第八章 誰もいない家
係留索を解こうとして、和真は手を持ち替えた。昨日オールを握り続けた指の付け根が、まだ擦れると痛む。濡れたロープを船内へ引き上げ、足元で邪魔にならないようにまとめた。
乃亜はすでに座席へ落ち着いていた。乗り込む時にはレイナの腕を借りたが、今は自分で救命胴衣の留め具を確かめている。
「足、窮屈じゃない?」
「はい。ここなら伸ばせます」
和真は足元のバッグを少し奥へ寄せ、操縦席へ戻った。昨日のうちに詩乃と航路を確かめ、燃料を確認して、出航は翌朝と決めていた。テントは閉じ、しばらく使わない道具も中へ収めてある。
操縦席の脇には、白い服のリリスが立っていた。
「君も座って。動き出すから」
「了解しました、主」
昨日、施設を出る前に、島の外でも一緒に行動できるか尋ねた。リリスは可能だと答え、外部の状況を直接確認したいと同行を申し出た。家族を探せると約束したわけではない。それでも、あの施設で聞いたことについて、あとから尋ねられる相手がいるのは心強かった。
リリスが座るのを待ち、和真はエンジンをかけた。振動が操縦席へ伝わってくる。計器を確かめて顔を上げると、隣に座った詩乃が地図を広げていた。
「港に着いたら、先に三人の家を回ろう。家族が戻ってるかもしれない」
「はい。港からなら私の家が近いです。そのあとレイナ、乃亜の順なら、無理なく回れます」
「道はお願いしてもいい?」
「案内します」
その返事を聞いてから、和真は艇を岸から離した。
入り江を出ても、波は高くなかった。昨日、自分一人で戻ってきた時とは重さが違う。速度を上げるにつれて船首が持ち上がり、和真は揺れの具合を確かめながら、急な操舵を避けて進んだ。
やがて、前方に建物の並ぶ海岸が見えてきた。詩乃が地図から顔を上げ、窓へ身体を寄せる。
「あの防波堤の内側です」
示された先には、白い建物と、いくつもの係留された船があった。これだけの船があるなら、一隻くらい沖へ出ていてもよさそうだった。和真は進路を横切る艇がないか目を配ったが、港口に近づくまで、動くものは見つからなかった。
岸壁に人影はなく、係留を手伝う者もいなかった。
和真が先に下りて船を固定し、レイナと一緒に乃亜を桟橋へ上げた。陸へ足をついた乃亜は携帯電話を取り出したが、画面を見たまま、すぐには何も言わなかった。
「こっちも駄目?」
「……繋がらないです」
和真も試した。呼び出し音にさえ進まない画面を閉じた頃、管理事務所へ声をかけに行っていた詩乃が戻ってきた。
「誰もいません。中も見える範囲では」
和真は事務所のガラス戸へ目を向けた。開いているのに、荷物を下ろす音にも、詩乃の呼び声にも、誰も出てこなかった。
港で借り出せるワゴン車があり、事務所にはその鍵が残されていた。呼びかけに応じる人を探したあと、詩乃と相談して使うことにした。車を使う旨と名前を書いた紙を受付へ置き、五人で乗り込む。
助手席の詩乃に道を聞きながら、和真は港を出た。対向車はなく、信号だけが、誰も渡らない横断歩道の前で赤に変わった。
ブレーキを踏む。いつもなら意識もしない動作なのに、和真は青になるまで、歩道の先へ目を向けていた。誰かが歩いてこないかと思った。
詩乃の案内で住宅地へ入った。停まったままの車と、閉まった店の前を過ぎ、角を曲がったところで詩乃が短く言った。
「ここです」
和真は車を路肩へ寄せた。詩乃は降りると、門の前でバッグの中を探り、鍵を取り出した。玄関の錠を開け、扉を押し開ける。
「ただいま」
家の奥へ届くよう、もう一度呼ぶ。
「帰りました。……誰か、いる?」
返事はない。開いた玄関の奥から、詩乃が何度か名を呼ぶ声が聞こえた。和真は乃亜を車から下ろす間も、そちらへ耳を向けていた。
しばらくして、詩乃が居間の入口に現れた。こちらへ向けて手を上げる。
「上がってください。乃亜は、椅子を使いましょう」
和真は乃亜を支え、レイナと一緒に室内へ入った。流しには使った食器があり、テーブルの上には紙が広げられている。生活の途中らしいものは残っているのに、人だけが見当たらなかった。
詩乃は固定電話の受話器を取り、番号を押した。耳に当てたまま眉を寄せ、いったん戻してから、もう一度押し直す。それでも呼び出し音は始まらない。
「近くも見てくる」
和真が言うと、詩乃は顔を上げた。
「私も行きます」
「乃亜を一人にできない。レイナ、家の周りだけ一緒に見てくれる?」
「分かった」
和真とレイナは、詩乃の家を中心に一つ隣の通りまで歩いた。呼び鈴を鳴らし、門の前から声をかけたが、開く扉はない。電気のついた部屋も、こちらを見る人影もなかった。
居間へ戻ると、詩乃は携帯電話を充電器へ繋いでいた。和真たちを見ると、彼女は画面ではなく、テーブルの上に広げられた紙を見た。
「何か、残っていると思っていました。行き先くらいは、分かるかもしれないって」
レイナが隣の椅子を引き、詩乃はその音に気づいたように顔を上げた。
「二人の家も、確かめたいです」
「急がなくていいよ」
「急いで決めてるんじゃないの。ここで待っていても、電話も使えないから」
言い切ったあと、詩乃は携帯電話を伏せた。和真は、出る前に紙を残そうと提案した。自分たちが家を空けている間に家族が帰れば、今度は家族の側が、詩乃までいなくなったと思うかもしれない。
詩乃は引き出しから便箋を出した。今日ここへ戻ったこと、自分は無事であること、人を探しに出ることを書き、最後に「必ずまた戻ります」と加える。書き終えた紙は、玄関からも見えるテーブルの中央へ置かれた。
車へ戻ると、乃亜は後部座席から詩乃の家を見ていた。和真はエンジンをかける前に、家の前へもう一度目を向けたが、開いた玄関に変化はなかった。
家の前で車が止まると、レイナは鞄を掴んで先に降りた。玄関を開けるなり、いつもの調子で声をかける。
「ただいま。ちょっと遅くなった」
返事のない玄関に、レイナの声だけが残った。少ししてから、もう一度呼ぶ声がした。今度は低かった。
「ねえ、帰ったよ」
和真は乃亜を車に残し、詩乃とリリスにそばを頼んでから、レイナの後へ入った。レイナは居間、隣の部屋、廊下の先を順に確かめ、窓を開けて庭へも声をかけた。和真は表へ回り、門の外から道を見渡す。隣の通りまで見通せるのに、走る車も歩く人もなかった。
居間へ戻ると、レイナは廊下の壁際に座っていた。立てた膝へ腕を乗せ、和真が入ってきた音にだけ顔を上げる。
「そっちは?」
「誰もいなかった」
「そっか」
和真が水を差し出しても、レイナはすぐには取らなかった。視線を落としたまま、少し間を置いてから言う。
「家に着いたら、まず謝ろうと思ってたんだ。連絡できなかったから、心配かけたよねって」
そこまで言うと、レイナは黙った。和真は廊下の奥を見た。先ほどから開いたままの扉の向こうに、返事をする人はいない。
「帰ってきたのにな」
和真は、何も言わずに水を近くへ置いた。少ししてレイナはそれを取り、ゆっくり口をつけた。
詩乃が居間へ入ってくると、レイナは顔を拭って立ち上がった。
「書いておく。あたしも、戻ったって分かるように」
借りたペンで、レイナは短い文を書いた。帰ってきたこと。無事でいること。人を探しに出ること。最後にまた戻ると書いてから、紙をテーブルの上へ置いた。
次の道では、路線バスが停留所の少し先で止まっていた。運転席にも座席にも人影はなく、ドアだけが開いている。和真はその脇を通り過ぎ、乃亜の案内で住宅地のさらに奥へ入った。
乃亜の家の前へ着くと、和真は先に回り込んで扉を開けた。段差の前で乃亜が和真の腕を掴む。
「痛む?」
「少し。上がったら大丈夫です」
和真は乃亜の歩幅に合わせ、玄関から廊下へ進んだ。乃亜は部屋の方を見ながら、何度か家族の名を呼んだ。詩乃とレイナが別の部屋を確かめても、ほどなく戻ってくる。
「椅子、ここへ寄せてもらえますか」
和真は棚のそばへ椅子を運んだ。乃亜は座ると、目の前にあった写真立てを手に取った。窓の光がガラスへ映り込み、彼女は何度か角度を変えている。
「……ちゃんと、写ってます」
小さな声だった。乃亜は写真の縁を拭い、胸元へ引き寄せる。和真は、写真を持ったまま足を動かそうとする彼女を見て、手を差し出した。
「持ってる?」
「はい」
「じゃあ、そのままで」
詩乃が畳んだ布を椅子の前に置き、和真が乃亜の右足を乗せられるよう、もう一脚を寄せた。
「ここ、ボクの家なんですよ」
乃亜は写真を見たまま、続けた。
「なのに、どこで待ってればいいのか、分からなくて」
「私も、さっきそうだった」
詩乃の声は静かだった。乃亜は顔を上げ、しばらく二人を見たあと、写真立てを棚へ戻した。
鞄へ入れかけた携帯電話を取り出し、乃亜は写真を一枚撮った。画面を確かめてから、詩乃にもらったペンを受け取る。
「ボクも、書いておきます」
乃亜の書き置きは、詩乃のものより短かった。無事でいること、足を怪我したけれど手当てを受けていること、人を探しに出ること。その下へ、乃亜は一行だけ付け足した。
「戻ったら、返事を書いておいてください」
紙を玄関から見える位置へ置き直してから、乃亜はレイナの腕を借りて立ち上がった。
和真は運転席へ乗り込む前に、後部座席の足元を確かめた。乃亜の右足が荷物に当たらないように寄せ直すと、彼女は携帯電話を伏せて礼を言った。
「少し休んでから動こう。何か食べられる?」
「少しなら」
持ってきた食料を分け、水を飲んだ。和真も口へ運んだが、噛んでいる間に何度も通りが気になった。車の窓を開けていれば足音くらい聞こえる。それを待つうちに、手の中の食べかけを忘れていた。
「和真さんは、ご自宅へは……」
助手席の詩乃に聞かれ、和真は手を止めた。
「俺の家は、この辺じゃないんだ。ここからどう戻れるのかも、まだ分からない」
「そう、ですよね」
テントごと知らない島へ来た自分には、帰り道さえなかった。三人の家を見たあとでは、自分の部屋もどんな状態なのか考えずにはいられない。ポケットの携帯電話へ触れたが、取り出さなかった。
「大学に、行ってみませんか」
詩乃が言った。
「私たちの調査のことを知っている人がいるはずです。家で待つより、何か聞けるかもしれません」
和真は時計を確かめた。昼を少し回っている。これから向かっても、明るいうちに構内を確認する時間はあった。
「遠い?」
「車なら、ここからそれほどかかりません」
「あたしも行く。誰かに会えるなら、聞きたい」
後ろからレイナが言った。和真が振り向くと、乃亜も頷いていた。
「紙にも、人を探しに行くって書いたので」
乃亜は自宅の玄関を見てから、鞄を膝に抱え直した。和真には、その紙を置いて出るまでに、彼女が何度も場所を確かめていた姿が残っていた。
「また、ここにも来よう」
「はい」
空になった袋を片付け、和真は運転席に座った。リリスが後ろの扉を閉めたのを確認して、エンジンをかける。
詩乃が教えてくれたのは、まだ一度も通ったことのない道だった。和真は曲がる交差点を聞き直し、車を出した。三人が家を確かめたのと同じように、大学にも、自分たちで行ってみるしかなかった。




