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楓がそのことに気付いたのは、ごく最近のことだった。もっとも、内容を諳んずるほどに読み返したものだ。今ではその本もめったに開くこともなく、大切にしまってあった。そのために気付かなかっただけで、もしかしたらもっとずっと以前から、それは起きていたのかもしれない。
ある日、ふと思い立ち、虫干しでもしようかと久方ぶりに本を開いた時だった。楓は少しばかり妙なことに気が付いた。
本を手に入れて以来、狐の兄妹達と争うように、それこそ穴の開くほどに読み返して、内容も一言一句覚えているほどだ。それゆえ文字の内容のみではなく、まるで景色を見るように、一枚一枚の見た目も覚えている。
その楓が、本を開いた時に見えた光景に、わずかな違和感を感じたのだ。
そしてその部分を読み返した楓は、一瞬で違和感の正体を悟った。
「文字が……、消えている!?」
そこには確かに、楓が覚えているはずの文字がなくなっていた。しかも、掠れて消えかかっているとか、何かに消されたような跡もない。まるで、初めからそこに文字など存在しなかったかのごとく、綺麗さっぱりと消え去っていたのだった。
「はて、これは面妖な……」
慌てて本を捲っていくが、同じようにいくつかの部分で、文字が消えていた。
だが、楓とて長きを生きてきた怪である。不思議な出来事には何度も遭遇しているし、形あるものはいずれ朽ちてゆくということなど、身を持って知っている。
そのため、物に対しての執着などは持っていない、いや、持っていなかったはずだった。
ただ一つ、葉介の形見とも言える一冊の本を除いては……。
楓は思いの他うろたえた。その時までは、大切にしてはいたとはいえ、自分が形ある物に対し、それほどの執着を持っているなどとは思っていなかった。
かつて、今では思い出せないほどの昔。生き延びるためとはいえ、父と母から着せてもらった大切な着物を、谷底に捨てた時も何とも思わなかったのに……。
それが今、このままでは葉介との思い出が、少しずつ消えてなくなってしまうのではないかと思うと、言い知れぬ不安と恐怖を感じたのだ。
それに、自分達も所有したかったろうに、楓にこの本を託してくれた狐の兄弟にも申し訳が立たない。
そして楓は、この不思議の現象を突き止めようと決心をしたのだった。
とはいえ原因はわからぬし、出来ることといえば本に異変がないか、見張ることくらいしか思い浮かばない。とりあえずは、昼夜問わずひたすらに本を見張り続けるという、地味な方法に徹することにしたのだった。
むろん、ひたすらに本を見張るなど、大変な集中力と体力を要することだ。しかしながら、楓は厳しい修行の末に天狗となった身である。
何日も飲まず食わず、さらには睡眠もとらずというのは、さほどの苦労でもなかった。
その後、数日の間は何も起きることはなかった。だが、いくら楓といえど、何日も本を見張り続けるというのは、体力以前に精神的に疲れてくるし飽きてもくる。
異変が起きたのは、見張り始めてから四日目の夜のことだった。
何日もの徹夜や、見張り続けても何事も起きない気の緩みから、気付かぬうちにウトウトとしていた楓は、わずかに感じた気配のようなものに目を覚ました。
「何と!」
そこに見たものは、切り株で作った机の上に置いてあった本が、青白くぼんやりと光る様であった。そして本からは羽虫のようなものが何匹か浮かび上がり、楓の住まう山中の廃屋の格子戸から、闇夜へと飛んで行ったのであった。
「あれはいったい……。まさか!?」
楓は慌てて、まだわずかに青白い光を発する本を開いた。そして月明かりに照らされた中で見た本からは、昼間確認した時よりも更に文字が減っていたのだった。
慌てて外へと飛び出し、付近を飛び回って捜してみたが、飛び去って行った文字達はすでにどこにも見当たらない。
仕方なしに屋内に戻り、蝋燭に火をともし本を隅々まで調べてみるが、すでに本は光を失い、手がかりになりそうなものは何も残っていなかった。
そうこうしているうちに、東の空が白みかけて来た時だった。楓は格子窓から、何かが入ってきたことに気がついた。
そしてそれは、そのまま楓の持つ本に向かって進んできた。
「何と!これは……」
楓が空中に見たもの、それはまさしく葉介の書いた、見慣れた文字であった。
そしてその文字は、吸い込まれるように本の中へと消えて行く。もしやと思い、慌てて本を開いてみれば、昨晩消えていたはずの文字が戻っている。
ただし、全てが戻っているわけではなく、いくつかの文字は消えたままになっていたのだが……。
「その後も、何度か同じような現象が起こったわけじゃ。そして、文字を追いかけてわかったことは、文字は一晩飛び回った後に本に戻って来ようとはするのだ。しかし、一つ二つの文字は力尽きてしまうのか、地面に落ちたり木にぶつかったりして消えてしまう。そうして戻って来れぬ文字だけが、消えて無くなってしまうようなのじゃ」
困り果てた楓さんであったが、怪同士の伝手を辿るうちに、噂話を聞いたのだという。近頃、異形のモノが関わる出来事を解決して名を上げているという、何でも屋の存在を。なんでも、人狼と犬神のまだ年若い怪異だとか。
それを聞いて、藁にもすがる思いでここまで来たのだという。
楓さんは語り終えると、本から視線を移し、俺達の方をを見た。
「どうやら人……、いや、怪違いだったようだが、むしろそなた達に会えて幸運だったかもしれぬ。どうじゃ?何かわかりそうか?」
「本から抜け出し、飛び回る文字ですか……。聞いたことがないですね。銀華さんはどうですか?」
「人狼と犬神って……。ぐっ……、まあいいさ。飛び回る文字ねぇ……。う~ん。本の中が退屈で、散歩でもしてるのかなぁ?」
「いやいや銀華さん。さすがにそんなことはないでしょう」
「う……、じょ、冗談だよ!いいよ、ここに来たのも何かの縁だ。つまりは、原因を突き止め、これ以上本から文字が消えないようにすればいいんでしょ?」
「ああ、できれば消えた文字も戻るといいのだが……。そこまでは求めすぎだろうしな。それに、このまま文字が消えてしまっては、本を妾に託してくれた狐共に申し訳が立たん」
「わかったよ。この依頼、受けようじゃないか!フフフ、不思議、怪し、妖怪、幽れ……」
「ま、待ってください!」
その時、突如弘美ちゃんが口を開いた。そして決め台詞を途中で遮られた銀華さんは、まるでコントのごとく文字どおりずっこけた。
「弘美ちゃん?」
「あ、あの、この依頼、私にもお手伝いさせていただけませんでしょうか!」
「え?そうですね……。まあ、危険は無さそうですし、銀華さんさえよければですが……」
「ど、どうでしょうか、銀華さん」
「僕は別に構わないよ」
「あ、ありがとうございます!それで、その……、事件を解決できたら、いただきたい報酬があるのですが」
「報酬……、ですか?」
珍しいこともあるものだと思った。弘美ちゃんはお嬢様らしく、物やお金に執着する様子を見たことはない。
もっとも、お嬢様とはいえ親御さんの教育はしっかりしているようで、月の小遣いは一般的な高校生と変わりはないようだ。
何か欲しいものでもあるのだろうか。まあ、銀華さんもお金に執着するタイプではないし、報酬の中から弘美ちゃんの手伝い賃を分けるくらいは構わないだろう。
そんなことはないと思うが、もしも銀華さんが渋るようであれば、どうせ使い道は無いんだし、俺の時給分を渡しても構わない。
「楓さん。私もお手伝いしてよろしいでしょうか」
「ああ。妾はこれが解決するのであれば、報酬の増額なんぞ構わんぞ」
「いっ、いえ。私が欲しいのは、お金じゃありません」
「なに?では、何を望むのだ?」
「さっ、先ほどのお話の続き……、歴史の真実、日本文学界の事実、葉山先生と、その周りの怪さん達とのロマンス……、い、いえ、物語です。もっ、もちろんお聞きしたことはこの場限りとして、絶対に誰にも言いませんから!」
弘美ちゃんは、予想外の報酬内容を口にした。いや、先ほどの興奮具合を見ればある程度想像できたことか。
そんな弘美ちゃんの要求に、楓さんは少しばかり考えていたようだったが、
「フフ、いいだろう。その要求、受けてやろう。この依頼を解決できたら、そなたにはたっぷりと話を聞かせてやろう」
「あ、ありがとうございます!!」
取引が成立し、弘美ちゃんは興奮状態だ。もっとも、本当に大変なのはこれからなのだろうが。
「さ、さて、話もまとまったようだし、あらためて……」
先ほど決め台詞を遮られ、銀華さんは消化不良なのだろう。もう一度決め直そうと、咳払いをした時だった。
「それでは、不思議、怪し、妖怪、幽霊、この世の不可思議困り事、猫猫飯店店主『銀華』さんと、その助手『緋色』さん。そしてこの臨時助手の『弘美』の名にかけて、歴史の真実、文学界の謎を解き明かすため、万事解決してみせますっ!」
自らのお株を奪われた銀華さんは、唖然とした表情で弘美ちゃんを見つめていたのだった。




