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相手校の顧問はこちらの顧問と飲み友達で、月に一度の飲み会ついでに練習試合をする、戦い慣れた相手だった。甲子園で繰り広げられる熱戦に引っ張られて、単純な野球部員たちは柄にもない、引き締まった好ゲームを演じた。当たりも良いが、守備も良い。ランナーを貯めれば投手が力投を見せるという具合に、お互いに二点ずつをもぎ取って迎えた最終回。
九回表の攻撃。延長はしないためここで点を入れなければ、引き分け以下が確定する。打順は一番の塩見先輩からだった。
乾燥しきったグラウンドは、ボール回しをする動きに合わせて砂埃を立てる。マウンドには七回から登板している一年生投手。下級生のくせに身長は俺よりずっと高い。
二番の俺はネクストの位置で、バットを握ってぼうっとしていた。水分補給をするそばから汗になって流れる。それでも体温は下がらない。
力なく空を見上げる。ぎらりと輝いた太陽が、ふいに大きな影に隠された。
「なに、原田」
「緊張してるかなって」
にっ、と歯をみせて笑う。見上げる角度のせいもあって、俺はじとりと睨む視線を返す。
「してないけど」
「うそつけ」
「はい?」
「回ってくんなって顔してるぞ」
「どんな顔だよ……」
呆れたように返しながら図星だと思う。試合を決めかねない打席に立つと、緊張しているつもりはないのに、明らかなボール球に手を出すことがよくあった。
「監督も言ってたろ、緊張したっていいって。緊張してないとか、しちゃいけないって考えるから硬くなるって」
「だから緊張はしてないって」
「はいはい。とにかく、塩見さんかお前が塁に出て、俺が帰す。それで勝ちだ」
どっしりとした大股で、たぶん彼にとっては普通の足取りでベンチに戻る原田の背中に、ため息まじりの声をかける。
「原田はさ……」
「ん?」
振り返った原田の顔は、熱線の眩しさのせいか砂埃のせいか、よく見えない。
「マイペースっていうか、すごいよな。自信満々でさ」
「そうか?」
「そうだよ」
プレーの声が響く。グラウンドの対岸の体育館から出てきた他の部活動の生徒が、休憩がてら観戦しているのが目に入る。ミット音と、両チームのかけ声。バットがボールを叩く、気持ちの良い音。
左中間深くに落ちる。塩見先輩は一塁を蹴って悠々二塁に到達する。息をひとつ吐いて重い腰を持ち上げると、代打がコールされた。
気合の入った顔をする添木とすれ違いながらベンチへ向かうと、サインを出した流れで監督が俺を手招きして、隣に座るように促される。古びたパイプ椅子にクッション性はない。
監督はぼんやりとした視線をグラウンドに向けたまま、不器用そうな手つきで顎髭を抜こうとする。濁った声が何気なく響いた。
「なんで代えられたかわかるか」
「打てないからですか」
「不満そうだな」
「そんなことは……」
「顔に書いてんだよ」
初球はボール。二球目を添木は振って、打球はレフト線を切った。
「藤村お前、競ってる終盤、苦手だろ」
「……得意な奴なんて、いるんですか?」
「露骨だっつってんだ。なんでだ?」
「そりゃあ……打たなくちゃいけないからですよ。バッティングなんて三回に一回打てればいいのに」
「それがわかってるなら、あとちょっとだな」
「何がですか?」
添木は二ストライクから三球粘って、しぶとく力のないゴロを打つ。アウトの間にランナーは三塁まで走った。
「原田ァ!」
大声で原田を呼び止めて、監督は意味のないサインを出した。任せたということである。代打を送られた自分が、ひどく情けなかった。冷たい影が覆いかぶさる。
椅子に深く座りなおして監督は、
「最悪でも進塁打を打たなくちゃならん、って考えるんだな、お前は。最悪、進塁打でもいいやじゃなくて」
「……それはどういう」
楽天的か悲観的かという話だろうか。
「いつも言ってるだろ、緊張したっていい。それは結果だ。まずはそれを認めて、なんで緊張してるのかってことを考えろ。打たなくちゃいけないのはどうしてだ、勝ちたいのはどうしてだ。おまえはもう少し、自分の気持ちに素直にならんとなあ」
打席にどっしりと構えた原田に、相手投手は臆したのかボールが先行する。キャッチャーが声をかけて三球目。ストライク。原田は不気味なほど動かない。
「なんで代えたかって言うとだな」
出し抜けに監督が言った。四球目、速球。待ち構えていたように、原田がバットを振り抜いた。快音を残した打球は放物線を描く。
「負けた方が飲み代だからだ」
遠く校舎を目指したボールを追った視界に太陽が入って、俺は眩しさに目をそらす。
「――で、原田がツーラン……ホームランを打って、試合はそのまま勝ち」
「へえ。すごいね」
「すごいよ、あいつは」
自分の声には内向きの棘があった。そういう気持ちを悟られたくなくて、
「それで帰り道でさ……」と言いかけて言葉を失った。
熱帯夜の蒸し暑さがまとわりつくのに、身体の芯は震える寒さで凍えている。
「帰り道で?」
「あ……その、帰り道で駄菓子屋に寄ったんだけど……久しぶりに行くと、なんかすごい楽しかった」
「駄菓子屋か。私も行ってないなぁ……」
うかがう声が背に刺さる。身じろぎもできないもどかしさを覚える。
「……あ、明日の練習、何時からだっけ」
「え? あ……部活? 合唱?」
「合唱」
「えっと……一時かな。野球部どうするの?」
「休む。どっちかを」
マンションの前で足を止める。エントランスの光が、入口の前に広がっていて、ふと足下を見ると、影は不確かに落ちていた。三条は俺を追い越してから、くるっと振り返って、
「ん……まあ、そうなるよねえ……」
答えになってないぞと言いたげに、心なしか拗ねた表情を向ける。けれどそれは口にも出さないで、また普通の顔になった。
「それじゃ明日、学校でね」
照れくさそうに上げきらない手を、小さく振る。
「うん。またな」
俺の手もやっぱり上がりきらないで、胸のあたりに浮かんでいた。くすぐったい気恥ずかしさが、自然と頬を緩める。そんな表情に気付かれたくなくて、自転車をUターンさせて引き返して、ふと振り返ると、マンションの出入口の陰からのぞくようにこちらをうかがう三条がいた。そうしてまた、お互いに小さく手を上げて、今度こそ家へ帰る。
自転車を漕ぎながら、不自由に別れを言った右手をぼんやりと見る。ほんのり暖かい気がした。それは心の奥にもあったけれど、自覚した途端にさっと冷たい風が吹く。
悲鳴のようなブレーキをかけて、もう見えなくなった三条の家の方を見る。言葉にできなかった話の続きが、じくじくと俺を責める。
「帰り道でさ……」
試合を終えると顧問の先生は、現地解散を言い渡して相手校の先生と飲みに行った。用具の片づけ当番を免れた俺と原田は、ふらりと駄菓子屋へ寄った。
真西を過ぎた太陽は北へと滑り落ちてゆき、辺りを夕焼け色に染めていた。
駄菓子屋の軒先に置いてある錆びたベンチに、だらんと座った原田が、西日に手庇をかざして、
「こんなに明るいのに酒ってなあ」と、いつもの鷹揚な声にすこしの呆れを混ぜて言う。
割り勘で買ったチューペットの片方を差し出して、原田の隣に座る。斜めになった彼よりも、俺の座高は低かった。うんざりとした気持ちが漏れ出る声で、
「近所のおじさんが言ってた。大人は美味い酒のために野球をするって」
「その気持ちはわかりたくねえ……おっさんになりたくねえ……」
口で受け取ったアイスを咥えたまま上下させる。そのしかめ面が、咥え煙草のおっさんに見えること。視界に入る太陽が眩しくて自分の影へと目をやった。
「そういや、明日、合コン練習だっけ」
原田の問いかけに口だけで答える。
「そうだよ。午後だと思う」
「ま、試合の翌日だしな。いい休養日だ」
「小学校のときは練習が週一だったのにな」
「あー、日曜だけのな。今はまるきり逆だ。週休一日」
原田が笑うとベンチがかすかに揺れた。「あ、今も毎日やってんの? 素振り」
「まあ……いちおう」
「へえ、すごいなあ、藤村は。俺はやろうやろうと思ってもさぼっちゃう」
「すごいのは……」
耳の奥に快音がよみがえり、言葉はどこかに飛んで行った。
ガリガリと氷をかみ砕いてチューペットを食べ終えた原田は、空になった容器を息でぺこぺこさせる。俺はもったいない気がして、時間をかけてゆっくりと食べていた。
しばらくしてから、容器から口を離して息継ぎをする音に続いて、「あー」と言葉を探す声をさせる。
「そういやほら、誰だっけ。あの鍵を返しに行ってた」
「……三条?」
「そう、三条」
答えがわかっていたかのような素早い相槌に、嫌な予感がした。手にした氷の冷たさが全身に回る。
「藤村知ってる? あれ、毎回やってんだぜ。健気っていうのか、いいよなぁ、ああいうの」
以前同じことを言ったときの感想とは違って、その物言いには感情があった。おそるおそる顔を向けると、彼は照れ笑いを浮かべていた。
「……そう、かな」
「そうだって。そんでさ、なんていうかな……好き……なんだろうな。まあ、そういうことで……」
言い切らない言葉のかわりに、頬にできたニキビを爪でかいて潰す。代打を告げられたときの悔しさや、虚しさや、その裏にある安心が俺を抱きすくめる。靴の中で指を握りしめる。
「……送りバントでもしろって?」
「ダメか?」
俺は返答に戸惑った。考えてはいるのだが、何を考えているかもまとまらない。
どう答えるべきなのか。どう答えることが一番良いのか、わからなかった。
「……できるかわからないことを、約束はできないぞ」
そう答えたときに胸を埋めた罪悪感は、いったい誰に対してだろう。
ぶんと空気を押しのける音。腕がだるい。今日は何度バットを振っても、廊下にならぶ明かりが、ずっとこちらを見下ろしてくる。シャツが汗でぐっしょり濡れて重い。吐く息も蒸気のように熱かった。
懸命に振り払おうとバットを振り回すが、たちこめる靄をかき混ぜるだけの徒労感。頭の中にはずっと、三条と原田のことが居座っていた。
俺よりも原田のほうが、ずっと男らしくていい奴だ。同じくらいだった身長もすっかり離れてしまって、並べば俺はガキにしか見えないし、何よりそんな比較をして見劣りするのだと落ち込むような性格が、男らしいはずもない。
「俺よりも……」
癖のような無意識の比較。俺よりもきっと、原田の方が三条にお似合いだ。そう思うくせに、三条にも原田にも何も言えずに、困り果てている
全部を忘れたくてバットを構え、そして振ることができずに腕を垂らす。
原田は俺が毎日素振りすることを、すごいと言った。そんなことは全然ない。
野球チームに入って、バットを買い与えられたときに、与えられた責任を感じて、まじめにやらなければならないと思った。だから真面目な姿を演じている。野球が上手くなりたいわけでも、心底愛しているわけでもない。休憩の方が長いテスト勉強と同じ、自分自身を嫌な感情から遠ざけるための言い訳だ。
三条との関係も、原田との友情も、日課の素振りでさえ、ただの欺瞞だ。
自分自身に嘘をついている。




