第十一章 戻る場所を選ぶ
大学の正門を出ると、ナビは駅の北側へ向かう道を示した。
構内を離れても、歩道に人の姿はなかった。駅へ続く大きな通りには車が何台か止まっているが、どれも動く気配がない。和真は信号の手前で速度を落とし、左右を見てから交差点へ入った。
助手席の理央は鞄を膝に置いたまま、窓の外を見ている。後ろは静かだった。美波は一番奥の席で、窓に額を寄せるようにしていた。
さっきまで、模型の重りを外していた手だった。
家族へ電話をかけても誰も出ず、それでも実家には母がいるはずだと言った。大学からここまでの道で、人のいない街を見続けた今、美波が何を考えているのかは和真には分からない。
ただ、今は話しかける時ではない気がした。
ナビの案内どおりに駅前を抜け、住宅の多い方へ車を進める。大学から離れるほど建物の背は低くなり、道沿いの店も途切れがちになった。
四十分ほど走った頃、美波が小さく顔を上げた。
「次の角、右です」
和真は方向指示器を出した。
曲がった先には、緩やかな坂道が続いていた。坂の途中にある家の前で、美波が前を見たまま言う。
「ここです」
門の脇に小さな表札が出ていた。二階建ての家で、玄関脇には植木鉢が並んでいる。窓の内側は暗く、カーテンも閉じられていた。
和真は家の前に車を寄せ、エンジンを切った。
美波はすぐにはドアを開けなかった。両手でスマートフォンを持ち、画面を見つめている。
「俺たちは外で待つよ」
和真が言うと、美波は小さく息を入れた。
「……うん。一人で、見てくる」
「何かあったら、呼んで」
詩乃の声に、美波は「分かった」と返した。バッグを抱えて車を降り、門をくぐる。鍵を取り出す手元を見ているうちに、玄関の扉が開いた。
中へ入った美波が、扉を閉める。
それから、しばらく誰も話さなかった。
レイナは窓の外を見ながら、前の席の背もたれへ腕を乗せている。乃亜は包帯の巻かれた右足を少し動かし、痛みが出ない位置を探すように座り直した。詩乃が気づいて、足元の荷物を脇へ寄せる。
「足、伸ばせる?」
「うん。大丈夫」
乃亜はそう答えたが、その視線は家の玄関に向いたままだった。
美波が入ってから、十分ほどが過ぎた。
家の中から、何度か足音が聞こえた。二階へ上がる音。廊下を戻る音。人の名を呼ぶ声は、車の中までは届かなかった。
和真は腕時計を見てから、もう一度玄関へ目を向けた。
扉が開いた。
*
鍵を回して玄関へ入った時、美波は何も考えずに言った。
「ただいま」
返事がないことに気づくまで、少し時間がかかった。
靴を脱ぎ、居間を覗く。テーブルの上には、使われたままの湯のみが置かれていた。母が飲んだものかもしれないと思って近づいたが、中にはもう何も残っていない。
「お母さん?」
声をかけてから、台所へ回った。
誰もいない。
洗面所も、浴室も、父の部屋も。二階の扉を順に開けても、返事はなかった。
家の中には、いつもの匂いが残っている。洗剤と、台所に置かれた調味料と、夕方になるとどこからかする木の匂い。それなのに、誰もいないだけで、知らない家のように感じた。
美波は居間へ戻り、ソファの背へ手を置いた。
今日、母は家にいるはずだった。
電話がつながらなかった時も、外出しているだけかもしれないと思っていた。急に用事ができたのかもしれないと。けれど、父も母もいない家を見て回ると、その考えだけを残しておくのは難しかった。
スマートフォンを取り出し、母へかける。
呼び出し音は鳴る。
画面を見ながら待っても、出ない。
切れてから父へかけたが、同じだった。
美波は端末をテーブルへ置いた。画面が暗くなると、居間は急に静かになった。
一昨日、下宿へ帰った時も、買い置きの食べ物を口にして、そのまま眠った。起きてからはまた作業室へ戻った。大学までの短い道で誰にも会わなかったことも、研究室が空いていたことも、測定に集中していれば気に留める理由がなかった。
けれど、もう違う。
スマートフォンの横に、メモ帳とペンがあった。
美波は椅子を引き、白い紙を一枚取った。
自分は無事でいること。他の人たちと一緒にいること。家を空けるが、また戻ってくること。
書き終えてから、字が少し傾いていることに気づいた。書き直そうとして、やめた。
このままでも読める。
紙をテーブルの中央へ置き、ペンを横に揃える。父か母が戻ってきた時、まず目につく場所だった。
居間を出る前に、棚の上の写真立てを見た。
家族で撮った古い写真だった。父と母の間に立つ自分は、今よりずっと背が低い。
美波は写真立ての脇に重ねてあった写真の中から、一枚だけ選んだ。三人で海へ出かけた時のものだった。
それをバッグの内ポケットへしまう。
写真立ては元の場所へ戻し、居間を出た。
玄関で靴を履き、扉を開ける。
外には、車が待っていた。
*
美波が門を出ると、詩乃が先に車を降りた。
美波のそばまで歩いてきて、急かさずに立ち止まる。
「……誰も、いなかった?」
「うん」
美波は家を振り返った。
「書き置きは、残せた?」
「残した。戻ってきたら、分かるように」
「よかった」
詩乃は美波の背中へ手を伸ばしかけ、触れずに下ろした。
「今夜、ここに泊まってもいいです。部屋は……空いてるから」
和真は車のそばで、美波を見た。
七人で泊まるには十分な家かもしれない。水も電気も使えるだろう。けれど、今日初めて会った自分たちまで入れば、この家は美波が戻ってきた家ではなくなってしまう気がした。
「今日は、別の場所にしよう」
和真が言うと、美波は玄関の方を見たまま動かなかった。
「ここは、美波さんの家だから」
詩乃が静かに続ける。
「今は、知らない人まで入って、休む場所にしてしまわない方がいいと思う」
美波は少し考えてから、車の方を向いた。
「……港の近くに、民宿があります」
「民宿?」
「一棟貸しの。古い建物を改装してて、少し変わった形だから……前から気になってた」
「泊まれるか、見に行く?」
和真が尋ねると、美波は「うん」と返した。
「港へ向かうなら、少し戻るけど」
「問題ないよ」
車へ戻ると、美波はさっきと同じ一番奥の席へ座った。和真がエンジンをかけると、窓の外の家がゆっくり遠ざかっていく。
坂を下り、来た道を戻る頃には、空の色が薄くなっていた。
港へ近づくにつれ、潮の匂いが車内まで流れ込んできた。倉庫と古い商店が並ぶ通りを抜けた先で、美波が窓の外を指さす。
「あれです」
道路から少し奥まった場所に、木とコンクリートを組み合わせた建物があった。古い家屋の屋根を残しながら、その横へ四角い二階部分をつないでいる。玄関の上には小さな看板があり、一棟貸しの民宿だと書かれていた。
和真は敷地の前に車を止めた。
玄関脇には宿泊案内の板があり、鍵の受け渡しに使うらしい箱が取り付けられている。人がいない今、その箱にも鍵が残ったままだった。
美波は窓の外の建物を見ていた。
「屋根は古いままだけど、中は使いやすく直してるみたい」
和真は鍵を取り、玄関を開けた。
「中、確認してくる。乃亜はそのままで待ってて」
「うん」
和真が中へ入ると、空気は少し冷えていた。廊下の照明をつけ、まず奥まで見通す。人の気配はない。
炊事場には食器棚と冷蔵庫があり、蛇口をひねると水も出た。浴室とトイレも使えそうだった。和真が戻ると、レイナが窓の鍵を順に見て回り、理央はコンセントの位置を確かめている。
「寝る部屋は?」
詩乃が尋ねた。
和真は廊下の奥を振り返った。
「大きい和室が一つ。ほかは水回りと、収納くらいだった」
「一日一組なら、そうなるか」
理央が短く言った。
乃亜を車から下ろし、和室まで支える。畳の上へ座ると、乃亜は身体を少し横へずらし、包帯の巻かれた右足を楽な位置へ置いた。
和真は入口近くへ座り、七人が入れるよう座卓を端へ寄せた。
窓の外は、もう暗くなり始めていた。
*
和真は、畳の上に置いたスマートフォンへ目を落とした。
充電の表示は出ている。蛇口をひねれば水も出た。外へ出れば車があり、少し走れば店もある。
けれど、誰もいないままの街が、明日も同じように使えるとは限らなかった。
座卓の向こうには美波がいる。今日になって初めて、家族がいない家を見たばかりだった。今すぐ島へ行くかどうかを決める話をするのは早い気もしたが、明日になれば自然に答えが出るわけでもない。
和真は一度、みんなの顔を見た。
「少しだけ、この先のことを話していい?」
詩乃が静かに顔を向け、レイナは背もたれにしていた壁から身体を離した。乃亜は右足を横へ伸ばしたまま、和真の方を見ている。美波も、膝に置いた手を止めた。
「みんなは、この先どうしたい?」
言葉にしてから、和真は続けた。
「家に戻ってもいい。ここみたいな場所を借りて、みんなで本土に住むのもありだと思う。大学に残って、ほかに人がいないか探すこともできる」
誰も、すぐには答えなかった。
「でも俺は、島に戻ろうと思ってる」
和真はリリスの方を見た。
「人がいなくなったことに関係する何かが、あそこにはあるかもしれない。俺が島へ来たことも、あの施設も、リリスも。答えがあるとは言えないけど、調べるなら戻るしかないと思う」
「……本土で暮らす方が、生活は楽です」
美波が言った。
「家もある。水も、電気も、食べ物も。島には……まだ、何もない」
「そうだね」
和真は頷いた。
「島へ行けば安心できるわけじゃない。生活だけなら、こっちの方がずっといいと思う」
理央が、充電中のスマートフォンを見た。
「自宅や大学に残ったとしても、この生活がいつまで続けられるかは分からないけどね」
和真は顔を向けた。
「電気や水のこと?」
「それだけじゃない。燃料も、食料も、医薬品も。今は店に残っている物を使えても、補充する人はいない。設備だって、壊れたら直せるとは限らないわ」
「その心配は、俺もしてる」
和真は、手元のスマートフォンを伏せた。
「だからって、島なら大丈夫ってわけでもない。でも、俺はこっちに帰る場所がない。島に戻るつもりでいる」
畳の上に置いた指先へ、少し力が入った。
「ただ、せっかく出会ったみんなのことを、島に戻ってからも絶対に心配すると思う。ここで別れて、誰かの家や大学で何か起きても、今みたいには動けない」
「分かれて暮らすのは、あんまりよくないよね」
レイナが腕を組んだ。
「何かあった時に、すぐ集まれないし。ここでも島でも、七人だけなんだから」
「本土に住んで、必要な時だけ島へ行くのは?」
美波が尋ねた。
「高速艇があるんでしょう」
「それも考えた」
和真は言った。
「でも、燃料は限りがある。天気が悪ければ渡れないし、船が壊れたら行き来もできなくなる。島を調べるなら、近くにいた方がいいと思う」
理央が視線を上げた。
「本土で暮らす案も、通う案も、生活のためなら合理的よ。ただ、本土で分かるのは、人がいなくなったという結果だけ」
和真とリリスのいる方へ、理央の目が向く。
「島には、まだ確かめていないものが残っている。あの施設も、リリスが観測した異常も。島が原因だとは言えないけど、今のところ一番調べる価値がある場所だと思う」
「家には、また戻れるんですよね」
乃亜が、膝の上で指を重ねた。
「戻るよ」
和真はすぐに答えた。
「家を捨てるわけじゃない。詩乃たちの家も、美波の家も、大学も、ちゃんとまた見に来る」
「書き置きも、確認したいです」
乃亜は小さく言った。
「もし家族が帰ってきたら、そこに書いたことを見てくれるかもしれないから」
「うん」
詩乃は乃亜の方へ身体を向けた。
「本土と島、どちらか一方に決めて、もう片方を捨てる必要はないと思う。ただ、今はみんなが一緒にいられる場所を作った方がいい」
和真は座卓の端へ手を置いた。
「俺は島に戻る。そこで、分かることを調べたい」
みんなの方を見て、続ける。
「そのうえで、本土にはまた戻ろう。家族のことも、生存者のことも、大学のことも、諦めない」
美波はすぐに答えなかった。
窓の外には、港の灯りがいくつか見えている。家族のいない実家から離れて、今日初めて会った人たちと同じ部屋にいる。そのことを、美波自身がまだ受け止めきれていないように、和真には見えた。
「……島で、何をするかはまだ分からない」
美波が言った。
「でも、一人で下宿や家に戻るよりは……一緒にいた方がいいと思う」
「私も」
理央が言った。
「研究室に残っても、今日までに分かったことだけでは足りない。島を見たい」
「俺は、賛成」
レイナがすぐに言う。
「また海を渡るのは怖いけど、みんなと一緒なら行く」
乃亜は詩乃の方を見た。詩乃が落ち着いた声で「私も」と言うと、乃亜も続けた。
「私も、行きたいです」
和真は、畳の上に置かれた民宿の鍵を見た。
明日、島で暮らし、調べるための物を選ぶ。そのあとで、また船に乗る。
島に答えがあるとは限らない。本土に残した家族が、戻ってくる保証もない。
それでも、自分たちはただ待つのではなく、次に行く場所を選んだ。
座卓の脇に置かれた寝具を見て、和真は和室を見回した。
「寝るのも、ここだけだな」
和真が言うと、美波は部屋の隅に積まれた布団を見た。
「七組、ありそう」
「今夜は使わせてもらおう」
理央が言った。
レイナが押し入れを開け、掛け布団を一組ずつ取り出していく。詩乃は乃亜が壁際で足を伸ばせるよう、敷布団を置く位置を決めた。美波は空いた場所を見回し、和真が入口側へ布団を敷くのを見てから、自分の寝具を少し離れた場所へ広げる。
誰も、同じ部屋で寝ることについて大げさには言わなかった。
今までなら、あり得なかった距離だった。それでも、夜の港へ出て別の場所を探すよりは、ここに全員がいる方がいい。
和真は玄関を確認して戻り、民宿の鍵を自分の枕元へ置いた。
明日になれば、島で暮らすための物を選ぶことになる。
和真は並んだ寝具を見渡し、その予定を、皆で決めたこととして胸の内に置いた。




