20
〇
『すまん!』
電話に出るなり、原田は電話口で力のこもった謝罪をした。霧島に目配せをして「原田」と小さな声で告げた。
「突然なに?」
『今親父の車なんだ。ひょっとして海かもって。でも遠いし広いだろ。で、親父に車出してくれって頼んだら、そこ探したら大人しく家に帰れって条件出されてそれで……』
会話の最中に突然、声が遠くなる。『なあ、いいだろ別に』
『馬鹿言えてめえ、約束くらい守れよ』と、原田よりいくらかしわがれた声。
『……とにかく、海にはいなかった。釣りに来てるおっさん達に訊いたけど、そんなの見てねえってさ。ま、絶対じゃないけど……』
「そのことだけどさ」
『見つかったのか?』
「いや、三条の親が警察に連絡したからって」
その連絡を受けたとき、俺は三条を捜す理由を失った気がした。義務があるわけではなく、また権利も持っていない。それにたとえ見つけだしたところで、俺にできることなんて何もないのだと。
自分が捜すべき正当性という外骨格を失った俺は、自分の身体さえ支えられなかった。
受話器の向こうで、震えるため息が聞こえた。それから『すこし止めて』と、おそらく父親に向けての言葉があったあと、しばらくの間があってから、電話が風を拾う。外へ出たらしい。
『あのな、警察は通報したからって家出した子供なんていちいち捜さねえんだ。日本で何人家出してると思うんだ』
「ああ、そうか……」
『それにさあ、明日、ピアノ弾かなきゃだろ。それをサボったらあいつ、もう学校来れなくなるだろ』
それはひどくありありと思い描ける未来だった。自分の責任をきっと彼女は必要以上に受け止めるだろう。
『おまえ、それでいいのか?』
「いや、良くはないけど……」
『それじゃあ捜してくれ。俺はもうダメだ。走って逃げても、親父は撥ねてでも捕まえてくるだろうしな』
「原田の父ちゃん、そんなに厳しいの?」
『男なら約束だけは死んでも守れって、それだけは』
「へえ」
『それとさ……』
言葉を区切ったあとで、いつもより高くて細い感じのする、まだのろまだったころの声で続けた。『おまえさァ……大事なことはちゃんと言えよな。俺が追っかけて行ったら、藤村君? なんて言って振り返るだぞ。なんかもう……』
「あ……それは……ごめん」
『ま、いいけどさ、別に。あ、いや良くない。ちゃんと学校で紹介しろよ。じゃないと許さねえ』
「……でも、どこにいるかもわかんないんだぞ」
『大丈夫だって。絶対見つかるって』
「……すごい自信だな」
『そりゃな。見つかるって思ってるから』
「なにか根拠でもあるのか?」
『根拠がある自信は確信って言うだろ。根拠がねえから自信なんだよ』
「なんだそれ」
思わずに笑いをこぼしてから、俺に欠けているものはそれなのだと気付く。「なあ、どうしたら自信が持てる?」
『知らねえ、バッティングと一緒だろ。打たなきゃダメだって自分追い込むから、失敗する方を心配するんだよ。打ちたいから打つ。打ったら格好いいから打つ。それだけだ』
なんだかメチャクチャを言っている気がしたけれど、不思議と彼の言葉は俺の中に力を与えた。
東の空が白み始めた。夜が朝陽にとけだして、深い群青になっていく。街はまだ眠ったままだ。三条は今どこで、何をしているのだろうと心配した。眠っているだろうか、それとも孤独な夜明けに怯えているのだろうか。
小学校で高熱を出して、早退させられたことがあった。外で聞くチャイムの音に感じた寂しさを思い出す。あの音の中で、俺だけを除いた日常が続いているのだと思うと、世界からはじき出されたような気がしたのだ。そんな気持ちを、三条に味わってほしくはなかった。
橋を渡って土手をすこし行くと、数人の人影が見えた。十分に近付いて相手が誰だかわかったころ、向こうもこちらに気が付いて、「おーい」と疲れた声で北村が手を振った。
夜通し三条を捜していた連中だ。いい加減時間も時間だからと北村が集合をかけたのである。
薄明るい土手道には北村の他に野木と富田がいた。
自転車を止めると、霧島が荷台から降りた。
「何かわかった?」
開口一番に霧島が問いかけた。北村は力なく首を振った。
「いや、方角もわからない」
「そう……」
「これで全員だね」
北村は疲労の浮かんだ顔を全員に向ける。「さっき三条の家に電話したけど、やっぱりまだ帰ってないって。俺たちもこの後どうするか決めないと」
霧島が息を呑みながら、
「どうするかって……そんなの捜すに決まってるでしょう」
「いつまで?」
「それは……」
苦しそうに目を伏せた。たかだか中学生の限界は目前に迫っている。三条の身を案じる心と、現実的な判断が霧島の中でせめぎ合う。
どうするか、なんて一つしかない。三条のことを諦める。それだけだ。諦めなかったところで、学校をサボって捜し続けることしかできない。その結論から逃げるように、俺は話題を変えた。
「というか、なんで野木と富田までいるの」
「だって、それは……このままあいつに何かあったら、私のせいみたいだし……そんなの嫌だから……」
野木はいつもよりしおらしい声だった。北村は優しい声音を繕って、
「誰のせいなんてことはないよ。それに誰かのせいだって言うなら、三条にピアノを押し付けた俺も悪いし」
二人の会話を、まるで鞭で打たれるような顔で霧島は聞いていた。たぶんそれぞれに、それぞれの責任を感じている。だからこんな時間まで、徒労に終わるだろうという予感を振り切るように捜し回ってきたのだ。
「あれ、じゃあ富田は?」
「普通に心配だからね」
言いながら、ちらりと野木を見た。それから、「というかさ、仮に見つかったとしてさ、合コンどうするの。そもそもの問題はそれでしょ」
「そんな場合じゃ――」
「そんな場合だよ」
霧島の言葉を富田はさえぎる。「だって三条はピアノ、弾きたいんでしょ」
「え?」
北村が間抜けな声を出す。
「だってそうでしょ。晴美が三条降ろせって言ったのが直接の原因だったとして、弾きたくないなら、喜んで降りるんじゃないの?」
そうなのだろうか。ふいと東の空へ目を向けると、遠い山並みの頭から朝焼けた雲が顔をのぞかせている。夜明けだ。。
「俺は弾いたほうがいいと思うけど」
北村が珍しく自信なさげに、「たぶん、それは俺の勝手な考えだから。小学校のとき、発表会で大ポカやったんだ、三条。だから、あのまま終わるのはかわいそうだなってさ。せっかく、あんなに真剣にやってたのに……」
たぶんその真剣は、北村の思うような方向ではない。もっと切実で、根源的な欲求を満たすためのものだ。
空は次第に燃え盛り、稜線がくっきりと浮かんでくる。それを削るようにして、陽光が一筋瞳を射抜いた。
「あっ……」
思わず漏れた声に北村が反応する。
「どうした」
「一つだけ心当たりがあった。いま何時?」
「えっと、もう六時」
頭の中でざっと時間を計算する
「ギリギリ……」
スタンドを蹴って自転車に飛び乗り、「学校の方は頼んだ。俺も三条に弾いて欲しいから」
走り出そうとペダルに体重を乗せたけれど、「待って!」と、霧島が荷台を掴んだせいで転びそうになる。
「なんだよ」
「どこ? そこに雫、いるの?」
「そんなもん、行ってみないとわからないけど、絶対連れて帰るから」
朝陽を映した霧島の瞳は、静かに揺れていた。小さくうなずいて、彼女は荷台を放した。
確証なんてなかったけれど、そこにいるはずだし、連れて帰るべきだと、強く思った。夜明けの激しさが、胸の中にも広がっていた。
〇
朝陽に向かって突進するように、藤村は自転車を飛ばしていった。背中が見えなくなると、富田が大きなあくびをした。それでなんとなく、みんな我に返った。
「どっちにしたって、もう私たちにできることなんてないよね」
宣言のような、確認のような言い方をして、眠たそうに瞬きをする。気だるげに髪をかきあげる仕草が、なんとも似合っていた。「それじゃあ私、ちょっとでも寝たいから」
野木の肩をぽんと叩いて歩み去って行く。その気負わない感じが、彼女は義理でここにいたのだなと感じさせる。野木晴美への友情という名の義理だろう。野木は学校で見かけるよりずっとしぼんだような印象だった。築いたグループの輪がなくなり、誰かに見せる外面を剥がせば案外、彼女は大人しい子なのかもしれない。
「ギリギリって、どっちだろう」
何の気なしに呟くと、二人が不思議そうな顔をした。
「どっちって?」
「ギリギリ間に合うのか、間に合わないのか」
「ああ、どっちなんだろうね」
どことなく上の空に、北村が相槌を打つ。そして思考がそのまま漏れたように、「藤村、学校の方は頼むって言ってたから、間に合うってことなんじゃない。ああ、そうか。学校にも知られてるだろうから、その辺どうにかしないとダメなんだ」
野木も北村も、そしておそらく私も藤村も、みんな自分を取り繕う余裕を、一晩で失った。頭の芯が眠ったようにぼんやりする。突然そんなふうに思うのは、どこかで藤村に任せておけば大丈夫だと安心してしまったからだろう。
けどあいつだと、やっぱり不安だな。
「雫のお母さんたちには、どうする?」
「あー……俺が伝えておくよ。ありのまま」
そんなことを話している間に、太陽は熱気球みたいにすーっと昇り、夜の気配をどこかへ追いやってしまって、すっかり朝になっている。小鳥たちの鳴き声が喧しい。
「あのさあ、霧島さん」
ふと気付くと、北村が私をまっすぐに見ている。疲れは出ているけれど、いつも通り綺麗な顔と、まっすぐな瞳。嫌味のない表情。「こんなときに、ってのはわかってるけど、こんな時じゃないと言えない気がするから言うけど、俺、霧島さんのことが好きなんだ。付き合ってくれないかな」
私より先に、野木さんが声をあげた。
「なっ、なんで……何も今じゃなくても……」
「後じゃ言えない気がしたから。どうかな?」
曇りのない目から逃げるように野木の方を見た。表情を隠すように俯きながら、それでも恨めしそうに私を見上げる。でも迫力なんかは全然なくて、おねだりを叶えてもらえない子供みたい。
考えるまでもなかったけれど、一応の礼儀として考えて返事をした。
「ごめんなさい。私、北村とは付き合えない」
深呼吸のようにゆっくりと目を閉ざし、そして開く。朝焼けに良く似合う、さわやかな顔だ。
「どうしてか、教えてもらえるかな」
「北村はたぶん、私のことを好きじゃないからよ」
「そんな。好きだよ」
「好んでるだけでしょう。好きになるってもっと、きっと、綺麗じゃないのよ。どす黒い気持ちが胸をかきむしるのよ。たぶん、ね」
納得できないという顔をした北村と、思い当たる節がありそうな野木だった。
北村はきっと愛され慣れている。そばにいる少女の恋心に気付かないほどに、それは当たり前のこと。だから彼にまるで関心のない私を、物珍しがってコレクションしたいだけなのだ。
「……なんてのは、僻みすぎかしら」
考えても仕方がないので、今後のことに頭を切り替える。一度家に戻り、仮眠を取ってから学校へ行って……ああ、お風呂にも入らないと。
できるだけ音を立てないで鍵を差し込み、ゆっくりと回した。同じだけの慎重さで玄関扉を開けると、バタバタと足音をさせて、奥から父親と母親が出てきた。
「あ……えっと」
ただいま、と言う前に頬に衝撃が走った。ジンとした痛みと熱さが、あとから湧いてくる。締め付けるようにして抱きしめられてから、ぶたれたのだと理解した。
「何時だと思ってるんだ!」
身体に響く父親の声は、怒りと安堵に震えていた。
「あの、雫が……」
「事情はわかってる。でも遅くなるとか、どこにいるとか、いつ帰るとか、ちゃんと連絡を寄越しなさい! お父さんたちがどれだけ心配したかわかってるのか」
母親の顔を見ると、こちらを見たままびっくした顔で固まっていた。そしてその目に浮かんだ涙に気付いたとき、ぽろぽろと私の目からも涙がこぼれた。
「ごめんなさい」
うわ言のように、口から言葉が出る。「すっかり忘れてた……ごめんなさい……」
返事のかわりにいっそう強い力で抱きしめた父親は汗のにおいがした。とてもあたたかい。父親のぬくもりと玄関に射しこんだ朝陽のぬくもりに包まれている。
「お風呂、まだなの?」
「入ってられるか」
「そうよね、ごめんなさい」
父親の身体をぐいと押して離れて、ようやく私は靴を脱ぐ。涙を悟られたくなくて、それとなく目元を拭ってから階段を上りかけて振り返る。
「私、眠たいから、先にお風呂入って、お父さん」
自然と口にした自分の言葉にまた涙があふれてしまい、私は逃げるように自室に飛び込んだ。ベッドの上に投げ出された携帯電話。北村や藤村たちに混じって、家からの着信が何件もある。
昨夜はわざと置いて出て、一度戻ったときにはインターホン越しに母親と話しただけだから、取りに戻るのを忘れていたんだ。
もぞもぞとベッドに潜り込み、携帯電話を握りしめると、いきなり睡魔が襲ってきた。その気になれば一瞬で眠れるだろう。
ぼやけた意識の中で、ふと思う。
藤村の言ったギリギリは、どちらなのだろうか。間に合うのか、間に合わないのか。
九時半から合唱コンクール。挨拶があって……学年ごとに歌を歌って、一年の一組から順に三組まで……その次が二年一組で……。
「……十分、かな」
ほとんど寝言のように呟いて、意識は泥に沈んだ。




