てた新規メール画面を開いて、手が止まる。必要なのは簡単な言葉のはずなのに、とてつもない難問に感じられた。

 立ち上がる気力もなくて、ずっと携帯とにらめっこをする。実際に立ち上がれないのではないかとさえ思う。身体を支えるべき背骨が、消え失せた気がした。

 ひょっとすると最初から、そんなものはなかったのかもしれない。

 人という字は、二人の人間が支え合っているのである、とは上手いことを言うなと何年か越しに感動する。寂しそうな三条を助けているつもりで、人助けなのだから正しいことなのだと、彼女に寄りかかっていたのは俺の方だった。

 夕飯に誘うことも、今日の慰めも、明日の励ましも、あらゆる言葉が欺瞞に思えて、一文字書いては消し、二文字書いてはやめてを繰り返した。

「おにいー、もう……って、うわ、暗っ」

 まったく空気を読まないで、妹が部屋のドアを開けた。俺が暗いのだとからかわれたのかと思ったが、部屋自体が暗かった。いつの間にか陽は沈んでいる。

「あれ、いま何時?」

「もう七時過ぎてるよ。晩ご飯は?」

「あー……悪い。いまから作る」

 リビングの電灯に照らされて、自分がまだ制服を脱いですらいなかったことに気がついた。三条が走り去ったあと、気まずい空気のまま合唱練習をして、やはり気まずい部活をしてから家に帰って、ずっとぼーっとしていたらしい。

「おにい、何かあったの?」

「何かって?」

「いや……知らないけど」

 欲求不満そうな妹の頭を撫でると嫌がられた。肩を落として台所に立つ。早炊きで炊飯器のスイッチを入れて、ハムエッグと味噌汁を作ってごまかした。

「ごめん。こんなのしかできなかった」

 妹は間に合わせの夕飯を食べながら、

「おにい最初のころ、こんなんばっかだったよね。味も塩胡椒ばっかだったし」と、なぜか嬉しそうにする。

「覚えてないよ、そんなこと」

「わたし覚えてるもん。焦げたり生焼けだったり、辛かったり味がなかったりしたけど、お兄ちゃんがわたしのために、がんばって作ってくれたんだなーって」

「今の方が上手いだろ?」

「上手くはなったけど、料理は腕じゃないでしょ。愛だよ、愛。美味しい物を食べさせてあげたいって気持ちが美味しいの」

「……作ったこともないくせに語るなあ。明日からやれよ」

「いやだから、そういうことじゃないじゃん」

 そんな夕食を終えたころである。インターフォンが鳴った。まさかと思うときには、備え付けの白い受話器を耳に押し当てていた。

「はい」

『あ、えっと……』

 違う声だ。『霧島ですけど。藤村?』

「ああ……霧島か。どうした」

『ちょっと出て来られる?』

「どうして」

 言いためらう吐息が、ノイズになって届く。

『その、バット……貸して欲しくて』

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