12
〇
自分の気持ちに嘘はつけない。想うことは止められない。
今朝からいくらか心が軽いのは、両親が家にいないからだった。父親の実家に帰省している。中学に上がってからは、何かと理由をつけて私は留守番をすることにしていた。
午前は合唱コンクールの練習があって、九時には学校についた。二年二組の自由曲は「翼をください」だ。定番である。みんなわかりきった歌だからか、歌えばそれなりに上手くできるが、練習には熱が入らないという具合で、真面目な子がだんだんと腹を立てるのを、私は横目に見ていた。
午後からは予定がなかったし、家には誰もいないのだから素直に帰っても良かったけれど、私は美術室に寄って宿題をし、ついでのように絵を描いた。
何を描こうとしたわけでもなく、頭の中にずっとリフレインする「翼をください」に筆を任せて描いた。それなのに出来上がった絵は曲のイメージとはかけ離れていた。翼を生やした少女が、その羽で自らの身体を抱きしめる絵だった。
自由にはばたくこともなく、寒風に身を縮こませるようなその少女を眺めていると、誰もいない家を思い出した。そのがらんとした広さ。両親を疎ましく思っているくせに、いないとなると寂しいのだろうか。まさか、と思うけれども、否定することもできない。
まったく心は正直だ。
だからそうして物思いに耽っていたとき、ふいにドアが開けられると心底驚いたし、それが雫だとわかると無性に嬉しくなった。
「あ、祥子ちゃん」
「どうしたの? 部活、は朝よね」
「合唱の練習。それでね、ちょっと相談なんだけど……今、いい?」
「いい……」
言いかけたそばから、低音楽器の音が降ってくる。真上の教室で吹奏楽部が練習を始めたらしい。そういえば先ほどまでは合唱だったから、それが雫のクラスだったのだろうか。「けど、ここは落ち着けないわ。そうだ、雫って今日と明日、なにか予定ある?」
思いがけない質問に雫は大きな目をさらに丸くして、きょろりと上を向く。
「えっと……特にはないけど……」
「それなら私の家に来ない? 今晩親がいないの。お泊り会、しない?」
一度家に帰った雫は、Tシャツとハーフパンツというラフな格好でうちに来た。雫の家にお邪魔したことは何度かあったけれど反対は初めてで、丁度中間くらいにある公園で待ち合わせをして、ぶらぶらと夕涼みをしながら二人で歩いた。
「わあ、立派……」
くるくると周囲を見ながら雫が言う。
「大きさだけね。無駄が多いのよ」
簡単に家の中を案内してから二人で夕食を作った。オムライスとインスタントのポタージュ、それとサラダ。器用に動くわりには不慣れな雫の手つきに、はらはらしながらの調理だった。
食事を終えてからはゲームをして、夏休みの宿題の答え合わせをして、それから一緒にお風呂に入ることになった。
シャツを脱いだ雫は脱いだそばから服を畳んで、持ってきたビニール袋に入れていく。私は脱いだものを洗濯機に入れていく。
バスタオルと着替えは、洗面所のラックに並べて置いてある。ふたつ並んだパジャマに、本当に雫がうちにいるんだ、と不思議な気が起こる。
眼鏡を外して自分の着替えの上に置くと雫が、
「眼鏡してなくて大丈夫なの?」
なかばこちらを見ながら浴室に足をおろした雫は、流れ残った水の冷たさにびくっとした。「わあ、広い」
「平気よ。そんなには悪くないもの」
裸眼でも雫が私に遠慮するようにして、シャワーを譲るのはよく見えた。
「背中、流しっこしようか」
低いバスチェアに腰かけさしだされた背中は、意外なほどに白い。首筋から体操服焼け、スクール水着焼け、そして地肌へとグラデーションがかかっている。骨の硬さを感じる肩に手を添えて、背中をくまなく洗う。最中、ふと魔がさしてその背筋をそっと指で撫でたら、「ひゃっ」と可愛い悲鳴があがる。
「もう。なに?」
「ごめんごめん。はい、終わったわ」
「それじゃ、交代ね」
一生懸命に洗ってくれる重みが背中に心地良く、力む吐息はこそばゆい。その感覚が懐かしい。
最後に母親とお風呂に入ったのは小学六年生になる春休みだった。旅行先の温泉でのことだ。すでに両親に対して壁を築き始めていたのを察してか、母親が「背中、洗ってあげようか」なんて言い出した。断る言葉を思いつかなくて、言われるままに洗われた。
帰省中の両親のことに、それもどうしてか仲睦まじい二人を想像すると、唐突に自分の肉体が厚い殻になったように、外界と自分とに隔たりを感じた。自分の腕をとって、ぎゅっと抱く。
「祥子ちゃん、寒い?」
雫が不思議そうに私の顔を覗き込むのが、気配でわかった。「夏なのに」
「そうね、寒いのかも」
髪や顔まで洗ってから、私たちは向かい合ってお湯に浸かった。さすがに少し窮屈で、折った脚がいつも触れている。肩まで沈んだ雫はまるで幽霊でも見るように、微妙に私から視線がずれている。なにかしらと思っていると、
「偉いなあ、祥子ちゃん。ちゃんと髪の毛巻くんだ」
「だって雫、短いでしょ」
「い、今はね。長い時も面倒くさくてやってなかったよ」
少女の恥じらいの笑みを浮かべながら、そんなことを言う。大人しくはあっても物静かではないのが彼女だった。雫のそういうひっそり隠れた一面を見るたび、なんとはなしに嬉しくなる。それだけ心を開いてくれているんだという安心感。
「それで、ずいぶん後になったけど相談って?」
「あ、そうだ。忘れるとこだった」
可愛く目を見開いてから、悩ましげに目を伏せる。濡れた前髪の一束が、そっと眉間に流れている。「あ、あのね……合唱の伴奏ってあるでしょ」
「伴奏?」
「うちのクラスは北村がやるはずだったんだけど……折っちゃったんだ、腕」
「え、大丈夫なの?」
「まあ、本人はね。でもしばらくピアノなんてできないからって、私に代われって言うんだ……」
しばらく考えてから、一番の疑問を口にした。
「雫、ピアノ弾けるの?」
「だから相談してるの。五年生までは北村と同じ教室に通ってて、でももうやめてから何年も経つし……あんまり得意じゃないし……」
だんだんと雫は沈んでいって、最後は口をお湯につけてぶくぶく泡を吐く。
「他に弾ける人は?」
ゆっくりと首を振ってから、同じ速度で浮上する。なめらかな顎をすべって、水滴が落ちる。
「祥子ちゃんはどうしたら良いと思う?」
「え?」
雫の顔から意識を戻す。遅れて言葉を認識して、「どうして私に」
「だ、だって……祥子ちゃん、いろいろとアドバイスしてくれるし……」
すがるような目をする。私は急にのぼせた気がして、浴槽の縁に腕を預けて上体を持ち上げる。気休め程度の涼しさを感じる。そのまますこし考えた。
「……そうね、やってみれば良いとは思うけど……どうしても嫌なら、断っても良いんじゃないかな。ピアノ弾く人がいないクラスは、元々音楽の先生が伴奏をするわけだし」
「そう……かなあ……」
「無理をすることではないと思う」
「……うん、そうだね。ありがと」
にへら、と笑った拍子に髪先から汗が一滴、湯船に落ちた。
雫は髪の毛をわしわし拭いていた。タオルで包んで水気を取る私を見て、なにか感心したような息を漏らしてそれに倣う。そして「女の子みたい」と呟いた。
湯上りの彼女はいつもより魅力的だった。それは濡れた髪から私と同じシャンプーの香りがするからなのか、運動した後のように血色が良いからなのか、それとも水分をたっぷり含んだ肌が味付け卵みたいに、つるつるのつやつやだからなのかは分からない。
ドライヤーで髪を乾かした流れで、パジャマの襟から送り込む。そういう日常の仕草の一々が新鮮で見ていて飽きない。鑑越しに目が合って、お互いがなんとなく笑う。
家族がいないので気を遣う必要はないけれど、リビングは二人で過ごすには広いので、戸締りを確認して私の自室に入った。
「あ、お母さんからメール」
携帯電話を確認した雫が一言断って返信を打つ。何気なく確認した自分の携帯電話には着信もメールもない。ふっと心の中で風が吹いた。寒空に枯れ木が鳴く。雫と行った美術館で、私の目を惹いた絵を思い出す。題名も作者も覚えていなかった。
それから二人でとりとめもない会話をした。日付の変わるころになって、雫がたびたびあくびをし、まぶたがとろんと降りてきた。
「私、どこで寝ればいいのかな」
きょろきょろと部屋を見まわして雫は訊ねた。
「ベッドじゃないの」
「でもそうしたら祥子ちゃんは?」
「私もベッドで寝るわよ。大きいから大丈夫よ」
「他に布団ってないの?」
「一応クローゼットにタオルケットくらい入ってるけど……」
ベッドと反対側の壁を見る。一面がクローゼットになっている。「私と一緒、嫌?」
「い、嫌じゃないよ。じゃあ、お邪魔します」
電灯を消してベッドに入る。大きいとは思っていたけれど、二人並ぶと案外狭い。私は片方を壁に、もう片方を雫にくっつけていた。
「大丈夫? 身体、出てない?」
「うん、大丈夫だよ、ありがとう」
腕が重なる。体温を、息遣いを、気配を感じる。主観的に雫がそこにいる嬉しさと、俯瞰的にこの空間に雫のいる違和感が同時にする。ふわふわとしていて、たぶん浮かれている。
こういう場合、布団に入ってからが長いもので、私たちも眠ろう眠ろうとしながらも、穏やかな調子で会話を続けた。
「それにしても驚いたわ。雫がピアノ弾けるなんて」
「そ、そんなに変かな……」
「変ってことはないけど。そういう素振り、まったく見せなかったでしょう」
「……機会もなかったし」
雫の部屋を頭に浮かべる。ピアノをやっていたという痕跡はまるでない。それと伴奏を引き受けることを悩んでいたのは、関係があるのだろうか。それとも単に自信がないだけなのだろうか。
「もう秘密にしてること、ないでしょうね」
彼女は返事をしなかった。不穏な沈黙だった。
「……雫?」
「秘密……っていうわけじゃ、ないんだけどね……」
まるで意識がすうと遠のくように声が小さくなる。なんだろうと首をめぐらす。暗さに慣れた目は、窓から入るかすかな光にぼんやり浮かぶ雫の顔を捉えた。綺麗な鼻筋が、すっと白く光を受ける。頂点から辿っていくと、天井をじっと見上げて物思いに耽る瞳があった。その瞳のわずかに揺らぐ様が、私の脳裏に焚火を思い出させた。ぱちぱちと木が爆ぜて、炎は熱さに身悶えするように揺れている。燃えていなければ消えてしまい、燃えていれば熱くて仕方ないというジレンマ。
その揺らめきはやがて、なめらかな動きで私を見つめた。
「祥子ちゃんに話そうかって、ずっと悩んでたんだけど……」
前置きをする雫の声は、恥じらいのクッションの下から、とても硬い手触りを感じた。
なぜだろう、すこしだけ嫌な予感。問いかけは自ずと緊張する。
「……なに?」
「えっと……私ね、その……藤村君と、付き合ってるんだ。一応、ね……」
やっぱりという思いが胸を締め、細い吐息がふるえた。とてもではないけれど目を合わせていられなくて、私はゆっくりと天井を向く。髪が枕との摩擦で広がる気持ち悪い感触。自分の身体にさえ異物感があった。肌に触れるすべてのものが、不快にくすぐったい。
「へえ、そうなんだ」
自分の口から出たはずの言葉が、まったく見当違いのところから耳に届く。
「それで私、よくわからなくて……」
「なにが」
「気持ち……とか。その、恋人らしいこととか、全然なくって……。藤村君、本当はどう思ってるのかな、って。優しいから――」
ふいに何かが弾けた。夏用の薄い掛け布団が跳ね上がる。
雫の顔に垂れた髪。
私の黒い、真っ黒な髪。
その中で彼女は不思議そうな顔をする。
唇をそっと重ねると、目を丸くして息を呑む。
「あいつは雫のこと、好きじゃないわ」
もう一度キスをして、固く閉じた唇をこじ開けるように舌を挿し入れる。ぬめりとした水音が脳に響く。
雫の手が私の胸を押す。いじらしい抵抗。身を守るように、二人の間に浮かんだ両手。
その殻を剥きたい。
怯えた瞳のその奥を、私は見たい。
「好きよ、雫」
彼女のパジャマに手をかけると、「いやっ……」と身をよじる。
ひどくもどかしい。けれども愛おしい。
もぞもぞと暴れる雫の手を抑えてボタンを取る。力の入って浮かんだ腹筋、ふるふる震える胸。意味をなさない声と吐息が至近距離で混ざり合う。
頬に口づけをして、沈み込むように首筋に舌を這わす。ほんのりと汗の味がした。頭を抱きかかえ、逆の手で雫の身体をたぐり、下半身に手を伸ばす。
「やっ……だめっ!」
ひときわ大きな抵抗に、私の身体が持ち上がる。どうして私を――。
乾いた音が響いた。
目に涙を浮かべて横を向き、じっと動かない雫がいて、自分の手がジンと熱い。
意識が自分の身体に浸透していって、はっと夢から醒める。何をしていたのか、頭がようやく理解する。
「あっ……ごめんなさい………その、そんなつもりじゃ……わたし……」
言い訳は形にならない。自分が雫の上に乗っていることに気付いて飛び退くと、雫はのそりと立ち上がる。とっさに手を伸ばして彼女の腕をつかもうとしたけれど、恐怖に竦む。彼女は静かにクローゼットを開けた。
「やっぱり借りるね」
感情を感じない平坦な声。
「あ……うん……」
手さぐりにタオルケットを探し当てると、雫はそのままクローゼットの前で横になった。私は何度か返事をしない雫に「ごめんなさい」と謝ってみたけれど、そのうちにたまらなく眠たくなった。
ごめんなさい、ごめんなさい。何度も繰り返す間に、父親の顔がちらついた。
心底嫌悪する、最も醜いその男と、まったく同じことをしていた。
同じ? 違う。そんなはずがない。私の気持ちはもっと純粋で……けれども……。愛しているのに……愛したいのに……私の物にはならなくて……。
わけもわからず溢れそうになる涙をこらえる。私に泣く資格なんてない。自分の身体を抱きしめて丸くなる。
純粋に雫のことを愛していた。彼女の密かな美しさを磨いてあげたいだけだった。眺めていたいだけだった。でもこれは肉欲で、所有欲で、独占欲で、ひどく醜く、歪な感情。
自分の気持ちに嘘はつけない。なんてのは嘘だ。




