表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/22

16


          〇


 合唱の声が止んで、がたがたと人の動く音がしたかと思うと、今度は管楽器の音が伝わってきた。部活動の時間になったらしい。別に誰が見ているわけでもないけれど、さりげない素振りを取り繕って外に出た。

 二学期の空は憂鬱な高さで暮れかかっていた。部活動にいそしむ人の中に、雫の姿はない。あの日以来、雫とは会っていなかった。結局ピアノを引き受けたらしいことと、それが上手くいっていないことは噂で耳にした。

 来るはずはないとわかっていながら、美術室でドアばかりを気にしているうちに夏休みは終わった。何度か連絡を取ろうと思ったけれど、そのたびに雫の頬の感触が手によみがえり踏み切れなかった。

 左腕を腹に添え、その肘をついた右手の親指を噛んでいることに、かすかに鉄の味がして気がつく。最近できた癖だった。指から口を離すと、唾液にじわりと血がにじむ。

 父親とはつながらない私の血。それなのに、いやそれどころか嫌悪さえしている義父と同じことを、私はしてしまった。

 自分が何かとても醜い肉の塊に思えてしまい衝動的にカッターナイフを手首に当てて――切らなった。切れなかったのだ。まるでその代替行為として、私は自分の親指を噛むようになった。

 絆創膏を貼れば良いのだろうけれど、それがどうしてか卑怯な振る舞いに思えてできなかった。雫にひどいことをしたのに、それでもまだ我が身大事に自棄にもなれないくせに、わずかでも美しくあろうとする。そんなことに意味はないと知っていながら。

 いくらか待ったけれど、雫は現れない。また自分が親指を噛んでいることに気がついて、ここにいてもしょうがないかと美術室に戻った。

 鞄からスケッチブックを出す。雫の絵しか描かれていない。ちょこんと百合の花みたいに俯いて窓辺に佇む姿は、儚い美しさだ。そっとその頬に触れる。

 私はただ、こうして触れられる場所にいたかっただけなのに……。

 絵を描くことは、決して自分の物ではない物を所有するための代替行為なのだろう。

 あんなことをしなければと思うそばから、そんな気持ちを抱いていたこと自体がおぞましかった。

 ふと思いたって、見開いた次のページに自画像を描いてみた。しかし調和は取れない。雫の寂しい色は薄まらないで、ページを綴るリングが、越えようもない隔たりのようだった。

 自画像を破ってゴミ箱に投げ込んで、外の空気を吸いたくて窓辺に立つ。名も知らぬクラシックの軽快な音色が、鬱屈した私の心をまざまざ浮かび上がらせる。

 雫のことはもちろんだったけれど、気持ちが沈んでいるのにはもうひとつ、理由があった。

 母親が帰省した。祖母が倒れて入院したのである。命にも身体にも別状はないのだが宮崎県は遠く、帰りは明日以降になるという。両親が再婚してから、父親と二人きりで過ごすのは初めてのことだった。

 ご飯を炊いて、母親の作り置きしてくれたおかずをレンジで温めて食べる。一人きりの食事。カチコチと時計の音ばかりがやけにうるさい食卓。懐かしい気持ちがした。変わったことと言えば、家と私の身体が大きくなったことくらい。

「あ……、味もいっしょね」

 もうずっと味わうこともなく食事をしていたらしい。きっとこれまでも味噌汁の味が薄いことや、そのくせポテトサラダに塩コショウを入れ過ぎてしまうことは、変わらずにいたのだ。

 感傷に浸ってのろのろ食事をしていると、「ただいま」と父親の声がした。ぎょっとして時計を見る。七時過ぎだ。こんなに早く家に帰ることは年に何度もない。そのたまたまが、まさか今日だなんて。

 リビングに現れた父親は、食事中の私を認め、意表を突かれたように立ち止まった。

「お、おかえりなさい」

「あ、ああ、ただいま」

 箸を机に置いて立ち上がり、

「手を洗って座ってて。ご飯、温めるから」

「自分でやるよ」

「いいから」

 母親という鎹を失えば、私たちは他人でしかない。いそいそと食事の支度をする父親の目の前で、夕食など続けられる気がしなかった。

「お酒は?」

「いや、いい」

 温めただけの料理を並べ、私も自分の席に着く。三人そろって食事をする時は、私の正面が母親で、その隣に父親が座る。定位置を動かないせいで、据わりの悪い互い違いになってしまう。そのまま私とこの家の関係だった。

 オセロだったら、同じ色なのに。

 まるで誰かにとられまいとするようにがつがつと早食いをするくせに、その合間に神経質そうな目で、私の呼吸をうかがう仕草を見せる。豪快なのか繊細なのかがわからない。酔って母親に手を上げる父親と、楽しそうに笑っていた父親。どちらが本当の彼なのだろう。家を伝い聞こえる父の荒げた声は、しかし横暴というよりは、風船がぱちんと弾けたみたいな激しさだった。

 いったいこの男はどういう人で、私にとってどういう存在なのだろうか。

 ばったりと目が合って、父親はようやくというふうに切り出した。

「そういえば祥子ちゃん。合唱コンクールはもう来週だったっけ」

 他人行儀で慎重な物言いに、表層がかっと熱くなるのに、芯は逆に冷えていく。

「そうだけど」

「俺も行かないといけないから。まあ、よろしく」

「そう、わかった」

 何もわからない。私には父親が何を言いたかったのか、何をよろしく頼まれたのか、さっぱりわからなかった。一緒に暮らし始めてから、こういうことはたびたびあった。にじり寄るように距離を詰めてみては、やっぱりダメだと離れていく。

 テーブルの向こうとこちらは、隣家よりも遠かった。

 突然、目の前にいる父親がまったく知らない他人に思えた。彼との繋がりは、何一つない。私はお茶を飲み干すと、手早く後片付けをして、ほとんど宣告するように言った。

「あ、そうだ。友達に相談があるって言われてるのよ。この後、ちょっと出るから」

 塾から帰るのが遅いだけで母親に手を上げる男は、当たる相手のいない夜にどうするのだろうか。



 もちろんそんな約束はなくて、私は目的地のない散歩をした。公園のベンチを占拠した猫の集会、ネズミ捕りをするパトカー、焼肉屋の前で調子っぱずれに何度も別れの挨拶をする大学生。そういう街の景色を、どこか遠くに感じながら歩き続けていると、以前住んでいた団地にたどり着いた。

 そう、たどり着いたのだ。きっと私は無意識に、ここを目指して歩いてきた。

 半年前の冬にも、同じようなことがあった。理由は思い出せないけれど、とにかく両親と顔を合わせたくなくて、適当な理由をつけて家を出たら、いつの間にかここに帰ってきていたのである。

 藤村と秘密基地にしていたゴミ捨て場を通りすぎると、中庭で素振りをする姿が見えた。そっくり同じ光景を、私は空気の凍り付いて動かない、冬の夜にも見た。

 まるで時間を止めたかのように、いつまでも少年のような藤村の姿に、自分ばかりが変わってしまった寂しさを覚える。

 彼はバットを構え、ゆっくと上げた足が、おりる――

「インハイ!」

 声をかけると、ぶぅんと不格好なスイングをしてこちらを睨んだ。それから私だと気付いたのか、嫌そうな顔をした。

「下手くそね。本当に毎日素振りしてるの?」

「アウトローからインハイに跳ね上がる球なんてあるか」

 仕切りなおすように二、三度バットを振ると、グリップを弄びながら何をしに来やがったのだと表情で訊ねてきた。私はそれをいなして、ブランコに座った。キィと軋む鎖を見上げる。良い具合に錆びているはずだけれど、今は暗くて見えない。

「……で、何しに来たの」

 たまりかねたというふうに、藤村が言った。「偶然ってことは、ないんだろ」

「ねえ、いつぶり?」

「昨日学校ですれ違ったろ」

「そうじゃなくて。ちゃんと顔合わせるの、二人で会うの、いつぶりだっけ」

「半年ちょっとぶり……くらいか」

 苦い表情をして藤村は、ずらりと並んだ蛍光灯を見上げる。私たちが思い浮かべているのは同じ夜だろう。愚痴を言ったのか相談したのかはもう覚えてはいない。ただ短い会話の最後に藤村が、「じゃあうちに寄って行けば」と言ったのは覚えている。

 その優しい言葉の冷たさに、私は逃げ出してしまった。

 ずいぶん夜は過ごしやすくなってきたけれど、吐いた息はまだ白くはならない。掴んだブランコの鎖は昼間の熱をもっている。

「あのとき、どうして私に家に寄ってけ、なんて言ったの?」

 何気なく訊ねたつもりだったけれど、一大決心をしたような問いかけになった。ゆっくりと向き直った藤村の表情は、古傷を突かれたみたいに歪んでいる。

「どうしてって……そりゃまあ、それが正しいことかなって」

「そう……」

 正しいことを為そうとした。それは間違いではないし、きっと藤村以外だったなら、その優しさに甘えられたのだろう。けれども私は、その優しさの温度の、手触りの違いに気付いてしまった。

 小学生の私を励ました彼の真心は、いつのまにか義務とか義理とか道徳心とかいう、つまりは外側の理由に変わっていた。私は助けて欲しかったわけではなくて、ただ寄り添って欲しいだけだった。

 変わらずに、そばにいて欲しかった。

 すっかり変わった家庭に居場所を見いだせず逃げた先で、見た目には同じなのに機械的な善意をかざす幼馴染から逃げたのは、つまりはそういうことだった。

「……まあ、霧島はお気に召さなかったみたいだけど」

 重たい風切り音が私の心にのしかかる。そういえばあれから藤村は、私のことを「霧島」と呼ぶようになった。私も苗字で呼ぶようになって、幼馴染はただの同級生に変わった。

「でさ」

 スイングの合間に、言葉を区切りながら藤村が言う。「よくわかんないけど、また家に居づらいの?」

「まあ……今日、お母さんいないから……」

「あ、それはやだな」

「でしょう」

「でも霧島のお父さん、ちゃんとしてるだろ」

「どこが!」

 かっと張り上げた声が団地の箱に反響して、はっと我に返った。何かを言いかけたままの口でぽかんと藤村が私を見ている。たぶん私も、同じような顔をしている。

 冬には家のことなんて、何一つ明かさずにいたのだと思い出す。一人救われた私が、彼に愚痴をこぼすことは許されないと思っていたから。

 身体に入った亀裂から自分の中身があふれてくるように、私は私を制御できなかった。こうなったのはいつ? 雫とのことがあったから?

 バットで肩をとんとん叩いて、藤村は待っている。叫び出してしまわぬように、余計なことを口走らないように、私は吐息にのせて一時の激情を逃がした。

「良いのは世間体だけ。外面だけなのよ、あいつ。家に帰ったら偉そうだし、すぐにビンタするし」

「……叩かれるの?」

「お母さんが。でも何よりむかつくのは、そういうことを私に気付かれていないって思ってることよ。立派な大人面して……」

「そういうの、本人には言うの?」

「言えるわけ……!」

 ないのだろうか。どうして私は目をつぶり、耳をふさいで布団にくるまって耐え忍ぶしかないのだろう。

 私の黙考をどうとらえたのか、藤村は肩を叩いていたバットを宙に掲げて、くるりと頭とお尻を入れ替えて、グリップの方を私に向けた。

「俺にできることは、バットを貸すことぐらいだな」

「は?」

「人の家の問題に首は突っ込めないし、でも相手は大人の男だろ。万が一もあるし。金属バットくらいがちょうどいいハンデかなって」

「わけ……わからないんだけど……」

 でもそのわけのわからなさが、私を励ますために蝶の羽化を見せてくれたときと重なって、ほんのすこしだけ心が軽くなった。いなくなったわけではない。冷たい正当性に閉じ込めているだけで、ちゃんと私の幼馴染はいるのだ。

 冷静さを取り戻すと、自分がとてつもなく醜態をさらしたような気がしてきた。ブランコの鎖がガチャリと鳴いて動揺を煽る。

 藤村は手の中でバットをすべらせて持ち直し、先端で地面を均すように突いた。しばらく何かを考えるふうに、そうして黙っていた。

「そういえば、三条……三条雫。あいつさ、最近、何かあった?」

「……何かって?」

 バットが地面を叩くたび、チクチクと針で刺されるような思いがする。閉じこもった殻の内側に、棘が生えているみたい。

「いや……なんて言うか……」

 あからさまにうろたえて、言葉を探す素振りを見せながら、最後には諦めの鼻息を漏らした。「この前、突然キスしようって言われてさ」

 真っ黒でどろりとした物が、腹の底から湧いて出た。

「……したの?」

「いや……していいものかわからなくって……」

 苦悩の表情で坊主頭をかく仕草は、ほんの少しだけ藤村を大人っぽく見せた。感情のままには動けなくなるから、人は悩み苦しむのである。そしてそれが、大人になるということだろう。だとすれば私は……父親は、大人ではない。

「ごめん、それ、私のせいかもしれない」

「なんで?」

「えっと……」

 どう言い繕おうかと、今度は私のうろたえる番だった。上手い言葉は見つからない。先ほどの藤村と同じように、苦々しく息を吐く。「私がキスしたの。その……無理やりに」

 長い間をおいて藤村は「え?」と、それだけを口にした。

「だから、したのよ。キスを」

「なんで?」

「……どうしてかしら」

 私は雫のことが好き。それは間違いないけれど、その好きというのは、唇を重ねたいような好きだったのだろうか。行為に及んだ以上は否定もできないけれど、そういう欲求があったのかと問われれば、そんなことはないと思う。雫が藤村と付き合っているのだと聞かされて、つないでいた手がするりと解けたような気がした。胸に生まれた空洞を埋め合わせるように雫を求めた。彼女を傷つけたことも、それがただの代替行為に思えることも、ひどく自己嫌悪をさせる。自分の中にドロドロと濁った何かが潜んでいることが気持ち悪かった。

 とん、と地面を蹴った。浮き上がった身体は重力に引かれて落ちていく。ブランコの振り子運動にあわせて脚を揺らす。公園を囲んだ集合住宅が、真っ暗な夜空を四角く切り取っていた。その中でこうして前後に揺れていると、飼育ケースで羽化をしようともぞもぞしているさなぎみたい。

 昆虫はさなぎになると、その殻の中で自分の肉体を一度ドロドロに溶かすのだという。そうして成虫原基と呼ばれる細胞を基にして大人の身体を作り上げる。言うなれば、さなぎは大人の鋳型である。

 なんとなくそのことを思い出して、自分の中に感じる真っ黒でドロドロしたものが、自分自身であるように思えた。

「私、昔はブランコって怖かった」

「そうだっけ?」

「そうよ。怖がりっていうか、弱気っていうか、一人じゃ何もできないタイプ」

「ああ、そういえば、俺の後ろによく隠れてたな」

 はじめてブランコを楽しいと思ったのは、藤村と二人乗りをしたときだった。脚を強く振り、体重を利用して勢いをつけると、どんどんと振り子は高くなる。

「ブランコも上手に乗れるようになったし、逆上がりもできるようになった。勉強だって学年で一番になって、身長だってずいぶん伸びて……」

 いつかかぶった私の殻、大人の鋳型の通りに、立派な霧島さんの、よくできたお嬢さんになれただろう。そして父親と同じように、力ずくで雫を手に入れようとした。それだけが愛の表現であるかのように。まったく苛立たしいくせに、どこかに安らぎもある。

 この気持ちは、なに?

 ふいに私の中で揺れていたドロドロが、ダムの決壊したようにわっと私を飲み込んだ。次の瞬間には潮の引くように消えていったその濁流に、一瞬垣間見えた気がした、結晶のような何か追い求めて思考が走るけれども、もうどこにも見当たらない。

 力を抜く。靴底が地面をこすって、振り子はだんだんと勢いを失って、ゆりかごのように揺れるばかりになった。腕を支えに後ろに倒れる。張り出した桜の腕が、闇夜に浮かんでいる。

「霧島?」

 声をかけられて、何かを言わないと、と思った。一つ呼吸の間に転じるべき話題を探した。

「ところで藤村こそ、どうしてキスをしなかったの?」

「……どうしてだろうな」

「雫のことどう思ってるの?」

「どうって……」

 どこを見れば良いのかというふうに、藤村はふいと視線をさまよわせた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ