第九章 観測者は消えていない
大学の正門をくぐると、詩乃が研究棟の方を指した。
「私の知っている研究室は、あちらです。車でも近くまで行けます」
和真は案内に従い、建物の脇にある搬入口の前へワゴン車を寄せた。駐車場にも、窓の並ぶ校舎にも、人の動く気配はない。エンジンを切ると、後部座席で乃亜が右足の位置を確かめていた。
「入口まで行けそう?」
「はい。支えてもらえれば」
和真は扉を開け、先に足元の荷物を脇へ寄せた。乃亜が左足から地面へ下り、和真の腕を掴んだまま右足を浮かせる。入口に近いところまで歩かせると、レイナが空いていた椅子を見つけて持ってきた。
「ここに座ってて。あたしがついてるから」
「うん。何か聞こえたら、すぐ言うね」
詩乃とリリスを連れ、和真は開いたガラス戸をくぐった。廊下には研究室の名札が並んでいる。どこも閉まっていたが、突き当たりの一室から、椅子を引くような音がした。
和真が足を止めると、詩乃もそちらを見た。
「すみません。誰かいますか」
室内で、何かが机に当たった。
「……誰?」
開いた扉の隙間から、小柄な女性が顔を出した。和真たちを数えるように見たあと、すぐには戸を開けなかった。
「人を探してるんです。港から、ここまで来ました」
「何人いるの」
「五人。ほかには、まだ会えてなくて」
女性の視線が和真の肩越しへ移る。半歩横へずれると、詩乃が前に出た。
「橘さん?」
「水城……。合同発表の時の?」
「はい。あの時、質問をいただきました」
「発表の結論より、質疑で出した資料の方を覚えてるわ。あれは面白かった」
詩乃は、少しだけ息をついたように見えた。
「先生方は、いらっしゃいませんか。連絡が取れなくて」
「この棟で人に会ったのは、あんたたちが初めてよ」
その答えに、詩乃は返事をしなかった。和真は、廊下の入口にいる乃亜を振り返る。レイナが椅子のそばで待っているのを確かめてから、女性へ向いた。
「怪我をしてるんだ。少し、中で休ませてもらえないかな」
女性は乃亜の足元を見てから、扉を大きく開いた。
「入って。机の上には触らないでね」
和真は乃亜の椅子を中へ運び、理央に示された位置へ置いた。レイナがその背に手を添える。詩乃とリリスも入室してから、和真は入口に立つ女性へ向き直った。
「俺は百瀬和真。助かったよ」
「橘理央。……港からって言ったわね。街はどうなってるの」
「人には会えなかった。三人の家も回ったけど」
詩乃が、和真の横から小さく言った。
「……家族も、いませんでした」
理央は机の端に手を置いたまま、詩乃を見た。
「私の家もよ」
それだけ言うと、理央はパソコンの前へ戻った。開いたままの画面を数回操作し、モニターを和真たちの方へ向ける。
「家を見てから、ここに戻って調べてた。人がどこへ行ったのかは分からない。でも、これが残ってる」
数式らしいものが並ぶ画面の下に、一行だけ日本語があった。
観測者は消えていない。
和真は、その文字を読んでから理央を見た。
「これ、理央が書いたの?」
「書いてない」
理央は画面を上へ送った。式の途中で止まり、隣に置いた紙を引き寄せる。そこにも同じ式があったが、紙の方には余白へ矢印と短い書き込みが残されていた。
「これは、観測で得た値のずれから、何が外から加わったのかを逆算する計算よ。人を消したり、移動させたりするための研究ではないわ」
理央は紙の矢印を指先で押さえた。
「ここで止まってた。私は別の条件を考えるつもりで、まだ途中だったの。それが、次に開いた時には先まで進んでいた」
「誰かとやっていたんじゃないの?」
レイナが画面を覗き込んだ。
「頼んだ相手はいない。計算の筋は通ってるし、結果だけを書き足したものでもない。でも、私はこの続きを知らない」
和真にも数式そのものは読めなかった。ただ、紙で止まっている場所から、画面では線がずっと先まで伸びていることは分かる。乃亜が携帯電話を取り出した。
「変更された時刻は残っていますか」
「残ってる。けれど、誰がどこから保存したかまでは分からない。今見つけた時には、もうこうなっていたわ」
「写真に残してもいいですか。紙と画面、両方」
「ええ」
理央はモニターの角度を少し変え、紙をその脇へ揃えた。乃亜が撮り終える間、和真は一行を見ていた。文字が数式の下にあるだけなのに、目を離すと消えるような気がした。
「観測者って、誰のことだろう」
「分からない。何を観測しているのかも、誰がこの続きを書いたのかも」
理央はマウスから手を離した。
「でも、誰かがいる可能性は残る。だから私は、ここにいた」
その言葉を聞いた時、和真は乃亜が自宅に残した紙を思い出した。戻ったら、返事を書いておいてください。家族へ残した言葉と違い、こちらは誰に届くのかさえ分からない。
「リリス。心当たりは?」
「ありません、主。この文言だけでは、対象を特定できません」
理央の視線が、初めてリリスに留まった。
「さっきから気になってたけど、あんたたちは何の集まりなの。大学の人間だけじゃないわよね」
和真は、詩乃へ目を向けた。島のことを初めて聞く相手に、どこから話せばいいのか迷う。
「私たちは、海の向こうの島で調査をしていました」
詩乃は理央の手元にある紙を見ながら続けた。
「そこで遭難して、和真さんに助けられました。昨日、島で見つけた施設に、この子がいました」
「リリスです。アステリア文明に属する施設を管理していました」
理央の手が、また筆記具へ伸びた。
「アステリア文明って何」
「私にも、すべては分かりません」
リリスの返事を聞いて、理央は紙の端に短く書き込んだ。和真は、自分が島にいた理由を尋ねられて、知っているところだけを話した。キャンプをしていたはずなのに、気づけば環凪島にいたこと。テントと道具はそのままだったこと。施設で自分を継承者と認識されたこと。リリスが大きな生命反応の異常を観測していたこと。
理央は、和真が見たこととリリスが記録したことを分けて書いていた。途中で手を止めるたびに、尋ねるのは一つだけだった。
「その認証は、人が消えたことに関係しているの?」
「両者の因果関係は確認できていません」
リリスの答えに、理央は頷かなかった。紙の「認証」という文字の横へ、短い線を引く。
「じゃあ、戻す方法は」
詩乃の声は、先ほどより低かった。
「現時点では、分かりません」
和真は、詩乃がバッグの持ち手を握ったのを見た。ここへ来れば、何か聞けるかもしれないと思っていた。理央の画面に残された文字も、島の施設も、いまのところは答えを指していない。
「でも、島の施設は見たいわ」
理央が言った。
「環凪島が原因だとは言わない。人がいなくなった理由が別にあって、島も影響を受けた可能性はある。ただ、何もない家を探すより、あそこには調べられるものがある」
和真は理央の紙へ目を落とした。観測者の一行、アステリア文明、継承者、生命反応。どれも線で結ばれてはいない。
「今ある中では、一番、確かめる価値がある場所よ」
乃亜が携帯電話を詩乃へ見せた。画面には、紙とモニターを並べた写真が写っている。和真はその下に残った一行を見て、もう一度だけ口にした。
「これを書いた人も、探さないとな」
「大学にいるとは限らないわ」
「うん。でも、まだ見てないところがある」
レイナが理央へ顔を向けた。
「ほかの棟、案内できる? あたしたちだけで回るより、その方が早いと思う」
理央は机の上の紙を揃え、鞄へ入れた。
「工学系の施設も見るべきね。裏の道なら車で回れるわ」
*
研究棟の入口へ戻る頃には、和真も建物の並びを少し覚えていた。それでも、理央が示した工学系の施設は、ここからでは別の棟に隠れて見えない。
和真は先にワゴン車の扉を開けた。乃亜が座席へ腰を下ろす時、右足を上げるのを手伝うと、彼女は自分で足元の荷物を脇へずらした。
「さっきより痛む?」
「歩くと、少し。でも、座っていれば大丈夫です」
「無理になったら言って。途中でも休もう」
乃亜が返事をする前に、レイナが隣からシートベルトを引いた。和真は扉を閉め、運転席へ回る。
理央は助手席に乗る前、鞄から紙を一枚出した。研究室の場所と、構内を確認しに出る旨が書かれている。
「これ、入口に置いてくる。戻ってきた人が、私までいなくなったと思うと困るから」
和真は車の屋根越しに頷いた。家を出る前、三人に話したのと同じことだった。
詩乃は理央に助手席を譲り、後ろへ乗った。戻ってきた理央がシートベルトを締めるのを待って、和真はエンジンをかけた。
「最初の角を右。その先の建物を回って」
教えられた道へ車を進める。和真は角を曲がる手前で減速し、左右の歩道を確かめた。構内にはまだ、窓越しにしか見ていない建物がいくつも残っている。
研究室で返ってきた「誰?」という声を思い出すと、呼びかける前から諦める気にはなれなかった。次の入口が見えたところで、和真は車をそちらへ寄せた。




