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「蒼月様!『翡翠』の行動を考えれば、翠様はおそらく坊ちゃまの下へと向かうはず。我々も支度を整え、急ぎ向かうべきかと」

「うむ……」


 焦る夜叉丸に対し、不思議と蒼月は落ち着いていた。おそらくこれが家出前の緋色であったならば、夜叉丸と同じように慌てふためいていただろう。

 だが、蒼月は確信していた。以前ならともかく、今の成長した緋色であれば、簡単には屈することはないだろうと。むろん、術者としての技術的な成長ではない。潜在能力は群を抜くとはいえ、技術的にはまだまだ未熟だ。むしろ精神的に逞しくなったことこそが、強さに繋がると考えていた。

 だからこそ、蒼月は別の方法を考えていた。

 

「夜叉丸。お前に命ずる」

「はっ」

「先に猫猫飯店に向かい、緋色と銀華殿を守れ。翠とて、すぐに居場所を見つけられはせぬだろうし、まだ猶予はあるはずだ。」

「はっ!?い、いえ。命令に背くわけではありませんが、蒼月様は……。翠様の封印は、蒼月様なくしては……」

「すまぬ……。だが、連絡を取りたい御仁がいる。もしかしたら力になってくれるやもしれぬ。それに、彼女ならば翡翠を……」

「申し訳ございません。決して蒼月様を疑ったわけでは……」

「いや、構わん。あくまで儂のわがままだ。お前には、危険を承知で頼んでいるのだからな」

「何をおっしゃいますか!蒼月様の仰せとあらば、私は坊ちゃまの元へ急ぎ向かうまでです」

「うむ、頼んだ。だが、決して無理はするな。危険とあらば、まずは皆が逃げ延びることを優先せよ」

「はっ、お任せください。この命に代えましても、坊ちゃまをお守りいたします」

「…………」


 自分の命令の何を聞いていたのか……。蒼月は思わず苦笑する。夜叉丸とて怪異には違いない。彼にだって蛟としての役割、行動原理がある。決して命令に忠実なだけの、聖人君子というわけではない。

 だが、それを差し引いても余りある、この彼の性格こそが自分が夜叉丸を信頼する証だ。

 

 夜叉丸が姿を消した後、蒼月は誰に言うことなくつぶやく。

 

まだ(・・)繰り返さねばならんのか……。なぜだ、()ではお前を救えないというのか?翡翠(・・)……」


 そこにいたのは、御門家頭領の威厳は欠片もない、ほんのひと時ではあるが、自分を縛る鎖から解かれた、御門蒼月という一人の男であった。




「母様……」

「ヒ、ヒロ君?え?だって、ヒロ君のママは、妖怪に……。そ、それに、お義父さま(・・・・・)は妖怪が嫌いだったんじゃ……?でも、この人は……」


 混乱した様子の銀華さんだったが、俺は答える余裕も無い。なぜならば、他ならぬ俺自身が、一番の混乱状態だったからだ。

 なぜ俺は、母様が死んだと思っていた?じゃあ、ここにいるこの人は……。なぜ急に、記憶が蘇った?

 俺は必死に記憶の糸を手繰る。

 あらためて見ても、それは俺の中で覚えている母様の姿だ。一瞬、悪霊や狢の姿が頭をよぎる。だが、目の前のその人は、決して幽霊や何者かが化けているようには見えない。

 そもそも、最後に母様を見たのはいつだろう。

 そうだ、あの時は母様がいて、親父がいて、夜叉丸がいて……。他にも親父に下がるように言われ、遠巻きに眺める門下の者達……。そして俺は、母様に近付くことも許されず、親父と夜叉丸が……。

 

「ぐっ!」

「ヒロ君!?だっ、大丈夫かい?」


 急激に押し寄せる記憶の波に、一瞬だが頭が割れそうになる。

 

「どうしたの緋色?母様のそばに来れば、そんな痛みはすぐになくなるわ。それとも、その女の子のほうが大事なの?」

「うぇっ!?ととと、とんでもありませんお義母さま(・・・・・)!ぼ、僕はその、たまたま一緒にお仕事をしてるだけで、ヒロ君とはそんなんじゃなくて……」

「あら、そうなの?フフ、可愛い子だから、緋色を取られてしまったのかと思ったわ」

「そそ、そんな!とっ、取るだなんて……。で、でも……」

「フフフ、そう……、そうなのね。あなた、緋色を……。でも大丈夫よ。すぐにそんな心配もなくなるわ」

「え……?」

「さあ緋色、母様のところへいらっしゃい」

「母様……」


 鈴を転がすような心地良い声に、俺は無意識に足を進めていた。もはや、死んだはず……、いや、死んだと聞かされていた母様がなぜここにいるのか、記憶の中の景色は何だったのかなど、考える気も失せていた。

 ただ、一刻も早く母様に抱かれたい。懐かしい、柔らかな九つの尾の感触に包まれ眠りたい。ただ、それだけを考えて……。

 

「ああ、大きくなって……。見違えるように逞しくなったわ。そう、あれから10年以上ですものね……。本当に長かった……、会いたかったわ」


 近付いた母様からは、ほのかに山に咲く花の香りがした。それは、幼い頃によく嗅いだものだ。その香りで俺は確信する。ああ、母様だ。目の前にいるのは、幻なんかじゃない、本物の母様だと。

 目の前の母様は、優しく微笑む。その笑顔は、昔よく見たものに間違いない。

 

「さあ、いらっしゃい」


 両手を広げ微笑む母様へ、俺はゆっくりと近付く。

 

「いい子ね。さあ、何も心配しなくてもいいのよ。目を閉じて、全てを母様にちょうだい」

「え……!?」


 俺には、目の前の光景が理解できなかった。

 気付けば、母様の大きく開けた口が俺の首元に迫っていた。その口は真っ赤に塗れ、鋭い牙が伸びている。

 

「かあ……さ……?」


 俺は状況を把握できず、呆然と突っ立っていた。そのままでは、おそらく喉笛を噛み切られていただろう。だが……。

 

「緋色様っ!!」


 突然の叫び声と同時に、俺は後方に倒れていた。いや、正確には吹っ飛ばされていた。気付けば、俺と母様の間には白髪の少女が立ちはだかり、燃えたぎるような真紅の瞳で母様を睨みつけている。

 

「無礼を許されよ。だが、たとえ緋色様の母君であろうと、今の行動は許すわけにはいかぬ!いったい何のつもりだ?」

「無粋な……。式の分際で、親子の感動の対面を邪魔するとは。天狐……、いや、空狐か。それを従えるとは、さすがは我が息子じゃ。いや、蒼月様と(わらわ)の子であるゆえ、当然のことか」

「……?貴様……、どこかで……」


 母様を見るクーコが、どこか不思議そうな顔をする。それはまるで、以前に出合った知人を思い出すかのように。

 だが、俺とクーコが出会った時期からしても、彼女は母様のことなど知らないはずだ。

 しかしながら、まるで別人のようになった母様は、そんな時間を与えるつもりはないようだった。

 

「ホホホ、だが、悠長に過ごしているわけにもいかぬ。蒼月様がここへ駆けつけるのも時間の問題。ならば、早々に済ませねばならぬ」

「させぬわ!九尾ごときが、我に勝てると思うか!」

「ホホホ。空狐など所詮は成り上がりの身。生まれついての大妖である、この九尾に勝てると思うのかえ?」

「フン!試してみるか?」


 ザワザワという気配とともに、クーコの体から白い毛が伸び始める。

 

「待て!クーコ」


 だが、それを止めたのは他ならぬ俺自身だった。

 

「緋色様!?」

「まっ、待ってくれクーコ!こんな所で暴れたら、周りを巻き込んでしまう。そ、それに、今のは冗談なのかも知れないし……。そうでしょ?母様」


 俺は何を聞いているのだろうか。我ながら己の女々しさに呆れていた。もう、自分の中で結論が出ているはずなのに……。

 だが、聞かずにはいられない。それはまるで、一縷の望みを繋ぐかのように、わずかに起きるかもしれない、奇跡を待ちわびるかのように。

 けれど俺は、この先の知りたくもない答えを知っていた。さっきの母様の目は本気だった。そう、あの時と同じように……。

 

「ああ、優しい子ね緋色は……。緋色をこんな優しく立派な子に育ててくれて、やはり蒼月様を愛した私の目に、間違いはなかったわ」


 母様からは先ほどまでの凶悪な気配が消えうせ、恋する少女のような目をしている。だが、どういうことだ?この変わりようは、演技というよりも、まるで別の人格が宿っているかのような……。

 そして、柔らかい笑みを湛えたまま、聞きたくもない絶望の言葉を紡ぐ。

 

「でも。だからこそ冗談ではないとわかるでしょう?緋色は母様が嫌いなの?母様はこんなにも、あなたを愛しているというのに……。さあ、早くこちらへいらっしゃい。母様と一つになりましょう」


 そう言う母様の瞳に、迷いや憎しみなどの負の感情は見られない。おそらく、本気で思っているのだ。だが、なぜ……。

 

「ダッ、ダメだよヒロ君!行ったらダメだ。お義母さまの様子……、何だかおかしいよ!」


 気付けば、倒れこんだ俺を支えるように、銀華さんが俺の腕を掴んで寄り添っている。

 その力は強く、掴む腕からはかすかに震えが感じられる。それはまるで、銀華さんの怯えが伝わってくるように。

 

「小娘、やはり妾から緋色を取り上げる気か……」

「ちっ、違う!そうじゃなくて……」

「問答は無用じゃ。ならば、空狐共々お前から喰うてやろう。緋色の邪魔をせぬようにな」

「母様!」

「九尾ごときに……、させぬわ!」


 だが、母様が九つの尾を振り回した瞬間、突風が吹き荒れる。その風に、俺と銀華さんは後方へと吹き飛ばされる。クーコを見れば、吹き飛ばされることはないとはいえ、その場から前へは進めぬようである。

 もはや迷うことはないのであろう。再びクーコの体から、白い毛が伸びる。そして……。

 ズドン、という鈍い音とともに、突如母様とクーコの間に何かが割って入り、それと同時に突風は止む。見れば二人の間に振り下ろされたもの、それは巨大な蛇の尻尾であった。

 

「夜叉丸!」

「蛟……。ということは、間に合わなんだか……」


 俺たちが顔を向けた先にいたものは、巨大な妖蛇。すなわち、蛟である夜叉丸だった。

 

「翠様、少々おふざけがすぎませんか?おとなしく封印へと戻っていただけませんでしょうか」

「蒼月様の式ごときが、妾をまたぞろあの牢獄に閉じ込めると?随分と忠義のない奴じゃ」

「申し訳ございません。ですが、翡翠が貴方から離れぬ以上、坊ちゃまを守るためには仕方ありませんので」


 人の姿の時と違い、今の夜叉丸は醜悪といってもいいほどの姿だ。だが、口調は人の姿の時のまま、何ら変わらない。おそらくは、主人の妻への敬意を表しているのだろう。


「お前の、蒼月様と緋色に対する忠誠心は褒めてつかわす。だが、その願いは残念だが断るとしよう。それに、お前ごときが増えたからとて、妾を止められると思っておるのか?」

「貴様……。我を愚弄するか!」


 挑発を受け、クーコがギリギリと歯噛みする。変身のタイミングを逃し、未だ人の姿のままだ。だが、対照的に夜叉丸は落ち着いたままだ。

 

「いえいえ、私ごときが翠様に勝てるなどと……。ですが、今この場には私以外にも空狐殿、貴方と蒼月様の血を引く、おそらくは御門史上一、二を争う才能を持つであろう坊ちゃま。そしてかの大妖、金華猫の娘である、銀華殿がおられます。いくら貴方とて、勝てる保証は無いでしょう。それに、私がこの場にいるということは……、おわかりですね?」

「え!?ぼ、僕?」


 突然呼ばれた自分の名に、銀華さんはあたふたとしている。正直、潜在的な力はともかくとして、今の銀華さんが戦力になるとは思えない。

 だが、その言葉は母様にとっては、思ったよりも効果的だったようだ。

 金華猫の名を聞き、ピクリと反応する。そして、銀華さんをねめつけるように見据える。

 

「なるほど、どこかで感じたものと思えば、金華猫の……。フフ、まあ良い。今の妾の力に敵うとは思わぬが、奴の力は少々厄介……。いずれにせよ、蒼月様が来ておるのならば、一旦は引くとしようか。愛する蒼月様に会わずに去るのは名残惜しいが、また封じられては敵わぬ」


 言うが早いか、母様はかき消すように姿が薄くなっていく。

 

「貴様!」

「よせ!追うなクーコ」


 母様に飛び掛ろうとしていたクーコだったが、俺の言葉に動きを止める。

 

「すまん。我慢してくれ。だが、何があるかわからないからな」

「はっ。ご心配ありがとうございます」


 それを見ていた母様は、消え行く中で笑う。

 

「そうなのね。緋色に余計な未練を与えているのは、あなたの周りのその娘達なのね。ならいいわ、皆食べてあげるから。あなたの心残りにならないように」

「なっ!?」

「封印の弱まったときに千里眼()させてもらった、あの娘達でいいのかしら?確か人狼、犬神……、人間の女の子も二人いたわね。それと、その空狐でいいかしら?ああ、もちろんその金華猫の娘も一緒よ」


 そう言ってニヤリと笑う。その笑みは、俺の記憶の中の母様のものではない。

 

「フフフ、心配しないで。後で緋色も、皆と共に母様と一緒になれるのよ」

「ま、待って……!」


 だが、すぐに母様の姿はかき消える。後には、無数の桜の花びらが舞っているだけだった。

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