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「で、でも本当にいるのかな。いくら思い出の場所っていっても……」
「あくまで儂の感だが……、間違いない。誰よりも幸せになることを望み、愛を求めた翡翠だ。思い出の場所で必ず待っているはずだ。あの頃のように……」
目的地へと進む俺達を照らすのは、わずかな月明かりだけだ。薄曇りの空からの頼りない光では、今の親父の表情をはっきりとはうかがい知ることはできない。
夜目の効く銀華さん達は、いったいどんな親父の表情を見ているのだろうか。
だが、その声や口調からは感じ取ることはできないが、けっして内心は平常心ではいられないはずだ。なぜなら、親父は確かに九尾を『倒す』と言ったのだ。それはおそらくだが、もう一度封印することが難しい、もしくは母様の衝動を抑えるすべが無きに等しいと認めていることを意味する。
「でも、もし本当にお二人が出合った場所で待っていたとしたら……。不謹慎かもしれないですけど、切なくてロマンティックです……」
「フン、おそらくはいるのであろう。あ奴は、昔から変わり者だったからな……」
「クッ、クーちゃん。お義父さんの前で……」
さすがに親父の前での悪口はためらわれたのか、銀華さんはクーコを嗜める。だが、それについて親父は何の反応もない。
「お嬢さん方、お喋りはそこまでにしよう。もうすぐ到着だ」
獣道を抜け視界が開けた先には、この場にいる全員が乗ってなお、広さに余裕のある平らな大岩がある。そこは幼い頃より俺の慣れ親しんだ場所であり、クーコと出合った場所。そして、親父と母様が出会った、すべての始まりの場所でもある。
その大岩の上には、親父の予想どおりと言おうか。一人佇む女性のシルエットが見える。
その時、一陣の風が吹き、まるで計ったように雲の切れ間ができる。雲の隙間からのぞく月明かりが辺りを照らす中、さながらスポットライトを浴びたかのように岩の上に照らし出されたのは、翠の髪と瞳、そして九つの尾を持つ美しい妖狐。
風に吹かれて宙を舞う桜の花びらの中に立つその姿は、知らぬものが見れば、なんと幻想的で美しい姿かと思うだろう。まるでこの世に舞い降りた、女神か天女のようだと。
だが、俺達から見ればそうではない。その美しさと現実の落差に、さながら人を堕落させる悪魔を目の前にしたような悪寒を覚える。
「お待ち申しておりました、蒼月様……」
「相変わらずお前は、待ち合わせ場所に来るのが早いな。翡翠」
「ホホホ、それはもう。周りから見ればわずかな時だったかもしれませぬが、妾にとっては再びの逢瀬までというのは、一日千秋で待ち侘びる時間でしたから」
「気が合うな。実は俺もだったんだ。お前と別れた後は、早く次の日が来ぬかと待ち侘びておったよ」
「ああ、なんと嬉しいお言葉を……。それゆえ、蒼月様の嫁にと言われた時は、天にも昇る気持ちでございました……」
九尾の言葉、態度から、ひょっとしたら今なら話し合いで解決できるのではないか、そんな考えが浮かぶ。だが、恍惚の表情で親父に語りかける姿を見て、それが無駄なことだと悟る。なぜなら、その表情はすでに、狂気を含んだものだったからだ。
「蒼月様のことですから、てっきりその式と二人だけで来るものと思うておりましたが……」
「フン。残念ながら、こいつは聞き分けの良い子に育ってくれなくてな」
「あらあら、駄目よ緋色。父様の言うことをちゃんと聞いて、立派な大人に育たなくては。やはり父親のみでは限界があったのね。でも心配しないで、これからはずっと母様が一緒よ」
言うが早いか、九尾の鋭い尾が俺に向かい真っ直ぐに伸びてくる。虚をつかれた俺は、一瞬反応が遅れる。だが……。
「させると思うか!」
俺の前にはクーコが立ちはだかり、九尾の尾を弾いていた。
「アンタ達は下がりな!緋色、この子達はアタシと狗巫女に任せときな」
瞬時に話し合いが無駄だと悟ったリルさんは、抱えるように弘美ちゃんとリサリサさんを後ろへと引き摺って行く。それを見た狗巫女ちゃんも、慌ててリルさんへ続く。
「フフ、心配しなくてもいいのよ、緋色。男の子が女の子を好きになるのは、自然なことなんだから。その娘達も、後から食べて一緒にしてあげるからね」
「よせ、翡翠!関係のない者に手を出すな」
隙を突いて、親父は結界の呪符を投げる。だが、九尾が九つの尾を振り回した瞬間、突風が吹き荒れ呪符はことごとく弾き飛ばされる。そして、その突風で俺と銀華さんは弾き飛ばされる。
「緋色様!おのれ!」
今度はクーコが無いはずの尾を振るう。お互いの暴風がぶつかり合い、周りの木々が吹き飛ぶのではないかという衝撃波が走る。
「ぐっ……、リルさん!?」
耳をつんざくような音に、一瞬鼓膜が破れたかのような錯覚を起こす。俺でさえそんな状況なのだ、聴覚に優れたリルさんたちは……。
「心配ないさ。こっちはいいから、アンタは自分のことに集中しな!」
リルさん達は距離を取り、木の裏に隠れていた。そのおかげか、直接的な衝撃波は受けなかったようだ。
「銀華さん!」
「だ……、大丈夫。ちゃんと聞こえるよ」
銀華さんを見れば、クラクラするのか頭を振っているものの、聴覚に影響はないようだ。おそらくだが山高帽が音を吸収し、クッション代わりになったのだろう。人間と違い、頭上に耳があるのも幸いしたようだ。さすが幸運の持ち主というべきか、こんな所であのファッションが役に立つとは。
「翡翠様、ご無礼!」
その間隙を突き、巨大な蛇が九尾にまとわり付く。そしてその巨体を利用して、長い尾を体に巻きつけ動きを封じる。
「蒼月様!」
おそらくは、事前に示し合わせていたのだろう。下手をすれば夜叉丸もろともという、この危険な玉砕戦法を。
「蒼月様、お早く!」
その言葉を受け、親父の手から素早く呪符が……。
「蒼月様!?」
だが、その手から呪符が放たれることはなかった。それは、夜叉丸を巻き込むことをためらったのか、まだ愛する妻を救う望みがあると考えたのかはわからない。
だが、事実として親父は動かなかった。
「ホホホ、愚かな」
「ぐうっ……!」
ズブリという鈍い音と共に、夜叉丸の腹に鋭く伸びた爪が刺さる。尾と両腕を封じられていた九尾だったが、そのままの姿勢で左手の爪を伸ばすと、夜叉丸の腹に突き立てたのだ。
「ああ、相変わらずお優しい蒼月様。ですが、その愚かさはこういったことを招きますよ」
腹に刺した爪を引き抜いた九尾は、拘束を緩めた夜叉丸をその尾で弾き飛ばす。そしてふっ飛ばされた巨大な蛇は、地響きと共に地面に横たわる。
「夜叉丸!」
地面に倒れた夜叉丸を見て覚悟を決めたのか、親父は九尾に呪符を投げつける。
「無駄なことです。少しばかり遅うございました」
だが、それらは九尾の体に触れる前に、ことごとく鋭い爪で切り裂かれ、突風で吹き飛ばされていく。そしてそれは、援護をしようと紛らせて投げる、俺の結界の符も同様だった。
「ホホホ、残る目障りな者は空狐くらいか。ならば、先にそなたを始末したほうが良いかの」
「フン!やれるものならやってみるがいい!」
その言葉と共に、クーコの体が膨らんでいく。そして俺を守るように九尾の前に立ちはだかったのは、完全に本来の姿を現した、雪のように純白の体毛を持つ、赤い瞳の巨大な妖狐。
対して、九尾は余裕を見せつけるかのように、人の姿を変えようとはしない。だが、対峙する二人の妖狐の横で、俺は妙な動きをする親父に気付く。
まるで九尾の目を盗むように、そろりそろりと背後に回るように動く親父。そして俺は、親父の右手に握られている呪符に気付く。
俺はその見覚えのある呪符が何かに気付く。それは、旧鼠騒動の時に俺がリルさんに投げた呪符。人の体に炎を纏わせ、周りを焼き尽くす諸刃の剣。
「馬鹿な……」
思わずつぶやいたのも無理はない。なぜなら、あれはリルさん達のような、人よりも遥かに丈夫な体を持つ怪異だからこそ無傷でいられるものだ。ひ弱な人間などがあの炎を纏って、無事でいられるはずがない。
「おや……、っ!」
思わず叫びそうになった俺は、必死で言葉を飲み込む。今ここで俺が叫べば、親父の作戦は気付かれてしまう。だが、放っておけば親父は……。
葛藤する俺は、親父がこちらを見ていることに気付く。
「親父……?」
親父の目は、なぜか笑っていた。その目はまるで、これからのことを頼んだと言わんばかりの優しい目だった。そして親父は、九尾に向かい走り出す。
「翡翠っ!」
クーコとの対峙に気を取られていたのか、九尾は懐への侵入をあっさりと許す。いや、実際は人間の術師が肉弾戦を仕掛けたところで何もできぬと、気にも留めていなかっただけかもしれない。
そして親父は、九尾を固く抱きしめる。それは決して、憎き者に対する態度ではなかった。それはまるで、話に聞いていた、二人が出合った頃を思い起こさせるような……。
「おや、相変わらず情熱的な……」
「情熱的なのはこれからだ。すまんな翡翠」
言うが早いか、右手の呪符を己の体に叩きつける。瞬間……。
「あああああっ!こ、これは……!」
「ははっ……、こ、これこそ、燃え上がるような恋ってやつだ。わ、悪くは……ないだろう」
「お、おのれ、離さぬか!、こ、こんな炎ごときで……」
九尾はあがくが、陰陽術で作り出した炎だ。作り出した術師ならまだしも、己で簡単に消せるものではない。まして親父が死に物狂いで動きを止めているのだ。その自爆覚悟の作戦が九尾にダメージを与えるのは、時間の問題かと見えた。だが、それが同時に意味することと言えば……。
むろん、九尾とてなすがままにされているわけではない。親父に向けて手のひらを動かす。それは、先ほど夜叉丸の腹を貫いた動き、すなわち……。
だが、親父を引き離したとて、あの火は簡単に消えることはない。しかし……。
「クーコっ!」
「はっ!」
俺はクーコに向かい呪符を投げつける。それは、あの炎を相殺する符。そして、俺の考えなどわかりきっているのだろう。それに応え、クーコの無い尾が唸る。
尾が唸るのと同時に巻き起こった風が、呪符を巻き込み竜巻と化し、二人の体の炎を吹き飛ばす。その突風に耐えられなかったのか、親父は体ごと地面を転がり、九尾から離れる。
まさに間一髪というべきだろう。親父がいたはずの場所には、九尾の長い爪が伸び、空を切っていた。
「な、何をする緋色。今なら……、今なら翡翠を!」
「おのれ……。油断したが、次はそうはいかぬ。蒼月様にその覚悟があるのなら、先に死ぬがよい!」
全身に火傷を負い倒れこむ親父に、九尾の鋭く伸びた尾が迫る。その距離は、もはや俺とクーコでは届かない場所。
「親父っ!」
だが、九尾の尾が届く寸前、漆黒の塊がその前を駆け抜ける。
「リルさんっ!」
親父を咥えて駆け抜けたのは、漆黒の巨大な狼。リルさんは、首を振って親父を宙へと放り投げる。そして、落ちてくるそれを背中で受け止めたのは、灰色の大きな犬。
「狗巫女ちゃん!」
親父を背に乗せた狗巫女ちゃんは、素早くその場から離れる。そして弘美ちゃん達の隠れる大木の裏で親父を降ろすと。傷口を舐め始めた。見れば、いつの間に連れて行ったのか、すでに人に戻った夜叉丸が、荒い息をしながらもそこにいた。腹の辺りを押さえているが、すでに血は止まっているようだ。おそらく狗巫女ちゃんが治療をしてくれたのだろう。
「リルさん、狗巫女ちゃん、助かりました!」
「おのれ、ちょろちょろと邪魔ばかりしおって……」
怒りのあまりか、九尾の髪がザワザワと逆立っている。そして、全身が少しずつ緑の毛に覆われていく。
「フン!小物にいいようにあしらわれ、口惜しさのあまり正体を現しおったか」
俺達の目の前には、全身を緑の体毛で覆われた、巨大な妖狐がいた。そしてそれは、クーコを目の前にしたのとは違う、もっと異質な恐怖を感じるものだった。それは例えるなら、金華さんを目の前にした時のような、銀華さんの内に秘めた力を感じた時のような。
だが、ここで臆するわけにはいかない。一番可能性の高かった、親父の命がけの作戦を止めたのだ。その責任は取らなくてはならない。そして、もう誰も犠牲者を出すわけにはいかない。
「母様、もうやめてください!また……、また皆で幸せに暮らせばいいじゃないですか」
「ホホホ、無駄よ緋色。見て御覧なさい。現実に、あなたを狙う泥棒猫共がこんなにも……。蒼月様だって妾を殺そうとしたわ。変わらぬ愛など、あなたをこの身に取り入れるしかないのよ」
「無駄です緋色様。もはや人の言葉が通じる相手ではございません!」
俺の前で、二匹の巨大な妖狐が睨みあう。真紅の瞳と、翠の瞳で……。
そして、もはや人の言葉など聞き入れぬつもり……、いや、もう人の言葉など通じないのか、どちらかかが死ぬしか収まることはないのか。そう思った時だった。
「もう……、もうやめて!!」
九尾の前に、全身を震わせながらも両手を広げて立ちはだかったのは、白銀の妖猫……、銀華さんであった。




