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ひょっとしたらお母さんもお父さんも、本当は子供なんて欲しくなかったんじゃないかって、ときどき思う。
別に家族の仲が悪いってことは無いんだけど、二人ともドライっていうか。自分は自分、他人は他人っていう感じなんだ。
お母さんが仕事に行くようになったのは、小学校に上がったころだったかな。最初の頃は夕方には帰って来てた。近所のお寺の鐘が五時に鳴るんだけど、それを聞いて家に帰ったら、どっちが早いかなってくらい。でもちょっとずつ遅くなってきて、いつも私が早くなったくらいから、帰って来たお母さんを出迎えに行くと、「ただいま。ちゃんといい子でお留守番できて偉いね」って、頭を撫でてくれたんだ。
私……あんまりほめられることってなかったから、すっごく嬉しかった。だから私、ちゃんとしなきゃ、いい子にしなきゃって、思うようになって……。でもだんだん、お母さんの帰りが遅くなって、私も大きくなったら、留守番くらいじゃほめてもらえなくなった。だからもっといい子にしなきゃ、ちゃんとしなきゃ……って。自分の部屋の掃除とか、洗濯物を取り込むとか、できることはちょっとずつ手伝った。そしたら最初はほめてくれるんだけど、当たり前になってくると……。
ほめられたくて真面目にするのは、真面目って言うのかな?
たぶん想像つかないだろうけど、小さいときは私、男の子にまじって遊んでたんだ。身体を動かすのが好きだった。一人でおままごとやっても、楽しくなかったしね。自然とそうなった。
四年生の春だと思う。学校で木登りをしていたら枝が折れて落ちたんだ。いきなりで、葉っぱがうるさいことといっぱいひっかき傷ができていることしかわからなかった。立ち上がろうとして、脚の骨を折っちゃったんだって気がついた。すごく痛かったけど、泣かなかったんだよ、私。泣いちゃダメだ泣いちゃダメだって思っていた。きっと泣いたら、迷惑だろうから。
保健の先生に連れられて行った病院に、お母さんが来てくれたんだ。ストッキングが破れて、血がにじんでたのを覚えてる。「だいじょうぶ?」って訊いたら、「馬鹿」って。
自転車に二人乗りして家に帰ったら、壁越しに聞こえてきたんだ。お母さんが電話で、すみませんって何度も謝ってるの。職場だったのか、学校だったのかはわからないけど……ああ、とんでもないことをしちゃったんだなって怖くなった。今ごろ脚が痛くなって、申し訳なくて、泣きそうだったけど、じっと我慢してたんだよ。
だって迷惑をかけた私が泣くのは、おかしいでしょう。
ときどき思うんだ。私はここにいていいのかな。いる意味はあるのかな。
そんなふうに言われたことはないのに、ずっと心のどこかで、邪魔になったら棄てられるんじゃないかって……そんなふうに思ってるの。
そういうとき、意味もなく一人になりたくなる。ふらっと神社とか、河原とか、ビルの隙間の駐車場とか、人気のないところに行ってさ。もしこのままいなくなったら、誰か捜してくれるのかなって。そんなことをずっと考えてるくせに、お母さんたちに心配かけるのが怖いから、家出とかはする勇気がないんだけど。
なんとなく……なんだけど。そのまま私はどこにも帰れなくなるんじゃないかって、思っちゃうからさ。
ピアノを始めたのは低学年のころだった。お母さんが「やってみる?」って言ったから。なんとなく始めた。そんなふうに言われたのは、それだけだった。あんまり女の子らしくなかったから、ちょっとでも落ち着いて欲しかったんだと思う。
うちにはピアノなかったから、画用紙に鍵盤を描いて練習したんだ。ピアノは置けないけどキーボード買おうかって言われたんだけど、なんか申し訳なくって断っちゃった。
だって、月謝がすごく高いんだ。最初は月に六千円だったかな。そのうえ楽器まで買ってもらうのはね、ちょっと……。だから、続けられそうならって言い続けて。それでも私、結構上手だったんだよ。ちゃんとやらなきゃって、毎日練習してレッスンも真面目に受けて。
それで……、それで……。発表会に出ることになったのが、五年生のときで……。
お母さんにそのことを言ったら、「お母さんも楽しみ。頑張ってね」って。だから私、すごく頑張ったんだ。期待してもらえたの、はじめてだから。ちゃんとしなきゃ、ちゃんとしなきゃ……って。レッスンでも家でも学校でも、ずっとそのことばっかり考えてて。お腹が痛くなったり、夜中に突然涙が出たりした。
それでもちゃんと頑張った。その分ちゃんと上手く弾けるようにもなった。だけど……練習すればするだけ、上手になればなるだけ、失敗しらたどうしようって気持ちも大きくなってくるんだ。だから余計に頑張って、不安は風船みたいに膨らんでいった。
発表会の舞台はやけに眩しかった。舞台袖から出て行くと、暗い客席のなかにお母さんがいた。今日のために買ってくれた、いつも着ないようなワンピースが、やけに重たく感じられた。ぎゅって胃を握られたみたいになって、呼吸が上手くできなくて、手が震えて、涙が出てきそうで……鍵盤の白と黒とがぐらぐらして焦点が合わなくて……。
帰り道は、お母さんに手を引かれながらだった。ごめんなさいって言うこともできないで、ずっと泣いてた。怖くてお母さんの顔が見られなくて、地下鉄の窓に映ってあるのを、こっそりのぞいたら、じっと何かを考えてた。
駅を出てからしばらく歩いて、暗い路地の途中でお母さんが足を止めずに、
「そんなになるなら、もうピアノは続けなくていいわよ。ごめんね」
どうしてお母さんが謝るんだろう。私はピアノが嫌なのか、やめたいのか、続けたいのか。お母さんの期待に応えられなかった私は、必要ないんじゃないかって。いろんなことがわからなくて、やっぱり泣き続けるしかできなくて……。
次の日、目が覚めたら、涙はすっかり枯れてた。
たぶんそれから。誰かのためになることをしているときだけ、ちょっと安心できるんだ。黒板消しとか、教室で飼ってたメダカのエサやりとか。私じゃなくたっていいんだけど、誰かがやらないといけないことってあるでしょ。そういうことをやってるときは、私もちゃんと、ここにいる意味があるんだって思えるから。
でも……期待されるのは嫌だな。応えられるかもわからないし、そしたら失望されちゃうし、見放されたら……居場所、なくなっちゃうから。
それがたまらなく怖い。責任なんて負えないくせに、不必要だと思われたくない。特別じゃなくていいんだ、普通でいい。そんな気持ち。
だからね……私はたぶん、藤村君に甘えてるんだよ。夕飯に誘ってくれるし、私を見つけてくれるし……、なんとなくここにいてもいいのかなって、思って。藤村君優しいから……そういうこと、当たり前みたいにしてくれるのが、居心地が良かったんだけど……。
こんなんじゃダメだって思うけど……思うんだけど……。
私は……そんな人間。
ゴンドラが頂点に達した。話はこれでおしまいというふうに口を閉ざした三条の顔が、窓から射し入る夕陽に彩られる。眩さに細くなりそうなまぶたをこらえて、きっかりと俺を見据えて押し黙る。
堰を切ったように溢れ出した、けれどもすらすら口にしたわけでもない言葉は、ずっと表に出ないで三条の内側に渦巻いていた感情で、三条雫そのものだった。笑顔や泣き顔とは違う、三条雫の本当の表情を、俺ははじめて見た気がした。
いい子という殻に覆わなければ、立つことすらままならない軟らかな本性。
髪に自分を隠していた三条が、まっすぐに俺を見つめていた。綺麗なビー玉みたいな瞳の奥には、何かを希う切実さが宿っている。
寄る辺もなく助けを求めることさえも諦めて、それでも何かに期待して今にも崩れ落ちそうな身体を抱きしめる少女がいた、
けれど――
そんな少女に俺は、いったい何をしてあげられるのだろう。
何をすべきなのか、何を言うべきなのか。何をしても間違いのようで、何を言ってもいけないようで。閉塞感と無力感とに溺れてしまう。もがけばもがくほど、雁字搦めになっていく。
どういうつもりで自らの半生を聞かせてくれたのかはわからない。けれど、このまま黙っていたらきっとこのことを後悔する。
「あのさ……俺、よくわかんないけど……」
思わず逃げるような前置きをしたことが悔しくて、三条から目をそらす。「その……あんまり無理はするなよ。本当にダメだったら、音楽の先生がやってくれるだろうし……だからなんて言うか……」
その先はもう言葉にならなかった。三条の顔はずっと見られなくて、だんだんと近づく地上をぼんやり見つめていた。一度だけ三条が「藤村君は……」と細い、今にも毀れそうな声で言ったきり、ただ観覧車から伝わる振動音だけを聞いていた。
家々の隙間から茜色の帯がこぼれる街を、ようやく取り戻した途切れがちな会話をしながら、駅に向かって歩いた。
周囲に人の絶えたのを見計らったように、三条が俺の汗ばんだシャツの背中を掴んだ。
「ねえ、藤村君。藤村君はさ……」
不穏なほど長いあいだ言葉を探しあぐね、言いためらう気配があってから、まったく感情の読めない声で言った。
「キスとか、興味ないの」
「なに、突然」
「いいから」
「まあ、ないわけじゃないけど……」
「じゃあ、いいよ」
「えっ?」
動揺して転びそうになりながら振り向いた。
顔の片側を夕焼け色に染めた三条の顔。もう片方には暗い影が落ちている。眼差しは真剣そのもので、色恋の甘さは感じられなかった。
その提案を受けるのには、三条の抱えてきたものを受け止める覚悟が必要だった。見捨てるつもりはないけれど、それだけの自信もない。
果たして俺は何をすれば良いのか。正しい答えを探しあぐねるうちに、正解などないということに気が付いた。
心の奥で光明が閃いて、どうすれば良いのか、何を言えば良いのか、そういう全部がわかった気になって、でもそうと思った瞬間にはよどみの中に消えてしまう。言おうと思った言葉は、俺の身体を覆う殻に閉じ込められたまま、喉より先へは出てこなくて、そのうちに霧散した。
「な……なにバカなこと言ってんだよ」
そう言ってごまかすことしかできなかった。




