13
〇
朝目が覚めたらぐっと伸びをする。自転車のサドルを高くして両足を垂らしてみる。頭に血が上るまで鉄棒にぶら下がったりもする。身長を伸ばそうと悪あがきをしている。
無駄だと思いながら努力をするのは、やっぱり欺瞞なのだろうか。どうしようもない現実から逃避するための、自分への嘘。
でもやっぱり身長は伸びたほうが良いと思うし、チビなのは恥ずかしい。大きくなれないというもどかしさがあるくせに、どこかそんな自分に安心もしてしまう。この気持ちはなんだろう。
考え事をしていたせいでバットが空を切った。
「トスバッティングで空振るなよなー」
原田が次のボールを手にしたまま笑う。
「いいから、次をよこせ、次を」
ゆるゆる飛んでくるボールめがけてバットを振りぬく。チンと音を鳴らして、ほとんど真上に飛んだ。
「さっきから下振ってるぞ」
「いいんだよ、これで」
綺麗で強烈なバックスピンのかかったストレートは浮くと表現されるほど落ちない。ということは、ボールの下を叩いて回転をかければ、打球は伸びるはずなのだ。これも悪あがきなのだろうか。努力することは間違いではないはずだ。しかし間違った努力をするのは間違いなのだろうか。結果が出れば正しいのか。実を結ばなければ間違いなのか。結果ってなんだろう。バッティングの結果は、打率だとか塁打とか、なんだってあるけれど、身長を伸びたとして、それで俺はどうしたいんだろう。
考えようとしていないのに、整理のつかない思考が飛び回る。そういうものを振り振り払おうとスイングする。
良い手ごたえが腕に伝わる。打球は防球ネットをオーバーして、一直線に校舎の二階へ。俺と原田は同時に悲鳴に似た声をあげた。しかしボールは開いた窓に飛び込んだ。
「もうちょっと芯を打て、芯を!」
ほっと胸を撫でおろした原田が文句を言う。
「そのほうがいいな……」
かごに残っていたボールをきっちり防球ネットのポケットに打ち込んで、散らばったボールを拾い集める。その最中に原田が、
「しかしなあ……」と、手を休めた。
「なに?」
「や、大丈夫かなーって」
「ヤクルト? もうダメだろ」
「バカ言え。今年のヤクルトはこっからだ……じゃなくて、合コン。ほら、三条のピアノさ」
「ああ……」
伴奏予定だった北村洋介が腕を折り、代役として三条が指名された。最初は渋っていたものの、そのうちに肯いたらしい。一週間ほど学校の空いているピアノを使って練習をしていたそうだが、昨日の合唱練習ではひどくたどたどしくて、結局CDを使った。
「まだ一週間だろ。合唱コンクールは……」
「えーっと、三週間くらいか」
重い息を二人して吐いた。
「あ、そうだ。中に一球いったの、取って来る」
あらかた集め終えてから原田に告げて校舎に入る。
真夏の太陽にさらされた身体には、日当たりの悪い階段は快い。ひんやりした洞窟を登っていくと、足音にまぎれて耳に馴染んだメロディが聞こえてきた。
合唱曲「春に」のピアノだ。合唱練習はないし、よそのクラスが歌うということもない。
体育館から響く足音や、すぐ外のチームメイトたちの声が、どこか遠くに感じられる。南向きの窓を通して、四角いスポットライトが続いている。
その中のひとつに軟式ボールが転がっていた。拾って隣の教室を見る。音楽室だ。ピアノの音はここから聞こえてくる。物音を立てないように、そっとドアを開けた。
合唱練習のために机は後方に寄せられている。ぽっかりできた空間に、隅っこのグランドピアノが目立った。電気もつけない教室は美しい音色に満たされていた。心得のない俺にも、その繊細な指使いが目に浮かんだ。
夏景色を背景にピアノを弾く三条は、そよぐように揺れていた。
彼女の奏でる旋律はとても澄んで淀みがなくて、たまらなく寂しい音色だった。
俺はその清浄な光景を侵しがたい気持ちがして、入口に突っ立ったまま聴き惚れていた。やがて一曲を弾き終えた三条は、目を閉じて何かを考える仕草をしてから、おもむろにまた弾き始めて、それからはたとこちらに気付いた。でたらめな音が響く。
「ふ、藤村君?」
「や、ボールがさ……そしたらたまたま、見かけてさ」
言い訳のように持っていたボールを見せて、後ろ手にドアを閉める。よほど意外だったのか、あたふた髪を撫でつける三条。
椅子を一つ持ってピアノのそばに寄った。ポロン、ポロンと小さな音を出しながら、三条はちらりとこちらをうかがった。
「藤村君は……私を見つけるの、上手だよね」
「なんの話? というか三条こそピアノ上手いな」
「そ、そんな……。部活休んでるし……一週間もピアノ、貸してもらってるし……」
まるでずるをしたみたいな口ぶりだった。
「合唱練習は昨日だったよな」
「……うん」
「一日でこんなに上達するものなの?」
合唱練習での三条はやっとこさ楽譜をなぞれるという程度で、テンポや強弱もでたらめに感じたし、とても曲としては仕上がっていなかった。そんなピアノを聞かれることを嫌がってか、ひどく切羽詰まった顔をしていたのである。
けれども今日は、しっかりと曲として弾けていた。
「えっと……」
返事に困って、三条は楽譜に逃げた。
「もう一回弾いてくれない? 最初から聴きたい」
「う、上手くないよ?」
「さっきは上手かったよ」
「じゃあ、弾くけど……」
胸に手を当てて深呼吸をする。硬い表情だけれど、昨日とは違う硬さだと思った。
ゆっくりと鍵盤に指を載せると、二拍ほどの間をおいて演奏が始まった。やはり昨日とは別人で、素人の耳には完璧だった。
けれども受け取る印象には歌詞にあるような、ダムにせき止められていた感情が溢れ出そうとする春の躍動はなかった。その代わりに不思議なことだけれど、俺はいつか想像した三条家の食卓を……誰もいないその風景を思い出していた。
おしまいまで弾き終わると、静かに手を離して、ゆっくりとこちらを向く。
「どう……かな? ちょっと、失敗しちゃったけど……」
「そうなのか? 全然わからなかったな。上手い……と、思うけど、どうして昨日は下手だったんだ?」
緊張から解放された三条は、表情をゆるめながら視線をそらした。
「えっと……人前でピアノ弾くのって、苦手なんだ。ちゃんとしなきゃ、ちゃんとしなきゃ……って。緊張しちゃう」
「ああ」
心当たりに肯きながら、ふと疑問が浮かぶ。「じゃあ俺は?」
問いかけられた三条はしばらくきょとんとしていた顔を、雪融けを思わせる変化ではっとしてから、口元に大人びた笑みを浮かべて目を伏せた。
「……どうしてだろうね」
「どうしてだろうなあ……」
次の合唱練習は、八月最後の月曜日だった。
この段階になってなお、俺の宿題は半分も終わっていない。ひと夏のうちに後輩がぐんと身長を伸ばしたせいで、野球部で二番目に小さくなってしまった。そういうことも不思議だったけど、なにより不思議なのは三条のピアノである。
あれだけ上手だったピアノは練習になると、別人が弾いているのではと疑うほど下手くそになった。それでも前回よりはいくらかマシで、なんとか曲の体裁は保っているが、楽譜を追うので手一杯という感じで、遠慮がちに歌のあとをついてきた。とてもではないが、伴奏とは呼べそうもない。
なまじ弾けるものだから、一応合わせようということになったが、揃うものも揃わずに、主には学校行事に燃える女子がピリピリし始めて、それに委縮するように演奏はさらに弱々しくなった。
逃げ場のないピアノの前で三条はどんどんと小さく、硬くなっていく。助けてやらなければと思うのに、どうすればいいのかがわからなかった。
いよいよ何かが爆発しそうな緊張が漂い始めたころ原田が、「休憩しようぜ」と提案した。それでなんとなく、ガスが抜けるように、トイレや水分補給に散っていく。
罪悪感と無力感とが、両の肩にのしかかる。やっぱり原田の方がずっと……。
外へ出て行かない感情の渦に溺れる。息継ぎをしようと廊下に出て、ようやく三条に声をかけてやらないと、と思い辺りを見たけれど、どこかへ消えている。
窓からグラウンドを見下した。午前の今は陸上部が使っている。まさかそっちにいやしないだろうなと思っていると、校舎わきに置かれた朝礼台に、腕を吊った人を見つけた。北村である。彼はぼんやりと陸上部の練習を見ているようだった。
カンカン照りの屋外は、熱が質量を持ったようだった。暑さにはすっかり慣れた身体は、しかし経過した日の分だけ気だるい。噴き出しはない汗がじっとり肌に湿る。
足音にちらりと振り向いた北村が尻をずらした。空いたスペースに座る。
地顔の微笑みを浮かべた北村は、うっすら汗をかいても涼しげに見えた。
「三条さ……あれ、どうにかならないか」
言い方を考えあぐねた結果、ど真ん中の棒球を投げてしまった。
北村は身体を後ろに傾けて、青く抜けた夏空を見上げる。
「なんとかって、藤村も降ろせって思う?」
「いや、そうじゃなくてさ……この前。自主練してるところに偶然出くわして、そのとき上手だったんだよ」
北村はすこし驚いたふうに目を見開いてこちらを見、それからにやりとした。
「そうだよ。あいつ、上手いんだ。それなのに……」
「知ってたんだ」
「知ってなきゃ頼まないでしょ」
さらりと笑い飛ばして、北村はまた顔を空に向けた。東の地平から入道雲がわきあがっている。距離感が狂って、不安になるほど巨きな雲だ。
「だから、あんなことでやめるのもったいないし、伴奏くらいだったら弾けるかなって思って頼んだんだけど」
目だけでこちらを盗み見て、「最初は嫌がってたのに、いきなり電話でやるって。何がきっかけだったか、知らない?」
「知らないよ、そんなこと」
「本当に?」
「本当だって。北村こそ、知らないのかよ。付き合い長そうだけど」
「ま、長いは長いけど、だんだん女の子らしくなって、あんまり遊ばなくなったしねえ……」
「遊びか……。なあ、俺ピアノのことなんてよくわからないけど、気分転換したら良くなる……ってこと、あるかな」
「ないことはないかな。特に三条なんかは、技術よりも精神面の問題だろうし」
「そうか」
相槌を打って、朝礼台から垂れた足下を見る。「そういや、遊園地に行きたいって言ってたな」
「遊園地行くの? 二人で?」
いきなり後ろから女の声が降ってきた。ぎょっと振り返ると、バレー部だからか健康的な身体のわりには肌の白い、野木晴美がいた。
「げっ、野木」
「げってなに? げって」
「え? 遊園地?」
楽譜を確かめながら指先で机を叩いていた三条は、その手をぴたりと止めた。俺は大根をかつら剥きにしながら身体を三条に向ける。
「そう、遊園地。北村と野木と、富田と……それから、原田。俺と三条?」
上手い言い訳も思い浮かばずに遊園地に――北村と遊園地に行きたい野木に押し切られるように、そういう話になった。男二人だけで行くのは変だし、そこに三条だけが混じっても、やはり変である。
二人で行くのだと言ってのけることもできずに、義理立てるように原田まで巻き込んだ。
「えっと……いつだっけ」
「明後日」
休日は人が多いだろうからと、八月末に駆け込んだ形だった。「予定とかあった?」
「それはないけど……」
暗い顔をして三条は考え込んだ。野木とはタイプが全然違うし、遊びに行って余計に疲れることを心配しているのだろうか。
高い音でやかんが鳴いて、俺たちは我にかえった。「とにかく考えておいて」と料理に戻る。
いつものように妹を含めた三人で食事をし、後片付けをすませて、俺は三条を送るために家を出る。このところ玄関まで見送りにくる妹が、お見通しだぞと言いたげな笑みを浮かべるのがすこし癪だった。
夜風が夏の熱をさらい、秋の気配を運んでくる。歯軋りみたいだった虫の声にも、高く澄んだ音色が目立ち始めていた。そこへ混ざるカラカラ回る車輪の音と、ガタガタやかましい自転車かご。二人分の足音。
季節の変わり目を体感すると、いつも何かに追い立てられているような気持ちになる。日々は確かに過ぎていき、暦は日めくり進んでいく。それなのに今日の自分は、昨日も先月も、去年からも、何一つ変化のないように思う。小さな葉っぱの上から動けないで、はるかな雲の流れを見つめる芋虫みたいだ。蝶になんてなりたくないけれど、蛾になることを恐れている。
漠然とした不安から、目下の課題に頭がうつった。
「そういや三条は宿題、終わった?」
「うん。もう終わったよ」
「へえ……ちゃんとしてるなあ」
感心して三条の方を向くと、彼女はバツが悪そうに視線をそらした。
「ちゃんとしてないと……」
車のヘッドライトが通りすぎる一瞬、光と闇の交錯に三条が見えなくなる。まるで夜にさらわれるようだった。そういうひどく不安定であやふやな場所に、彼女はいつも佇んでいるような気がした。俺はきっと舫いには不足している。
外へ出て行こうとする感情が、凝り固まった自分の檻に押し戻される。そうしてただ無力感だけを残した。
「三条は行きたい高校とか決まってる?」
「え? うーん……そういうんじゃないけど、とにかく勉強はちゃんとさ……」
すこし外した彼女の視線はどこをも見ていなくて、溢れてしまいそうな自分の感情に溺れてしまわないように、目をそらしているのだ。今の自分と、いやにそっくりだった。見かけ上の出来はまるで違うくせに、そのほんのわずかな接点が、三条が俺なんかにすがった理由なのだろう。
親近感とか仲間意識とか。傷のなめあいと言っても良い。
また背中に足音を感じながら歩いていると、思い出したかのように三条が訊ねた。
「藤村君こそ、どうなの?」
「まだだよ。宿題も進路も、なんにも」
「もう来週、二学期だよ」
「夏休みって年々短くなってる気がする。宿題が終わらないなんてこと、昔はなかったのにな」
「それはちゃんと宿題をやってたからじゃないかなあ……」
どことなく呆れた声で言うと、三条は「今日はこっちから帰ろう」と筋違いの裏道を指した。線路沿いの細道は暗く静かで、カラカラ、ガタガタと自転車のうるさいのがやけに大きく響く。
ふいにシャツの裾を握られた。それが思いがけず強い力で、俺は振り返ることをためらった。目に見えぬ一線が引かれているようで、踏み越えるには覚悟が要った。
視線は夜空に逃げてしまう。何億光年という闇が広がっている。
「……俺は宿題頑張ってないけど、三条はちゃんとやってるし、ピアノだって頑張ってるだろ。だから遊園地、息抜きにさ。どう?」
「藤村君は……」
シャツを握る指先が、わずかに動いた。「私と遊ぶの、嫌じゃない?」
「えっ、なんで」
「だって……今年の夏、一度も……」
「嫌じゃないよ。嫌じゃない。ただ……忙しかったっていうか……」
それとなく三条に水を向けられた。同じくらいに彼女を誘おうとしたこともあった。そのたびに罪悪感が身体をいましめた。
俺と違ってちゃんとしている彼女の時間を奪うことが、ひどくいけないことのように思えた。
真っ暗な空に弱々しい星が、ぽつねんと光っていた。




