第六章 誰もいない港
入り江へ下りると、沖まで見渡せるだけの明るさになっていた。
和真は荷物を砂の上へ置き、座礁船の陰を離れた。昨日より風が強まった感じはない。岩に当たる波も低く、海の向こうには、これから渡る島の輪郭が見えている。
隣へ来たレイナが、髪を耳の後ろへ押し込んだ。
「どう?」
「今なら出られると思う。少し漕いでみて、流されるようなら戻る」
「じゃあ、舟を下ろそう。荷物はあとで渡すから」
二人で補助艇を運び、水際へ下ろした。船底が水を受けると、陸では気にならなかった揺れが手に伝わってくる。レイナに支えてもらい、和真は片足ずつ艇へ入った。腰を下ろしてから荷物を受け取り、漕ぐ邪魔にならない位置へ収める。
「水、ここに入れますね」
詩乃が最後のボトルを差し出した。受け取る前に、彼女の足元のバッグを見る。残る三人の分は、そちらへ分けてある。
「そっちは、足りそう?」
「今日の分はあります。こちらの心配で飲むのを我慢しないでください」
「分かった。使わせてもらう」
ボトルを手の届くところへ留め、救命胴衣の脇を締め直した。オールを動かすと肘が少し当たったので、座る位置も確かめる。
「和真さん、地図はありますか?」
浜の少し上から乃亜に聞かれ、防水ケースを持ち上げて見せた。乃亜は詩乃とレイナに支えられて入り江脇まで来て、右足を伸ばして座り、膝の上にノートを開いている。ここまで何度か休んだらしいが、今のところ足を押さえたり、顔をしかめたりはしていなかった。
「港の位置、もう一度見ておいた。助かったよ」
「こっちからは見えないので、近づいたら島の端を確かめてください」
和真はケースをしまい、教えられた方角を見た。目標は見えていても、その間には波のある海が広がっている。昨日、地図に指を置いた時より遠く感じた。
レイナが艇の縁を持ったまま、こちらを覗き込む。
「もう一回聞くけど、一人で平気?」
「平気かどうかは、やってみないと分からない。無理なら戻ってくる」
「……うん。すぐ戻ってきても、別にいいからね」
「その時は、また一緒に考えて」
「もちろん」
オールを握ると、昨日の運搬で張った肩が重かった。動かせないほどではない。最初から力いっぱい漕がないよう、浅く水を捉えてみる。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
詩乃の声を聞きながら、和真は艇を進めた。レイナが手を離し、膝まで浸かった海から浜へ上がっていく。
数度漕いでから岸へ顔を向けると、乃亜が座ったまま手を上げていた。和真も片手を上げ、すぐにオールへ戻した。左右の力が揃わず、艇の向きが少しずれていた。
*
入り江を出てしばらくは、どれだけ漕いでも向こうの島が近づいた気がしなかった。
和真は進行方向を確かめ、またオールを引いた。両手を同じように動かしているつもりでも、艇は少しずつ斜めを向く。直そうと片方を強く引けば今度は行きすぎ、ようやく向きを揃えた頃には、握る手に余計な力が入っていた。
肩を下げ、持ち手を握り直す。急いでも、漕ぎ方が乱れるばかりだった。
海は岸から見た時のまま、穏やかだった。それでも低いうねりが来るたびに艇が持ち上がり、下がる時には腹の奥が浮くような感じがする。救命胴衣の内側には早くも汗が溜まり、袖口から出た腕だけが風に冷やされていた。
時々手を止めて周囲を見た。島影のほかに、進んでくる船がないかも探す。もし見つかれば声を上げるつもりでいたが、今のところ、こちらへ向かうものはなかった。
一時間を過ぎた頃、水を飲むためにオールを休めた。
ボトルの蓋を回す指が、すぐには曲がらなかった。親指の付け根をもう片方の手で押すと、鈍く痛む。飲みながら島を見ると、さっきまで一続きだった緑の下に、白っぽい筋が現れていた。建物か、岸壁か。目を細めても、まだはっきりしない。
環凪島も見失ってはいない。休んでいる間に艇がどちらを向くか確かめてから、和真は食料の袋を開けた。朝食は取ってきたが、帰りにも同じだけ漕ぐことになる。空腹になるまで待たず、少し食べておいた。
再び漕ぎ始めると、止める前より腕が重く感じた。息が乱れない速さまで落とし、右へ、左へと目標を外さないよう進む。
白い筋は、近づくにつれて防波堤の形になった。その内側に屋根がいくつか重なり、さらに近づくと、細い柱のようなものが並んで見えた。係留された船のマストだった。
港がある。
和真は一度漕ぐのをやめ、地図を広げた。島の端と防波堤の位置を照らし合わせる。詩乃たちに聞いた港で間違いなさそうだった。艇の上からでも、建物の前に車が停まっているのが分かる。
助けを求められると思うと、早く岸へ上がりたくなった。水へ入れたオールを大きく引きかけ、腕の痛みで力を緩める。ここで疲れ切ってしまっては困る。港口を見定め、残った距離を同じ調子で漕いだ。
*
防波堤の内側へ入ると、艇の揺れが小さくなった。
和真は行き交う船がないことを確かめ、岸沿いの浮桟橋へ向かった。係留船の間に空いている場所を見つけて寄せる。ロープを取ろうと身体を傾けた時、片脚が痺れているのに気づいた。
急に立たず、足首を動かしてから桟橋へ移る。海を渡るのに二時間あまりかかっていた。艇を留めて荷物を上げると、膝を伸ばして立てることがありがたかった。
すぐ近くに白い船が繋がれていた。操縦席の後ろには釣り竿を立てる筒が並び、甲板には蓋の閉じたクーラーボックスがある。人が乗っていないか、窓越しに覗く。
「すみません。どなたかいませんか」
返事を待ったが、船内に動きはなかった。隣の船にも人影は見えない。
和真は桟橋を上がり、建物のある方へ歩いた。靴底の下に硬い舗装が続いている。入り江と森を行き来していた脚には歩きやすく、気づくと歩幅が大きくなっていた。
港の入口に、青い軽トラックが停まっていた。荷台に重ねられた箱を見て、作業をしている人が近くにいるのかと思ったが、運転席も、車の向こうの岸壁も空いている。
その先の平屋には、港の管理事務所だと分かる看板が出ていた。
ここなら、事情を説明できる。乃亜が足を怪我していて、三人が環凪島で待っている。地図も見せれば、座礁船の場所を伝えられるはずだった。
扉を引く前に、救命胴衣の留め具を外した。汗で濡れたシャツが胸に張りついている。入り口脇でざっと額を拭き、声をかけた。
「すみません。船が座礁して、助けを呼びたいんですが」
中には受付の窓口と長椅子があり、壁には港の案内図が掛かっていた。和真は入口で待ってから、窓口へ近づいた。
「すみません」
カウンターの奥に事務机が二つ見えた。椅子の背に上着が掛かり、書類を挟んだバインダーが机の端に置かれている。奥の扉は半分開いていたが、声をかけても誰も出てこなかった。
窓口に置かれた呼び鈴を押した。甲高い音が室内へ響く。和真はカウンターから少し離れ、人が来た時にすぐ分かるよう、入口との間に立った。壁の時計の秒針が進んでも誰も現れず、携帯電話の表示も圏外のまま、緊急通報は呼び出しを始めなかった。
和真は入口へ戻り、外の道路を見た。通りかかる誰かに聞こうとしたが、先ほどの軽トラックの横を通る人もいない。港から続く道は緩く上っており、その両側には店らしい建物が並んでいた。
まだ朝とはいえ、もう誰かが働き始めていてもよさそうな時間だった。
事務所の奥へ入る前に、和真はもう一度、少し大きな声で呼びかけた。
「電話をお借りします。怪我人がいるんです」
返答がないのを確かめてから、カウンター脇を通った。机に置かれた固定電話の受話器を持ち上げる。耳へ当てて待ったが、発信音が聞こえなかった。
番号を押してみても、相手を呼び出す音には変わらない。コードが抜けていないか、手元で追える範囲だけ確かめたが、携帯と同じく、ここから外へ繋がる気配はなかった。受話器を戻す。
港の管理事務所まで来れば、誰かがいて、電話一本で助けを呼べると思っていた。乃亜の足も、三人がいる入り江も、ようやく人に託せるはずだった。受話器から手を離しても、指先にさっきの冷たさが残っている。
机の上には連絡先の一覧があった。和真はそれを見たまま、別の番号を試すべきか迷った。だが、回線が繋がっているかどうかも分からない電話の前で、何度も同じことをするわけにはいかなかった。
奥の部屋と、建物の裏手にも声をかけた。物置には掃除用具が収まり、裏口の脇には自転車が一台立てかけてあった。誰かがここへ来るために使ったものだろう。事務所を一周して表へ戻っても、その持ち主には会わなかった。
和真は時計を見た。十時を少し過ぎている。
港の案内図には、坂の上の住宅地と、その先にある島役場支所、診療所が記されていた。港にいる人がたまたま外へ出ているだけなら、そこへ行けば誰かには会える。乃亜の足を診てもらえる場所も、助けを呼ぶ手段も、まだ諦める理由はなかった。
詩乃には、港に人がいなかったからといって島の奥まで探さないと約束している。坂の上は、その約束を守る範囲ではない。
それでも、役場支所と診療所だけは確かめる。そこで人が見つからなければ戻ると決め、和真は坂を上がった。
道沿いの小さな商店は、入口の引き戸が開いていた。
「すみません。どなたかいらっしゃいますか」
入口から声を入れ、少し待って中へ進む。菓子の袋や日用品の並ぶ棚の奥で、冷蔵ケースが低く唸っていた。天井の照明もついている。奥で作業をしているだけかもしれないと、和真はレジの前まで行った。
カウンターの下に籠があり、値札の付いた商品がいくつか入っていた。その隣には小さな踏み台が置かれ、人が一人座れるくらいの場所が空いている。
「環凪島から来ました。船の事故で、連絡を取りたいんです」
店の奥にある暖簾を見ながら待った。向こうから人が出てきてくれれば、あとは事情を話せる。聞き返されれば、初めから説明し直せばいい。
声をかけ終えたあと、自分の声だけが店に残っていることに気づいた。和真はバッグの肩紐を握り直し、何か聞き逃していないかと奥へ耳を澄ませる。冷蔵ケースの音が止まった時には顔を上げたが、代わりに足音が続くことはなかった。
外へ出ると、通りの先まで見渡せた。道は少し先で二つに分かれ、一方は住宅の間へ、もう一方は坂の上へ続いている。和真は住宅地の方へ進み、最初の家の門柱に付いたインターホンを押した。
「すみません。船の事故で、助けを呼びたいんです」
家の中で呼び出し音が鳴っているのを、門の外で聞いた。窓は閉まっていたが、カーテンの隙間から人影が見えるわけでもない。少し待ってから、次の家へ向かった。
二軒目も、三軒目も同じだった。押せば音は鳴る。声をかければ、自分の声が玄関の壁へ返ってくる。けれど、鍵の開く音も、誰かが近づく足音もない。
留守の家が続くことはある。頭では分かっているのに、四軒目の前で指を伸ばすまでに、わずかな間ができた。今度こそ誰かが出てくるかもしれないという期待が、呼び鈴を押すたびに小さくなっていく。
坂を上がった先に、白い外壁の診療所が見えた。入口には診療時間が掲げられ、ガラス扉の向こうには受付と待合室が見える。照明はついているのに、椅子に座る人も、カウンターの向こうで動く人もいなかった。
「すみません。怪我人がいます」
扉を開けて声をかける。診察券を入れる箱、壁の健康診断のポスター、閉じた診察室の扉。診療所らしいものが目に入るほど、そこにいるはずの人だけが見つからない。
受付の奥と待合室を確かめ、もう一度呼んだ。それでも返事はなかった。乃亜の足を診てもらえる場所まで来たのに、誰にも頼めない。その事実が遅れて胸に落ちてきた。
和真は診療所を出て、案内板に従い、さらに坂を上った。
役場支所は小さな二階建ての建物だった。旗はポールに上がったままで、玄関脇の掲示板には、今日の日付の回覧が貼られている。中の照明もついていた。
それでも、窓口にも廊下にも人影はなかった。
「誰かいませんか」
和真は入口から声を入れ、返事を待った。受付の机には書類が重ねられ、椅子は引かれたままだった。奥から扉が閉まる音も、話し声も聞こえない。もう一度呼ぶ声が、思ったより大きく、静かな建物の中へ広がった。
港だけではない。住宅地にも、診療所にも、役場支所にも、人がいない。
その考えが浮かんだ瞬間、背中に冷たいものが走った。まだ見ていない場所はいくらでもある。けれど、人がいるはずの場所をこれだけ回って、一人にも会えない理由を、和真は思いつけなかった。
環凪島で待つ三人の顔が浮かぶ。もし乃亜の足が悪化しても、こちらに助けを求める人はいない。夜までに戻ると言ったわけではないが、何の手配もできず、どこにいるかも分からないまま時間だけを使っている。
和真は腕時計を見た。決めた範囲は越えている。詩乃との約束も破った。戻らない理由は、もうなかった。
坂を下り始めてから、和真は歩幅を速めた。診療所の前を過ぎ、商店の前を過ぎても、開いた戸口から呼び止める声はない。港の屋根が見えた時には、息が上がっていることにも気づかず、桟橋へ向かっていた。
*
港へ戻ると、繋いだ補助艇が桟橋の脇に浮いていた。
和真はオールの持ち手を見下ろした。朝、レイナが支えていた縁には、もう乾きかけた塩の跡がある。これで戻れば、また二時間ほど。向かい風になれば、さらにかかる。
桟橋の先に、屋根の付いた小型の高速艇が留まっていた。来た時にも目には入っていたが、その時は船より持ち主を探していた。
艇名を確かめ、もう一度事務所へ戻って声をかけた。窓口にも奥の部屋にも、やはり人はいない。カウンターの内側の鍵掛けに、今見た艇名の札が下がっていた。和真は手を伸ばしかけて止めた。
持ち主が戻れば、勝手に使われたと分かる。事情を伝えようにも、相手がいない。補助艇が使えなくなったわけでもなかった。
それでも、あの海を今から漕いで戻る時間を思うと、鍵から目を離せなかった。
三人はテントと入り江で待っている。乃亜の足はまだ腫れていて、水も食料も分けながら使っている。助けを呼ぶために渡ってきたのに、手配も連絡もできなかった。そのまま戻れば、三人に渡せるのは、港にも店にも人がいなかったという話だけになる。
それでも、今ここで島の奥まで探し続けるよりは、早く戻って四人で次を考えるべきだった。
机の端のメモ用紙を一枚取り、自分の名前と環凪島の名前を書いた。座礁した船と負傷者のこと、艇を緊急に借りることを書き足す。見つけた人がこちらへ来られるよう、地図を見ながら入り江の位置も描いた。
最後に補助艇を残す場所を書き、受付の目立つところへ置いた。書き置きで済む話ではない。それでも、何も残さず持ち出すことだけはしたくなかった。
和真は鍵を取り、桟橋へ戻った。
小型船舶の免許は持っている。ただ、操縦するのは久しぶりで、この艇に乗ったこともない。和真は乗り込む前に外から船体を見て、甲板へ足を移してからも、手すりを掴んで揺れ方を確かめた。
操縦席には、使い込まれた取扱説明書が収めてあった。手元の表示と見比べ、分からない箇所を読み直す。鍵があったからといって、動かせるとは限らない。
燃料は残っていた。船内に目立つ浸水はなく、操縦装置にも、触れて分かる範囲でおかしなところはなかった。救命胴衣を着直し、発進前の確認を済ませてから始動する。
エンジンがかかった時、和真は思わず港の建物を見た。誰かが気づいて出てくるかもしれない。自分の艇を動かされた人でも、音を聞いた近所の人でもよかった。叱られるなら謝って、三人が待っていることを話す。しばらく待ったが、窓口にも商店へ続く道にも、人の動く気配はなかった。和真はエンジンをいったん止め、補助艇から荷物を移した。
オールは補助艇の中へ収め、流されないよう留めた。艇の係留をもう一度確かめてから高速艇へ戻る。乗り移る時に縁へついた手が痛み、指の付け根には赤く擦れたところができていた。
荷物を固定し、飲みかけのボトルだけを近くへ置く。地図を広げると、港から環凪島まで、自分が漕いできた距離をひと目で辿れた。
まだ昼にはなっていない。これで戻れれば、三人が考えているよりずっと早く着く。
和真は再びエンジンをかけ、係留を解いた。艇が桟橋から離れるにつれ、舵の反応を確かめながら少しずつ向きを変える。すぐに速度を上げる気にはなれず、港口までゆっくり進んだ。
防波堤の外で、朝とは違う揺れが身体へ伝わった。補助艇より高い位置から見ても、海を渡る緊張がなくなるわけではない。行きに目印にした島の形を確かめ、艇が波を強く叩かない程度に速めた。
風が額の汗を冷やした。和真は舵を握る手の位置を変え、進路の先を見た。
詩乃には、まず港で会えた人がいるか聞かれるだろう。乃亜の足を診てもらう手配も、三人を迎えに来る船も、何一つ頼めていない。
言い方を考えかけても、探した範囲に人はいなかった。その事実を口にした時、三人の顔がどう変わるかまで考えてしまい、和真はそれ以上の言葉を続けられなかった。もう一度、環凪島の入り江の位置を地図で確かめる。
今は、三人の顔を見て話したかった。




