第十章 気づかなかった少女
和真は、理央に指示された角を曲がる手前で速度を落とした。
正面に見える建物は、研究棟より背が低い。ガラス張りの渡り廊下の先に、灰色の外壁と大きな搬入口が続いている。入口脇には資材を運ぶためらしい台車が止まっていたが、周囲に人の姿はなかった。
「このあたりが工学系の実験棟よ。構造関係の作業室もあるはず」
助手席の理央が言った。
和真は建物の前にワゴン車を寄せ、エンジンを切った。静かになった車内で、後部座席の乃亜が右足の位置を変える。包帯の上から固定された足首を、かばうようにしていた。
「乃亜は車で待ってて。レイナ、悪いけど一緒にいてくれる?」
「もちろん。二人で待ってる」
レイナがすぐに答え、乃亜の隣へ少し身体を寄せた。
「何かあったら、クラクション鳴らして。すぐ戻るから」
「分かりました。和真さんたちも気をつけてください」
詩乃がドアを開け、先に車を降りる。理央は鞄を抱え直し、リリスは和真の後ろへ静かに続いた。
自動扉は開いたままだった。
中へ入ると、乾いた空気に金属と木材の匂いが混じっていた。廊下の片側には実験室の扉が並び、反対側には大きな窓が続いている。窓の外には、誰もいない構内の道路と、動かない自転車が見えた。
和真が廊下の先へ進もうとした時、上の階から鋭い音が落ちてきた。
金属の何かが、床へぶつかった音だった。
続けて、低い機械音が聞こえる。
理央が足を止め、天井を見上げた。
「上ね」
和真は階段の方へ視線を向けた。音は止まらない。一定の間隔で、何かが擦れるような音が混じっている。
「誰かいますか」
詩乃が呼びかけた。
返事はない。
もう一度呼ぼうとした時、二階から短い衝撃音が響いた。今度はさっきより近い。
和真は階段を上がった。
二階の廊下には、構造実験室、材料加工室と書かれた表示が見える。突き当たりにある扉の隙間から、白い光が漏れていた。
和真は開きかけた扉の前で止まった。機械のすぐそばへ踏み込む前に、室内を見渡す。
広い作業室の中央に、大きな作業台があった。壁際には木材や金属の細い部材が立てかけられ、床には定規や図面、工具箱が置かれている。
作業台の前にいたのは、小柄な女性だった。
耳当てをつけ、保護眼鏡を額へ上げたまま、組み立て途中の模型へ身を寄せている。細い木の部材を三角形に組んだ骨組みの上へ、小さな重りが載せられていた。女性は目盛りのついた計測器を読み、片手で部材の端を押さえている。
さっき聞こえた音は、作業台から滑り落ちた金具らしかった。
和真は扉を軽く叩いた。
「すみません」
女性は動かない。
詩乃が和真の横から室内を覗き込んだ。
「聞こえていないみたいですね」
和真は頷き、機械から距離を取ったまま、もう一度声をかけた。
「すみません。危なくないところで、少し話せますか」
女性の手が止まった。
耳当てを外し、ゆっくりとこちらを振り返る。眠たそうにも見える目が、和真、詩乃、理央、リリスの順に動いた。
「誰ですか」
「鷹番美波さん、よね」
理央が一歩前へ出た。
女性は理央の顔を見て、しばらくしてから頷いた。
「橘さん? どうしてここに」
「それを、確認しに来たの。さっき呼んだけど、聞こえなかったみたいね」
「作業中だったから」
美波は作業台の模型へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「何かあったんですか」
和真は扉の内側へは入らずに答えた。
「美波さん、ここに来てから誰かに会った?」
「会ってない」
「外には出た?」
「この棟からは、あまり。仮眠室と自販機には行ったけど」
美波は壁際の時計を見た。
「人が少ないのは、授業がないからだと思ってた。作業室も空いてたし」
「最後に、この棟を出たのはいつ?」
美波が和真を見た。
「一昨日の昼。一度だけ、下宿に戻った」
「それからは?」
「徹夜明けだったから、下宿で少し寝た。その日の夜には、またここに来た」
美波は作業台の端に置かれたスマートフォンを取り、画面をつけた。通知の表示を上から下まで送り、止まった。
「昨日、また下宿に戻るつもりだった。でも測り直したら、こっちの方が早く終わると思って」
「下宿には帰ってない」
独り言のような声だった。
「港からここまで来たけど、誰にも会わなかった。大学の中も、街も同じだった」
「同じ?」
「人がいない」
美波の指が、画面の上で止まった。
「学内にも?」
「この棟では、美波さんが初めてよ」
理央が言った。
「ほかの建物も、まだ全部は見ていない。でも、少なくとも私のいた研究棟には誰もいなかった」
「連絡は」
「取れてない」
和真は答えた。
「電話も、メッセージも。だから、俺たちはそれぞれの家を見に行った」
美波は顔を上げた。
「家族は?」
詩乃は、開いたままのスマートフォンを見たまま、答えた。
「私たちも、家を見ました。……家族は、いなかった」
室内に、機械の作動音だけが残った。
美波は電話帳を開き、指で一つの名前を押した。耳へ端末を当てる。呼び出し音は鳴った。
けれど、誰も出ない。
切れたあと、もう一度かけた。
今度も同じだった。
「そんなわけ、ない」
美波の声は大きくなかった。
「お母さん、今日……家にいるはず」
「美波さん」
理央が呼ぶ。
美波は返事をしないまま、別の番号を押した。表示を見て、端末を耳から離す。
「父も、だめ」
保護眼鏡の置かれた作業台へ、端末が触れた。
「この子は」
美波の視線が、リリスへ向いた。
リリスは一度、和真を見た。
「──説明を許可してください、主」
和真は頷いた。
「リリスは、俺たちが島で会った施設の管理端末なんだ」
「──人類の生命反応に、大規模な異常が発生した可能性を観測しています。ただし、原因および人々の所在は特定できていません」
「人が……消えたってこと?」
「──現時点では、断定できません」
美波は模型を見た。
重りを載せたままの骨組みが、作業台の上でわずかに撓んでいる。美波は一度だけ、模型へ手を伸ばした。しかし、指先は部材に触れる前で止まった。
「私、帰らないと」
和真は待った。
「実家に行って、確認したい」
「美波さんの実家も見に行きましょう」
詩乃が言った。
「私たちも、同じことをしました。一人より、みんなで行った方がいいです」
美波はスマートフォンを握ったまま、少し俯いた。
「実家は、ここから車で四十分くらい。電車だと、もっとかかる」
「送る」
和真は言った。
「家に入るのが嫌なら、俺たちは外で待つ。それでもいい」
美波はすぐに答えなかった。
スマートフォンを握る手の甲が白くなっている。しばらくしてから、端末をポケットへしまった。
「……連れていって」
「分かった」
和真が答えると、美波は作業台へ戻った。
計測器の電源を切り、模型の上から重りを一つずつ外していく。作業の途中で落ちた金具を拾い、工具箱へ戻した。部材の端が台からはみ出しているのを見つけると、そこだけを静かに押し込む。
図面には手をつけなかった。
美波は鞄へ財布と鍵を入れ、保護眼鏡をケースへしまう。
「ここ、また戻ってきます」
誰に向けた言葉でもないように聞こえた。
和真たちは、美波が部屋を出るまで待った。
外へ戻ると、ワゴン車の後部座席でレイナがこちらに気づいた。すぐに窓を下ろす。
「人、いた?」
「いたよ。鷹番美波さん」
和真が答えると、乃亜が窓の向こうから美波を見た。
「よかったです」
美波は乃亜の右足に巻かれた包帯へ目を留めた。
「歩けない?」
「少しなら。でも、今日は車に乗せてもらっています」
「無理、しないで」
乃亜が頷く。
レイナが後部座席のドアを開け、美波は一番奥の席へ乗った。和真は運転席に回り、理央が助手席へ座るのを待ってエンジンをかける。
「住所、教えてもらっていい?」
バックミラー越しに尋ねると、美波は少し遅れて顔を上げた。
「……駅の北側。青葉台の、三丁目」
和真はナビへ住所を入れた。
構内の出口へ向けて車を動かすと、美波は窓の外へ目を向けたまま、もう何も言わなかった。大学の建物が後ろへ流れ、誰もいない通路が遠ざかっていく。
和真はナビに表示された青葉台三丁目へ向け、大学の正門へハンドルを切った。




