第四章 海の向こう
乃亜が目を覚ました時、目の前には見慣れない布の天井があった。
右足を動かしかけて、すぐに止める。鈍い痛みと一緒に、昨日の出来事が戻ってきた。
座礁した船。森へ入ったレイナ。自分たちを見つけた和真。そして、夜になってから四人で囲んだ焚き火。
乃亜は寝袋の中で右足を少しだけ引き寄せた。
隣ではレイナが横向きに眠っている。昨夜あれだけ寝相を心配されていたが、乃亜の足を蹴ることはなかったらしい。詩乃もまだ目を閉じていた。
テントの外から、小さく物音がした。
和真が起きている。
そう気づいた途端、乃亜は自分の顔へ手を当てた。
顔も洗っていない。髪は片側が潰れ、頬には寝袋の跡が残っている気がする。スマートフォンの暗い画面へ映った自分を見て、乃亜は小さく眉を寄せた。
水を使うなら、今は飲む方が先だ。そんなことは分かっている。
それでも、初めて会ってから一日も経っていない男性に、このままの顔を見られるのは落ち着かなかった。
手ぐしで髪を整えていると、隣から声がした。
「乃亜、起きていますか?」
詩乃も目を覚ましていた。
「はい。今起きました」
「足はどうですか?」
「動かさなければ、大丈夫です」
詩乃は自分の髪を整えてから、テントの入口へ目を向けた。
「和真さんも起きているようですね」
「そうみたいです」
乃亜はもう一度だけ、髪を耳へかけた。これ以上どうにかできるわけでもない。
詩乃が先に身体を起こし、入口のファスナーを開ける。
「おはようございます」
朝の光と冷たい空気が入ってきた。
「おはよう。眠れた?」
外から和真の声が返る。
「思っていたよりは。和真さんは大丈夫でしたか?」
「身体はちょっと痛いけど、寝られたよ」
乃亜もテントの外へ出ようとする。右足をかばって身体の向きを変えた時、和真が入口のそばへ来た。
「おはよう、乃亜さん。足はどう?」
乃亜は反射的に視線をそらした。
「お、おはようございます。じっとしていれば痛くないです」
「昨日より腫れてないか、見てもいい?」
「はい。お願いします」
顔のことを気にするより先に、和真の注意は右足へ向いていた。
乃亜は寝袋を膝へ寄せ、固定された足を出す。和真は触れる前に痛む場所を聞き、固定がずれていないか確かめていった。
「足の指、動かせる?」
「動かせます」
「痺れは?」
「ありません」
「昨日の夜より痛みは強くなってない?」
「大丈夫です」
和真は固定した部分を確認し終えると、乃亜の足を寝袋の上へ戻した。
「大きく悪くなってはいなさそうだね。でも今日は、なるべく歩かない方がいいと思う」
「はい。無理はしません」
背後から、眠たげな声がした。
「本当に?」
振り返ると、レイナが片目だけ開けてこちらを見ていた。髪は乃亜よりずっと大きく乱れている。
「レイナさんに言われたくないです」
「なんで?」
「昨日、森で動けなくなったのは誰でしたっけ」
「朝からそれ言う?」
「忘れてないので」
レイナは口を尖らせながら上体を起こし、そのままテントの外へ顔を出した。
「おはよう、和真」
「おはよう。よく寝られた?」
「寝られた。あたし、乃亜の足蹴ってないよね?」
「ぎりぎり大丈夫でした」
「ほら、蹴ってない」
「危なかったのは認めるんだ」
和真が言うと、レイナは何か返そうとした。その前に欠伸が出て、慌てて口元を押さえる。
「……今のなし」
「もう見たよ」
「忘れて」
寝起きの姿を気にしているのは、自分だけではないらしい。
乃亜は詩乃と和真に支えられてテントを出た。椅子へ座り、右足をもう一脚へ乗せてもらう。
目の前には、和真が使った寝袋が広がっていた。底には土と草がつき、枕代わりにしていたらしい上着も形が崩れている。
「和真さん、本当にここで寝てたんですね」
「テントのすぐ横だから、そんなに困らなかったよ」
「寒くなかったですか?」
「朝方は少し。寝袋の中は平気だったけど」
乃亜はテントへ視線を向けた。三人で使っても広いとは言えない。和真まで中へ入る余裕がなかったことは分かっている。
「今日は、寝る場所も考えないといけませんね」
「そうだね。明るいうちに見ておこう」
和真は収納ケースを開け、朝食に使えそうなものを出し始めた。
「何か手伝えますか?」
「じゃあ、これ開けてもらっていい?」
「はい」
乃亜は受け取った包装を膝の上へ置く。詩乃は飲料水の残りを確かめ、レイナは容器を並べた。
温めたスープと保存の利くパンを四人で分ける。昨日の夕食より簡単な食事だったが、温かいものを口にすると、身体の内側がゆっくり起きてくる気がした。
食べ終えた詩乃がスマートフォンを確認する。
「繋がらない?」
レイナが尋ねた。
「はい。変わっていません」
和真も自分の端末を取り出したが、画面を見て首を横に振った。
乃亜は容器へ蓋をした。
「帰着予定は、もう過ぎていますよね」
「過ぎています」
詩乃が答える。
「向こうで連絡を試してくれていても、私たちには分かりません」
捜してくれる人がいるかもしれない。その可能性は、昨夜よりも今の方が現実味を持っていた。
けれど、誰かが今どこにいて、いつこの島を見つけるのかは分からない。
「入り江の煙、今日も出した方がいいですよね」
「はい。海から見つけてもらうためにも続けましょう」
乃亜は木々の向こうにある海へ目を向けた。
「待つ以外に、ボクたちからできることはないんでしょうか」
*
詩乃は、すぐには答えなかった。
昨日までなら、帰着予定を過ぎれば連絡が入り、管理側が確認を始める。そこまで考えていればよかった。今は連絡が取れず、自分たちがどこまで航路から外れたのかも確かめられない。
海の向こうには、調査前に確認した島影が見えている。
「近くに、人が住んでいる島があります」
詩乃が言うと、和真が海の方を見た。
「見えてる島?」
「位置から考えれば、そうだと思います。港もあります」
「向こうまで行ければ、助けを呼べるってことですよね」
乃亜の声が少し明るくなった。
「電話を借りられるかもしれません。船を出してもらえる可能性もあります」
詩乃は海を見たまま続けた。
「ただ、そこへ行くには海を渡らなければなりません」
「近く見えるけど、泳げる距離じゃないよね」
レイナが島影を見比べる。
「泳ぐのは駄目です」
「分かってるって。距離の話をしただけ」
和真が少し考えてから言った。
「座礁した船に、補助艇があったよね」
「あります」
詩乃は頷いた。
「小さいですが、手漕ぎで使えるものです。船本体が動かなくても、あれなら使えるかもしれません」
「壊れてなければ、向こうまで行けるかな」
「まず状態を見た方がいいね」
和真の言葉に、詩乃も同意した。
「地図も船内に残っているはずです。位置と距離を確かめられれば、考える材料にはなります」
「見に行こう」
レイナが立ち上がる。
その横で、乃亜も椅子の肘掛けへ手を置いた。
「ボクも行きます」
「乃亜は足を休ませた方がいいです」
「分かってます。でも、補助艇も地図も見ておきたいです。ここに一人で残る方が、皆さんも困りますよね」
詩乃はすぐに否定できなかった。
和真が乃亜の右足へ目を向ける。
「歩かせなければ大丈夫だと思う。途中から俺が背負うよ」
「でも、和真さんも疲れてますよね」
「無理なら休む。乃亜さんが歩いて足を悪くする方が困るから」
乃亜は少し迷ったあと、頷いた。
「お願いします」
詩乃は固定がずれていないことを確かめ、持っていく物をまとめ始めた。
*
森の中で乃亜を背負い直すと、和真の首元に彼女の息がかかった。
「苦しくない?」
「大丈夫です。和真さんこそ重くないですか?」
「このくらいなら平気。足だけ枝に当てないようにして」
「はい」
最初は詩乃に支えられながら歩いていた乃亜も、森へ入ってすぐ限界が見えた。片足へ頼る歩き方では、根や段差の多い道を進めない。
前を歩くレイナが、張り出した根を跨いでから振り返った。
「ここ、右から来た方が楽かも」
和真は示された方へ足を向ける。土が乾いていて、左側より傾斜も緩い。
「分かった」
「少し先に倒れた木があるから、そこも気をつけて」
乃亜の右足が枝へ触れないよう、身体の向きを変えて進む。背中の重さより、足元を見落とさないことに神経を使った。
入り江へ近づくにつれて、波の音が木々の間まで届き始める。
森を抜けると、座礁船が見えた。昨日と同じ角度で岩礁に乗り上げ、船腹へ波を受けている。
和真は平らな砂地まで進み、詩乃に手伝ってもらいながら乃亜を下ろした。流木のそばに布を敷き、右足を伸ばして座れるようにする。
「痛くなってない?」
「大丈夫です。歩いていた時より楽でした」
「ならよかった」
詩乃は乃亜の足元を確認してから、昨日発煙信号を出していた場所へ向かった。
「先に煙を出します」
「手伝うよ」
レイナがあとを追う。
「火を広げないようにね」
和真が声をかけると、レイナは歩きながら手を上げた。
「分かってる。昨日もやったから」
和真は二人の作業を確かめてから、座礁船へ入った。
傾いた船内では、床に置かれた物が片側へ寄っている。壁へ手をつきながら船尾側まで進むと、補助艇は昨日見た位置に残っていた。
船本体ほど強く岩へ打ちつけられた跡はない。中には海水らしい水が浅く溜まっているが、艇体の側面に大きな破損は見当たらなかった。
和真は縁へ手をかけ、外から見える範囲を確かめる。
「どうですか?」
詩乃が船内へ入ってきた。
「大きく壊れてるようには見えない。でも、見えないところもある。下ろしてみるまでは何とも言えないかな」
「そうですね」
詩乃は補助艇へ近づき、船壁を指した。
「オールは残っています」
和真は留め具を外し、一本ずつ手に取った。水を受ける部分に擦れた跡はあるが、折れや大きな割れはない。柄を両手で持って力をかけても、不自然に軋むことはなかった。
「救命胴衣も収納にあります」
「見ておこう」
二人で船内を確認する。救命胴衣は四人分残っており、留め具も動いた。
外から乃亜の声が届く。
「地図、見つかりそうですか?」
「探してみる」
詩乃が防水ケースを見つけ、中身を確かめた。航路や周辺の島が記された地図は濡れずに残っている。
和真は予備のオールを一本見つけた。近くには、傷みの少ないロープと、艇内の水をかき出すための容器もある。
使える物を持ち出し、二人で船外へ戻った。
発煙信号の煙は海側へ流れていた。レイナは火のそばに残り、周囲へ燃え移らないよう砂を寄せている。
詩乃が乃亜の隣へしゃがみ、地図を膝の上へ広げた。
「現在地はここです」
示された場所には、環凪島の名前がある。
和真は初めて、自分のいる島を地図として見た。昨日歩いた森も、キャンプ地も、この縮尺では細かな場所まで分からない。
「向こうの島は?」
「こちらです」
詩乃の指が、海を隔てた別の島へ移る。
「港は環凪島に近い側にあります。最短で進めれば、島を大きく回り込む必要はないはずです」
「どれくらいかかりそう?」
レイナが聞く。
詩乃は縮尺を確かめ、海の方を見た。
「今日くらい穏やかなら、一時間前後で届く距離だと思います」
「そんなに近いんだ」
「潮に逆らう時間が長くなれば、二時間は見た方がいいかもしれません。風まで強くなれば、三時間近くかかる可能性もあります」
和真にも、手漕ぎのボートやカヌーを扱った経験はある。けれど、それは岸に近い場所や、流れの穏やかな水面での話だった。
小さな艇で海へ出れば、途中で足をつけて休むことはできない。風向きが変われば、帰りにも同じだけ時間がかかる。
「近くで浮かべてみる?」
レイナが補助艇を見る。
「今日はやめておこう」
和真が答えると、レイナがこちらを向いた。
「状態を見るだけでも?」
「下ろしてから戻せなくなったら困る。ロープをつけて、水をかき出して、何かあっても引き戻せるようにしてからの方がいい」
「今から準備するんじゃ駄目?」
「試して問題がなくても、この時間から向こうへは出ない方がいい。今日は必要な物を揃えるところまでにしよう」
レイナは補助艇を見たあと、短く息を吐いた。
「分かった」
乃亜はノートを開き、見つかった物を書き留めていた。書き終えると、ページを見ながら尋ねる。
「救命胴衣は、四人分ありますよね」
「ある」
「オールも予備が見つかりました」
「ロープも使えそうです」
詩乃が補足すると、乃亜はノートへ書き足した。
「向こうで助けを呼べなかった場合も考えるなら、水と食料は多めに必要ですね」
「全部持っていくわけにはいかない」
和真が言う。
「島に残る人の分も必要だから」
レイナが顔を上げた。
「残る人?」
「四人全員で行くとは限らないですよね」
乃亜は右足へ目を落としたが、声は落ち着いていた。
「ボクはこの足ですし」
「乃亜を一人で残すのはなし」
「ボクも一人とは言ってません」
「じゃあ誰か一緒に残るってこと?」
「それをこれから決めるんじゃないですか?」
レイナが和真と詩乃を交互に見た。
「だったら、あたしが行く。漕ぐなら体力ある方がいいでしょ」
「今は決めない」
和真が言うと、レイナの眉が上がった。
「なんで?」
「艇が使えるかも分かってない。それに昨日の疲れも残ってるでしょ」
「もう大丈夫だって」
「もう少し休んでから考えよう。海の上で腕が動かなくなっても、簡単には戻れない」
レイナはすぐに返事をしなかった。補助艇のオールへ目をやり、自分の右手を握ってから開く。
「……分かった。今はやめとく」
「夕食の時には言うんですね」
乃亜がノートから顔を上げずに言う。
「言うかもしれない」
「今、決めないでください」
詩乃が地図を畳む。
「誰が行くかは、夕食の時に話しましょう。出発時刻や、どんな海の状態なら出られるかも、一緒に考えたいです」
和真は海へ目を向けた。
島影は朝と変わらない距離に見える。陸から見れば、穏やかな水面が続いているだけだった。
「今日は持ち帰れる物だけ持って戻ろう」
和真はロープと予備のオールをまとめた。
「午後、煙を出しに来る時にもう一度海を確認する。明日の朝も見て、艇を下ろせそうなら試す」
「誰か船が来たら?」
乃亜が尋ねる。
「その時は、向こうへ行く必要はなくなる」
「それが一番いいですね」
「うん」
和真は発煙用の火を消し、熱が残っていないことを確かめてから、持ち帰る道具を担いだ。
帰りも乃亜を背負うため、重い物はレイナと詩乃へ分けてもらう。
キャンプ地へ戻った頃には、昼を過ぎていた。
乃亜の足に強い痛みが出ていないことだけを確かめ、和真は水を飲んだ。背負っていた時間は長くないが、森の中で足元を選び続けたせいで肩が張っている。
「和真さん、ありがとうございました」
「どういたしまして」
乃亜は朝より整った髪を耳へかけた。
「明日はキャンプ地に残った方がよさそうですね。ここでできることをします」
「一人にはしないよ」
「はい。誰かと残ります」
今度は、自分を責めるような言い方ではなかった。
詩乃がテーブルへ地図を広げ、乃亜がノートを隣へ置く。レイナも椅子を寄せたが、座る前に残りの水を確認し始めた。
和真は収納ケースから食料を取り出し、地図の横へ並べた。
「昼を食べて少し休んだら、この辺を見ておきたいんだ。入り江まで、もう少し歩きやすいところがないかも確かめたい」
レイナが水のボトルをテーブルへ置いた。
「それなら、あたしも行く。朝、倒れた木を回ったところ、別の方から通れそうだったし」
「うん。あとは薪を拾える場所と、水が流れてるところがないか。遠くまでは行かない」
「水、見つかるといいですね」
詩乃がボトルを手元へ寄せる。中の水は、横へ傾けると底の片側に集まるほどしかなかった。
「飲む分を使うわけにはいきませんけど、そろそろ身体も拭きたくて」
「あたし、髪洗いたい。もう二日以上、お風呂入ってない」
レイナが襟の後ろへ指を入れ、肌から離した。和真も汗の乾いた首筋が気になっていた。顔を濡らすだけで済ませた朝と違い、今は背中までべたついている。
「俺も。流れが見つかれば、洗う分くらいは持って帰れるかもしれない」
「空の容器、集めておきます」
乃亜がノートを引き寄せた。
「残ってる水も、詩乃先輩と一緒に確認しますね。飲みかけの物が別々の荷物に入ってるので」
「お願い。今、飲める水がどれだけあるか分かると助かる」
和真は食料の包装を開け、四人で分けられるようテーブルの中央へ置いた。詩乃は地図を畳み、食事で汚れない場所へ移す。
食べ終えると、和真は椅子へ深く座り直した。肩を回しても、朝からの張りは残っている。すぐ出かけようとせず、そのまま脚を伸ばして休んだ。
*
森へ入る前に振り返ると、テントの前で乃亜が空になったボトルを詩乃へ渡していた。持ち出す水とは別に用意してもらった水袋は、まだ軽く、和真のバッグの中で畳まれている。
「一時間くらいで戻る。水が見つからなくても、いったん帰ってくるよ」
「分かりました。気をつけてください」
詩乃に応え、レイナと入り江へ向かう道へ入った。
朝、乃亜を背負って通った時には、目の前の足場を確かめるだけで精いっぱいだった。身軽になって歩くと、張り出した根の先や、斜面の緩い側へも目を向けられる。レイナが倒木の手前で立ち止まり、右手の木立を指した。
「こっち。あの幹の向こう、元の道に戻れない?」
二人で少し回り込んでみると、倒木の反対側が見えた。高く跨ぐ必要はなく、足元の枝を数本どければ荷物を持っても通れそうだった。和真は帰る向きからも幹の形を確かめた。
「こっちの方が楽だね。水を持つなら、ここを通ろう」
途中、乾いた枝の集まった場所を見つけた。大きな枯れ枝が頭上にないことを見てから、帰りに拾う分を道の脇へ寄せる。テントへ持ち帰るまでもなく枝を短くできそうな、平らな場所も近くにあった。
入り江では、午前より波の届く位置が変わっていた。和真は船の下へ近づかず、砂地から補助艇のある船尾を見た。今朝点検したオールの重さを思い出す。陸で持ち上げるのと、何時間も漕ぎ続けるのでは違う。
「風、朝と同じくらい?」
レイナに聞かれ、頬に当たる風を確かめた。
「ここでは、そんなに変わってないと思う。沖は分からないけど」
もう一度発煙信号を出し、二人で海を見ながら待った。島影の手前を目で辿っても、声を届けられそうな船は見つからない。和真は時刻を確かめ、火を消して戻る支度をした。
テントに近い上りへ戻ったところで、レイナが足を止めた。
「ねえ、水の音しない?」
和真も立ち止まった。葉の擦れる音の下で、細く続く音がする。入り江の波より近い。
道の脇へ寄ると、低い方へ落ち込んだ地面が木々の間から見えた。朝も通っていた場所だが、背負った乃亜の足を枝に当てないよう、反対側ばかり見ていた。
「ちょっと下だね」
レイナが下りかけた斜面は、落ち葉の下が湿っていた。和真が足を置く場所を探していると、彼女は途中でやめて戻ってきた。
「ここ、滑る。もう少し横から行こう」
傾斜の緩いところへ回り、来た道を振り返りながら下りた。枝越しに、目印にした幹がまだ見えている。
小さな流れだった。
石の間を抜けた水が浅い窪みへ集まり、落ち葉を揺らして先へ流れている。和真は縁にしゃがみ、足元の土を崩さないよう手をついた。水の底に、小石の輪郭が透けていた。
「あるじゃん……」
すぐ横でレイナが屈んだ。和真も顔を洗いたくなったが、まず上流へ目を向けた。少し先で流れは曲がり、その向こうは草に隠れて見えなかった。
「飲むのは、まだやめておこう」
「うん。持って帰って沸かすんでしょ?」
「飲むなら、少なくとも沸かさないと。上に何があるかも見てないから、これで飲み水は大丈夫、とはまだ言えないけど」
レイナは流れの先へ顔を向けた。
「あっちまで見る?」
和真は時計を確かめた。水を汲んで道へ戻れば、伝えた時間に近くなる。
「今日はここまでにしよう。帰りに水を持って上れるかも見たい」
「そっか。明日の前に疲れ切っても困るしね」
レイナが立ち上がり、二人分の荷物を乾いたところへ寄せた。
石の間で水が細く落ちている場所を選び、和真は容器の口を差し入れた。浅いところへ沈めると底の泥を巻き上げそうだったので、流れ落ちる水が溜まるのを待つ。溢れた水が指を伝い、手の甲の汗を冷たく流した。
レイナへ渡す前に蓋を締め、水袋は満杯にせず持ち上げてみた。斜面を上がるには、このくらいにしておいた方がよさそうだった。
帰りは二人で重さを分けた。空身で下りた時には気にならなかった傾斜が、水を提げると脚に響く。レイナも急がず、道へ戻る手前で一度荷物を置いた。
「あの幹、こっちからだと二本に見えるね」
言われて振り返ると、途中で分かれた幹が、水場からは重なって見えていた。和真は立つ位置を変え、流れへ下りた場所をもう一度確かめた。
*
「水、あったよ」
テントが見えるところでレイナが声をかけた。和真は荷物を下ろしてから、帰りに拾った薪を焚き火台の脇へ置いた。
「近かったんですか?」
乃亜がノートを開く。和真は椅子へ座り、入り江へ向かう道から下りた場所を説明した。
「その木、道のどっち側ですか?」
「入り江へ向かって右。下りる時は、少しテント側から回った」
乃亜の描いた線を見て、レイナが分かれた幹の位置を指した。和真も覗き込み、滑った斜面と回り込んだ場所を確かめる。
「これなら、詩乃先輩にも説明できますね」
「最初は一緒に行こう。水を持つと、上りがちょっときついから」
「はい。流れの量も、次に行った時に見てもらえますか」
「今日と同じだけ流れてるか、だね。覚えておく」
詩乃が持ち帰った水を、手元のボトルから離して置いた。
「こちらが、もともと飲める水です。夕食と朝の分は、ここから使いますね」
「ありがとう。汲んできた方は、今日は洗う分にしようか」
「はい。温めれば、身体も拭けます」
和真はクッカーへ沢の水を注いだ。一度沸かしてから冷まし、使える温度にするには時間がかかる。拾ってきた薪から細い物を選び、火を起こした。
湯を待つ間に、自分の寝床も見直した。マットの下から小石を除き、土のついた寝袋を払う。昨日は暗い中で広げたので気づかなかったが、頭を置いていた辺りがわずかに低い。位置をずらして腰を下ろすと、朝よりは落ち着いて眠れそうだった。
「和真さん。タオルは、ご自分のがありますか?」
詩乃に聞かれて、バッグから取り出した。
「あります。三人の分は?」
「持ってきています。乃亜は座ったままできるように、私が手伝います」
乃亜の足を乗せた椅子から、濡らす物を置く場所を離した。洗った水は容器に受け、あとで水場へ戻らない、離れた地面へ捨てることにする。石鹸は使わず、まずは汗や土を落とせればよかった。
日が傾き始めた頃、和真は火から下ろしておいた湯の温度を確かめ、少しずつ容器へ分けた。
「先に使って。俺は薪を短くしてるから、終わったら呼んで」
テントの脇に湯を置き、荷物から少し離れた作業場所へ向かった。
枝を折っていると、テント側からレイナの声が聞こえた。
「あー、やっと顔洗えた」
「レイナさん、タオル取ってもらえますか」
「どれ?」
「バッグの上のです」
枝を膝の横へ積みながら、自分も首筋を指で擦った。指先に残ったざらつきが、さっきより気になった。
名前を呼ばれて戻ると、乃亜は座ったままタオルで頬を押さえていた。右足の固定は乾いたままで、足の下の布も濡れていない。隣のレイナは、濡れた生え際を拭いていた。
「全部洗うのは、さすがに無理だった」
「髪?」
「うん。でも、だいぶ違う」
「和真さんの分は、ここです」
詩乃が容器を示した。
「残った水を混ぜていませんから、そのまま使ってください。私たちは中で着替えますね」
「分かりました。ありがとう」
三人がテントへ入ってから、和真は袖を上げた。少量の湯で手の汚れを落とし、顔へ水を運ぶ。頬に触れた温かさに、思わず目を閉じた。
タオルを絞って首筋へ当てると、擦れ続けていた襟元がようやく楽になった。耳の後ろと髪の生え際まで拭き、腕にもタオルを滑らせる。二日以上まともに洗っていない身体には、これだけでも時間をかけたかった。
使った水を片づけ、自分も声をかけてから物陰でシャツを替えた。残り少ない着替えを使うことに迷いはあったが、乾いた布へ腕を通すと、汗の残る服へ戻る気にはなれなかった。
焚き火台の前へ戻ると、詩乃が夕食に使う食料を出していた。和真は湯を沸かしていたクッカーを洗い直し、彼女の手が届くところへ置いた。
「これ、使えます」
「ありがとうございます。火を少し足してもらえますか?」
拾ってきた薪を二本くべ、火ばさみで位置を直す。袖が腕に張りつかず、さっきまでより動かしやすい。
「お腹すいた。今日のご飯、何?」
レイナがテーブルを覗き込む。和真もそちらへ目を向け、ようやく昼から何も食べていなかったことを思い出した。
乃亜がノートを閉じて食器の場所を空ける。その隣には、確認を終えた水の容器が並び、船から持ち帰ったロープは予備のオールと一緒にまとめてあった。
誰がどれを持って海へ出るのかは、まだ決まっていない。
和真は防水ケースに戻してあった地図を取り出し、夕食の皿が並ぶ場所の端へ置いた。今度は、食事が終わるまでしまわずにおくつもりだった。




