第五章 夜を越える約束
沢から戻ってから、乃亜の足を確かめ、濡れた布を火のそばへ広げているうちに、空はすっかり暗くなっていた。
鍋から取り出した保存食の袋を皿へ移すと、湯気が焚き火の煙に混じって消えた。
午後に見つけた沢の水は、そのまま飲めるものではない。けれど、火で温めた湯で汗を拭き、顔を洗えただけでも、四人の表情には朝とは違う落ち着きがあった。
和真は自分の容器へ湯を注ぎ、少し冷ましてから口をつけた。まだ火のそばに座っているだけで、身体の奥に残っていた疲れが浮いてくる。
「明日、海が今日みたいに静かなら」
レイナが食事を持ったまま、入り江のある方角を見た。
「片道一時間くらいで、向こうまで行けるかもしれない。でも、ずっと漕ぎ続けるんだよな」
「風と潮が逆なら、もっとかかります」
詩乃は皿を手にしたまま言った。
「二時間、三時間かかる可能性もあります。行きより、帰りの方が条件が悪くなることもありますし」
和真は頷いた。入り江で見た補助艇は、近くから見れば頼りになりそうだった。海へ出れば、同じ舟がどれほど小さく感じるかまでは分からない。
「朝になったら、まず海を見る。風が強いなら出ない」
「水も、向こうで何があるか分からない分まで必要ですよね」
乃亜が自分の容器を両手で包んだ。
「今ある分で、残る人の飲み水も足りますか?」
「足りるように分ける。沢の水も煮沸すれば使えるかもしれない。明日持っていく分は、水と食べ物、それから救命胴衣を優先する」
荷物は多ければ安心になるわけではない。小さな舟で漕ぐなら、重さはそのまま帰りの負担になる。
レイナが短く息を吐いた。
「じゃあ、朝に見て、行けそうなら出る。それでいいな」
「誰が行くかも決めないと」
詩乃の言葉に、焚き火のそばが静かになった。
乃亜は自分の足元へ目を落とした。巻き直した布の下から、まだ腫れが残っている。
「ボクは残ります。乗り降りで足を取られたら、舟の上で皆さんに迷惑をかけます」
「私も、乃亜を一人にはできません」
詩乃はすぐに続けた。
「ここに残るなら、水を沸かしたり、入り江の方を見に行ったりする人も必要です」
「なら、あたしが和真と行く」
レイナの返事は早かった。
「交代で漕げるし、向こうで人を探す時も二人の方がいい」
和真は、火の端で赤くなった薪を見たまま考えた。
体力だけを考えれば、レイナの言う通りだった。けれど、和真まで島を離れれば、ここには詩乃、乃亜、レイナの三人が残る。船を借りた時、帰着予定と一緒に届け出ていたのも、その三人の名前だ。
「捜索が始まってるなら、探されてるのは三人だよな」
詩乃が和真を見る。
「はい」
「だったら三人は島に残っていた方がいい。捜索の船が座礁船を見つけた時、船に乗っていた三人が揃っていれば、事情を伝えやすい」
レイナが眉を寄せた。
「でも、和真は一人になる」
「俺は届け出にいない。だから向こうへ行って、三人がここにいることを伝える役をやる」
「和真だけが行く理由にはなる。でも、一人で行かせるのは別の話だろ」
「分かってる」
「ほんとか?」
レイナの声は低かった。
和真は顔を上げた。
「海が悪ければ出ない。出ても、舟が思うように進まなければ戻る。向こうで人が見つからなくても、日が傾くまで探し回るつもりはない」
レイナはしばらく何も言わなかった。やがて容器を口元へ運び、残っていた湯を飲み干す。
「朝は、あたしも一緒に海を見る」
「頼む」
詩乃は火の勢いを見ながら、ゆっくり言った。
「和真さんが朝に出たとしても、帰りの時間は決め切れませんね。向こうで人を見つけたら、救助の手配にも時間がかかるでしょうし」
「早く戻ることだけを優先するわけにもいかない」
「はい。ただ、私たちも、すぐ何かあったと決めつけないようにします」
乃亜が小さく頷いた。
「入り江とテントの近くで待っています。和真さんが戻る時に、探させないように」
夕食のあと、和真は翌朝に持ち出す物を一か所へ集めた。水を入れる容器、食料、ライト、濡らしたくない物を包む袋。救命胴衣は、出発前に入り江で改めて確かめる。
詩乃と乃亜は残った食器を洗い、レイナは焚き火のそばで乾かしていた布を畳んでいた。さっきまで渡航の話をしていたのに、誰もその結論を口にしない。けれど、荷物をまとめる手つきが、翌朝を待っている。
乃亜がテントへ入ったあと、レイナも入口で立ち止まった。
「朝、起こすからな」
「分かった」
レイナはそれだけ言って、中へ入った。
和真はバッグの口を閉じずに、入れた物をもう一度見た。持っていく物を減らせば、残す物が増える。三人がここで過ごすための水と食べ物を、間違えて詰め込むわけにはいかなかった。
「和真さん」
詩乃が、洗った容器を持って近づいてきた。
「まだ起きていたんですね」
「これをまとめたら寝る」
詩乃は容器を火のそばの布へ伏せた。水滴が、布に小さく広がる。
「明日、向こうで人が見つからなかったら」
和真はバッグから手を離した。
「……戻ってきてください」
詩乃は容器を見たまま、続けた。
「行かないでください、と言うつもりはありません。助けを呼ぶ方法があるなら、確かめるべきだと思います」
そこで言葉が途切れた。
焚き火の薪が崩れ、赤い火の粉がひとつ、灰の上へ落ちた。
「でも、港に人がいなかったからって、島の奥まで探さないでください。危なくなってから引き返すんじゃ、遅いです」
「分かった」
「本当に?」
「人を見つけることより、戻ることを優先する。海が変わったら、向こうに着いていても帰る」
詩乃はようやく和真の方を見た。
「約束してもらえますか」
「約束する」
詩乃は少しのあいだ黙っていた。それから、伏せていた容器の向きを揃え、端へ寄せた。
「ありがとうございます」
声はいつものままだった。
けれど、テントへ戻る前に、詩乃は和真のそばへ置かれたバッグを一度だけ見た。
和真は水の容器をバッグの脇へ置き、明日の朝すぐ手に取れるようにした。使うために持っていく物と、戻ってから三人と分けるために残す物を、もう一度確かめる。
スマートフォンの画面には、変わらず圏外の表示が出ていた。
和真はアラームを日の出前に合わせ、手の届くところへ置いた。
次に目を覚ました時、最初に確かめるのは海だった。




