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〇
玄関に霧島を残して奥へ進んでいくと、リビングから母がひょっこり顔を出した。俺越しに玄関の方を見て、霧島がいることに驚いた顔をした。
「なに?」
「電話。三条さんから」
「三条?」
受話器を受け取って耳に当てる。「もしもし」
『えっと、藤村君?』
切羽詰まったような早口。何か様子がおかしいと思ったら、それは三条雫ではなく、その母親だった。
「ああ、おばさんですか」
『今日は雫、そちらでご飯いただいてないのよね?』
「え……っと、はい。今日はちょっと……」
以前一度見たときとはまるで違う落ち着きのない声に、不穏なものを感じた。「三条、どうかしたんですか」
『どこへ行ったか知りません? 家には帰ったみたいで鞄は置いてあるけど、どこにもいなくて。携帯電話もうちに落ちてて、連絡もつかないの。今までこんなこと、なかったから……』
言葉尻が遠くなって、受話器の向こうで会話をしているらしい。片方は男の声。父親だろうか。ちらりと母親を見ると、小さく首を振った。そのまま時計に目を向ける。午後十時。
『あの、それで、何か心当たりはありませんか?』
いきなり声がして驚いた。記憶を呼び起こそうとすると、余裕のないその声が、三条にそっくりだなと思う。
「あ、えっとですね……、今日学校でちょっと、伴奏のことで揉めたっていうか、ショック受けてたっていうか……」
『伴奏?』
「合唱コンクールの、あの、ピアノですけど」
『ピアノ……。あの子そんなこと……』
一瞬思考に沈みかけた意識を取り戻すように、『どこに行ったかかは、わかりません?』
「少し待っていてもらえますか」
返事を聞かず受話器を伏せる。部屋に駆け込んで携帯電話を確認したが、三条からの連絡はない。ポケットに突っ込んで玄関に向かった。事情が呑み込めないという顔で立ち尽くす霧島に訊ねる。
「三条がいなくなったって。知らない?」
「知らない。どういうこと?」
怪訝そうに眉根を寄せる。
「おまえの家に行ってないかな」
「それはない……と、思うけど……」
「わかった。ちょっと待ってて」
リビングに取って返して、受話器を取った。
「あ、もしもし。どこ行ったかはちょっとわからないですけど、とりあえず心当たり探してみます」
『あの……すみません、お願いします』
「どこか行きそうなとこってありますか」
『えっと……いえ、すみません。こんなこと、なかったから……』
電話を母に渡して外へ向かう。思いつめたように真面目な顔の霧島は、外に出て扉を手で押さえて、うっかり言った「待ってろ」という言葉を律義に守っていた。
駆け足で階段を下りる。コンクリートに重い音が反響する。
「とりあえず俺は北村の家に行く」
「どうして北村?」
「ピアノのことだったら、あいつの家かもしれない」
「あ、そっか」
外へ飛び出して駐輪場へ曲がると、通りへ出ようとしていた霧島が戻ってくる。慌てているせいで、首のすわらない自転車かごが隣の自転車にひっかかってなかなか抜け出せない。
「先に行けよ、バカ」
「うるさい。私は家に確認に行くけど、その後はどうするの」
「そんなのわからないって。とにかく知ってるだけ学校の奴らの家を回って……」
ようやく引き出せた自転車を、出入口のほうへ向けて乗る。
「わかった。女子の家は私が回る。あんたは男子」
誰の家にも三条はいなかった。やっぱりか――と、徒労感と無力感とに襲われる。
北村は小学校のときに仲が良かった人や、ピアノの先生の家にも行ってみると言ってくれたが、見つからなかったと連絡があった。北村のように探すのを手伝うと言って家を出てくれたのは他に二人いた。一人は原田である。
自転車に飛び乗った原田は、彼らしからぬ急いた様子で訊ねた。
「行きそうな場所は?」
「たぶん一人になれる場所」
落ち込んだとき誰かに会いに行くようには思えないし、遊園地でそんなことを言っていた。たしか……自分がこの場所にいていいのかわからなくなるときがあって、そんなときに一人になりたくなると。
「わかった」
肯いた原田のきりっとした眉や、一漕ぎごとに遠くなる背中の、なんと頼もしいことか。
ふいに嫌気がさした。昼間に感じたものと同じだ。自分ではどうしようもないのだという諦めと、自分のせいだと悔いる自責の念。矛盾する感情が、真っ黒に渦巻いている。
それでも夕陽に照らされた彼女の哀しげな顔を思い出すと、胸の奥がかあっと熱を持って、ほろほろ崩れそうな身体をつき動かした。
不気味な神社を、シャッターの並ぶ商店街を、ゴミ箱と室外機の路地を、誰もいない学校を。どこかで一人うずくまっている少女を求めて夜を走った。走りながら俺は、どうしてこんなに胸が苦しいのだろうと思う。どうしてこんなに、目の周りがくすぐったいのだろう。
ふと目に入った駅ビルの屋上にのぼり、眼下を埋め尽くす光の海を見ていると、急に恐ろしくなった。この洪水に飛び込んだんじゃないか、トラックにでも轢かれたんじゃないか、そんなことばかりを考える。
誰かの迷惑になることを、とりわけ家族に迷惑をかけることを恐れていた彼女が、全部を投げ出して消えたのである。家出をしてしまえば自分の居場所がなくなるのでは、と怯えていたのに家出をした。何を考えていても不思議ではない。
身を乗り出して、見えるはずもない三条を捜す。彼女がいなくなることはとても……とても嫌だった。
自分ではどうにもできないと思うくせに、自分がどうにかしたいとも思う。この気持ちはなんだろう。衝動が叫びになろうとするのに、胸やのどにつっかえて声にならない、この気持ちはなんだろう。
〇
インターフォンを鳴らして応答があるまでの時間がもどかしい。しきりに足踏みをし、親指を噛んで待った。
『祥子?』と、母親の声。
「あ、雫、来てない?」
『雫ちゃん? 来てないけど。それよりあなた――』
「ありがと」
何かを言おうとしていたのを聞かずに駆け出した。夜の空気はひんやりしていたけれど、走り回るうちにひどく暑くなった。一度家に入って自転車の鍵くらい持ってくれば良かったと後悔。
思い出せる限りの家を回っても、雫は見つからなかった。まさかと思って学校へ忍び込んでみたけれど、真っ暗な校舎からピアノの音が聞こえてくることもなかった。
まったく見当もないのに、まるでどこかを目指しているように、私はずんずんと夜を歩いた。目だけが忙しなく雫を求めて辺りを見回す。次第に意識が薄れていく。絵や勉強に没頭したときに訪れる深い場所。言葉にならない思考が、水のように漂っている
いったいどれほど、そうしていたのだろう。見知らぬ公園のブランコにしょぼくれた人影を見つけた。
「雫?」
慌てて近付いて落胆した。疲れた顔をした藤村大樹がいた。
「霧島か」
「霧島かじゃないでしょ。何してるの?」
「何って休憩だよ」
「あんたね、雫が……!」
「そうだけど」
藤村は今にも泣きだしそうな感じがした。「もう何時だと思ってんだ」
「何時って」
そういえば携帯も時計も持っていない。藤村が携帯電話の画面を見せてきた。日を跨いでもうすぐ一時。正確な時間はわからないが、軽く三時間以上も私は歩き詰めていたらしい。
そのことに気がつくと、どっと疲れが脚にきた。たまらず藤村の隣のブランコに座った。昼の雨のせいか、冷たく濡れていた。
「というか霧島、携帯持って出ろよ。心配してたぞ、北村」
「え?」
「電話に出ないって、連絡があった。あいつは川向う捜すって」
「ああ、そう……」
雫のことは心配だったし、北村に心配をかけたのも申し訳なく思ったけど、それよりも背中を丸めて打ちひしがれたような藤村が気にかかった。
「どうしたの、何かあった?」
「別に、何も」
「嘘」
私がきっぱり断じると、恨めしそうな目つきで見上げてくる。「何があったの」
「……本当に何もないんだよ」
藤村がのそりと身体を起こすと、不安定にブランコが揺れ始めた。「ただ……三条を捜してたはずなのに、いつの間にかどうして俺が捜してるんだって、そうする理由をさがしてるんだ……。さっき家から電話があったんだ、三条の親が警察に連絡したって。だから俺なんかが……、見つけたって俺にできることなんて何も……」
「私、藤村のそういうところが嫌い」
「え?」
「できることがあるからするの? なければしないの? やらなきゃいけないから、するの? ねえ……そういうところよ。他人に優しいふりして、ごまかしてるんだ」
常識的に考えるとか、人の目があるとか、そんなものが何かをする理由であってたまるものか。そんなものは全部後付けの理屈のはずだ。幾層も重なった理由の一番底にあるものは、そんなものじゃない。
「私は捜すわ。雫にごめんって言わないといけないから。許してもらえなくたって謝る。だって私は、雫が好きなんだから。一緒にいたいのよ、たとえ私の物にならなくたって。藤村はさ……」
場違いな電子音が、夜の公園に響いた。私たちは息を呑んで音のする場所……藤村の携帯電話に注目した。何の電話だろうと緊張する。




