第一章 煙の先に
木々の隙間から、海が見えていた。
百瀬和真はその青をしばらく眺めてから、背後のテントへ視線を戻した。昨夜まで泊まっていたキャンプ場から、海が見えるはずはない。
テントも寝袋も、焚き火台もある。昨夜使ったクッカーまで、記憶にある位置からほとんど動いていなかった。持ってきた荷物も一通り残っている。
違うのは、その周囲だった。
キャンプ場にあったはずの砂利道も案内板も見当たらず、代わりに広がっているのは見覚えのない森と土の斜面。その先から、波の音が絶えず聞こえてくる。
朝から周辺を歩き、自分の記憶違いではないか何度も確かめた。それでも知っている景色には出会えなかったし、保存していた地図にも現在地を特定できそうな目印はない。事故や移動の記憶もなく、目を覚ますまでに何があったのかは考えても分からなかった。
「……参ったな」
和真はスマートフォンを取り出した。
表示は圏外のまま。機内モードを切り替えても再起動しても変わらず、通信を使った現在地の確認もできない。
理由の分からない場所に一人でいる以上、不安はあった。考え始めれば、悪い想像はいくらでも浮かぶ。
だからこそ、今すぐ答えの出ないことより、先に確認できるものを整理した。
水と食料は数日分ある。テントも使えるし、野外で一晩過ごす準備には困らない。少なくとも今日中にどうにかなる状況ではない。
問題は、その先だった。
人のいる場所を探すか、通信できる場所まで移動するか。あるいは、現在地を知る手掛かりを見つける。今日どこまで動くべきか考えながら立ち上がった時、森の向こうに白いものが見えた。
海の方角から、細い煙が上がっている。
和真はその場でしばらく様子を見た。煙は風に崩されて一度消えたが、数分後には同じ場所からもう一度上がった。
自然に何かが燃え続けているようには見えない。
誰かがいる。
そう考えた瞬間、朝から胸の奥に残っていた重さが少しだけ軽くなった。誰かに場所を聞けるかもしれないし、この状況について知っている人がいる可能性もある。
だが、煙が三度目に上がるのを見て、その期待とは別の考えが浮かんだ。
普通に生活しているだけなら、同じ場所から何度も煙を上げる必要があるだろうか。
助けを求めているのかもしれない。
和真はテントへ戻り、バッグに救急用品と水を入れた。森を歩くことを考えてライトやロープ、行動食も加えるが、必要以上に荷物は増やさない。最後にキャンプ用のナイフを腰へ下げ、出発前に焚き火台の火を完全に消した。
戻るつもりではいる。それでも、煙の先に何があるか分からない状態で火を残していく気にはなれなかった。
もう一度、海側の方角を確認する。
白い煙はまだ見える。
和真はバッグを背負い、木々の間へ入った。
*
傾いた船体が波を受けるたび、足元から低い軋みが伝わってきた。
水城詩乃は金属製の容器の前にしゃがみ、弱くなった火へ湿った葉を重ねた。ほどなく白い煙が増え、海からの風に押されながら森の上へ流れていく。
これで何度目になるのかは、もう数えていなかった。
煙を見た船が近づいてくれるかもしれない。近くに誰かいれば気づくかもしれない。今の詩乃にできることは限られていた。
「詩乃先輩」
船の入口から声がする。
白瀬乃亜が壁に背を預け、右足を伸ばしたままこちらを見ていた。足首にはあり合わせの固定具が巻かれている。
「どうしたの?」
「煙、まだ大丈夫です?」
「今足したところ」
「詩乃先輩の方です。ずっと外にいるから」
「平気。暑くなったら戻る」
「さっきもそう言ってました」
「覚えてたのね」
「そりゃ覚えてますよ」
乃亜の返事に、詩乃はわずかに口元を緩めた。
次の波が船体へ当たり、船のどこかで金属が擦れる音がする。
その音を聞いた瞬間、数時間前の光景が鮮明に蘇った。
――数時間前。
朝の海は穏やかだった。
環凪島へ向かう船内で、乃亜は撮影した写真を確認し、レイナは窓の外を眺めていた。
最初の異常に気づいたのは詩乃だった。
「乃亜、これ」
「はい?」
航法画面の現在位置が、一瞬だけ大きくずれた。
乃亜が隣へ来た頃には元へ戻っている。
「今、表示が飛ばなかった?」
「見てなかったです。もう一回出ますかね」
「出ない方がいいんだけど」
一時的な測位の乱れかと思った。
ところが数分後、今度は現在位置の表示そのものが消えた。
「位置情報、なくなってません?」
「なくなってる。再取得もしてるけど反応がない」
詩乃が操作を確認していると、窓際にいたレイナが振り返った。
「ねえ。エンジンの音、変じゃない?」
言われて耳を澄ませると、一定だった振動に不規則な揺れが混じっていた。低く沈んだかと思えば元へ戻り、また不安定になる。
「速度、落とした方がよくない?」
「そうね。一度、島から離れた方がいい」
調査は後からでもできる。異常がある状態で岸へ近づく理由はない。
進路を沖側へ戻そうとしたところで、今度は舵の反応が鈍くなった。
「……反応遅くない?」
レイナも船首を見ている。
遅れて向きは変わるが、明らかに足りない。出力を落としてもエンジン音は安定せず、船体は思うように進路を変えなかった。
「右、岩ある!」
レイナの声が飛ぶ。
窓越しに見えた岩礁は、想定していたより近い。
詩乃が回避しようとした直後、エンジン音が一気に落ちた。
「掴まって!」
船体が大きく跳ねた。
鈍い衝撃が船内を走り、棚からケースが滑り落ちる。詩乃は壁へ肩をぶつけながら取っ手を掴み、レイナも手すりにしがみついた。
「乃亜!」
「いたっ……!」
床の向こうから声がした。
倒れたケースの脇で、乃亜が右足を押さえている。
「動かないで。頭は?」
「打ってないです。たぶん」
「レイナは?」
「あたしは平気。乃亜どう?」
「足を捻ったみたい」
足首はすでに腫れ始めていた。目立つ出血はなかったが、立てて確認する気にはなれない。
詩乃が乃亜の足をできる範囲で固定している間に、レイナは散らばった荷物をどけ、船外の状態を確認した。
船体は岩礁へ乗り上げていた。
自力で離礁できる状態には見えない。
さらに通信を試すと、船の機器には外部からの応答がなく、三人の携帯電話もすべて圏外だった。
「ここだけ電波ないとかじゃない?」
レイナが携帯を持ち上げる。
「島の陰になってるとか」
「可能性はあるけど……」
詩乃は入り江を囲む森と、その奥の斜面を見た。
同じ方向を見ていたレイナが言う。
「高いところまで行けば繋がるかもしれない。ちょっと上まで行ってみる」
「待って。地形も分からないのに一人は危ないでしょう」
「詩乃が行ったら乃亜一人じゃん」
そこを言われると弱かった。
「ボクは待てます」
「乃亜」
「詩乃先輩がここにいてくれた方が安心です」
「ほら」
レイナは水と携帯電話を用意した。
「遠くまで行かない。高いところ探して、繋がらなかったら戻る」
「どのくらい?」
「一時間。遅くてもそれくらいには戻る」
「無理だと思ったら、その前に戻って」
「分かってるって」
森へ入る直前、レイナは一度だけ振り返った。
「すぐ戻るから」
その姿が木々の間へ消えていった。
――それが、もう二時間以上前のことだった。
詩乃は森へ目を戻した。
腕時計を見るまでもなく、約束した時間が過ぎていることは分かっていた。
「詩乃先輩」
乃亜に呼ばれ、振り返る。
「また森見てました」
「見てた」
「探しに行きたいですよね」
詩乃は答える代わりに、乃亜の右足を見た。
「ボク、一人でも――」
「それはなし」
「まだ最後まで言ってないです」
「何かあった時に動けないでしょう」
乃亜は口を閉じた。
レイナが迷っただけならいい。だが、予定時間を一時間以上過ぎている。
その時、森の枝が動いた。
風とは違う。木々の間を、何かがこちらへ近づいてくる。
「……乃亜」
「はい?」
「人が来た」
「え?」
森から、一人の男が姿を現した。
煙に気づいた誰かが来た。その事実に一瞬だけ安堵したものの、近づいてくるのが救助隊ではないと分かるまでに時間はかからなかった。
背中にバッグを負った若い男性が一人。その腰には、遠目にも刃物と分かるものが下がっている。
「救助……ですか?」
「分からない」
詩乃は乃亜より前へ出た。
男はこちらに気づくと歩調を緩める。
「大丈夫ですか! 煙が見えたので来ました」
声に威圧するような響きはない。
それでも距離が縮まるにつれ、詩乃は男の手元と腰のナイフから目を離せなくなった。
「――そこで止まってください」
男はすぐに足を止めた。
「分かりました」
両手を見える位置へ下ろし、それ以上近づいてこない。
「……怪しい者じゃありません。あそこの高台から煙が上がってるのが見えたんです」
「お一人ですか?」
「はい」
「どこから来たんですか?」
「それが……ちょっと説明しづらくて」
返答ははっきりしない。
詩乃が腰元へ視線を落とすと、男も気づいたらしい。
「これはキャンプ用です。気になるなら、ここに置きます」
自分からナイフを外し、足元の見える場所へ置いた。
その時、船の入口で乃亜が体勢を変えた。
「いたっ」
男の視線がそちらへ向く。
乃亜の右足を見て、すぐ詩乃へ戻った。
「その子、怪我してますよね」
「……はい」
「応急処置の道具を持っています。よかったら、見せてもらえませんか。ここでバッグの中を出してもいいです」
詩乃は乃亜を見る。
乃亜も男を見返したあと、小さく頷いた。
「……お願いしてもいいですか」
詩乃も決めた。
「お願いします。ただ、ゆっくり来てもらえますか」
「もちろん」
男は置いたナイフから離れ、詩乃が道を空けるまで待ってから近づいてきた。
「百瀬和真です」
「水城詩乃です」
「白瀬乃亜です」
乃亜が名乗ったあと、少し迷うように続ける。
「……こんにちは、でいいんでしょうか」
和真が少しだけ目を丸くした。
「俺も今それ考えてた」
「ですよね」
「たぶん、こんにちはで大丈夫だと思う」
「たぶんなんですね」
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
和真は乃亜の手前でしゃがむ。
「足、見てもいい?」
「お願いします」
「痛かったらすぐ言って」
巻かれている固定をいきなり外さず、腫れと痛む位置を確認していく。足先が動くか、痺れがないかも乃亜に聞いた。
「さっき歩いた?」
「立てるか試したんですけど、痛くて」
「じゃあ、もう試さなくていいよ」
和真はそこで触れるのをやめた。
「俺、医者じゃないから大丈夫とは言えない。ただ、今は無理に歩かない方がいいと思う」
「……やっぱり、そうですよね」
「必要なら移動する方法を考えよう。ここで悪化させる方が困るから」
乃亜が頷く。
和真は持ってきた救急用品を出した。
「固定し直してもいい?」
「お願いします」
「私も支えます」
詩乃が横へ入る。
「助かります」
二人で乃亜の足を動かさないよう支え、固定を整え直した。和真は締めつけが強くないかを何度か乃亜へ確認し、船内の資料やケースには必要以上に手を触れなかった。
処置を終えると、乃亜が足先を少し動かす。
「さっきより安定してる感じがします」
「よかった。でも歩くのはまだなし」
「はい」
「ありがとうございました」
詩乃が礼を言うと、和真は使った物をバッグへ戻し始めた。
「こういうの、慣れてるんですか?」
乃亜が尋ねる。
「そこまでじゃないよ。キャンプするから最低限くらい」
「キャンプ?」
詩乃が聞き返した。
「この島でですか?」
和真は一度言葉を止めた。
「……そこなんですよね」
「どういうことですか?」
「俺も、ここがどこなのか分かってないんです」
乃亜と詩乃の視線が同時に和真へ向いた。
「昨日までは別のキャンプ場にいたつもりでした。テントも道具もそのままなのに、朝になったら周りだけ知らない場所になってて。携帯も圏外です」
「ここは環凪島です」
「環凪島……」
和真は初めて聞く名前を確かめるように繰り返した。
「本当に、ご存じないんですか?」
「知りません」
助けを求めて出した煙を見つけた人物が、自分も現在地を知らない。
簡単に納得できる話ではなかった。
「すみません。今のお話を、すぐに信じられるとは言えません」
「それでいいです」
予想していなかった返答に、詩乃は和真を見る。
「俺も逆なら疑うと思うので」
それ以上、信用を求めてくる様子はなかった。
船が波を受けて揺れ、詩乃は森の方へ目をやった。
「……もう一人いますよね?」
和真が言った。
「どうして分かったんですか?」
「二人とも、何度か森を見てたから」
乃亜も同じことをしていたらしい。
「神崎レイナという子がいます。私たちは大学の調査で三人でここまで来ました。船が座礁したあと、通信が使えなくなって……高い場所なら携帯が繋がるかもしれないと、レイナが森へ入ったんです」
「いつ?」
「二時間以上前です。一時間くらいで戻ると言っていました」
「レイナさん、体力はあるんです」
乃亜が続ける。
「ボクたちの中では一番です。だから、こんなに戻らないのが変で」
「迷った可能性は?」
「あります。森へ入るのは初めてですから」
「詩乃さんは?」
「乃亜を一人にできませんでした」
和真は乃亜の足を一度見てから立ち上がった。
「レイナさんが入った場所、分かりますか?」
「分かります」
「俺が見てきます」
詩乃はすぐに首を振った。
「和真さんも、この島を知らないんですよね?」
「はい」
「それなら危険です」
「そうですね。だから奥まで無茶に入るつもりはありません。人が通った跡が残ってるか確認して、追えなくなったら戻ります。危ないと思っても引き返します」
「でも、私たちとは今日会ったばかりです」
頼りたい気持ちはあった。それでも、今しがた出会った人を自分たちの事情で森へ送り出すことには抵抗がある。
「和真さんまで危険な目に遭う必要はありません」
「詩乃さんが行ったら、乃亜さんが一人になります」
詩乃は返す言葉を失った。
「乃亜さんは今、歩かせない方がいい。二人でここにいてくれた方が、俺も探しやすいです」
「詩乃先輩」
乃亜が呼ぶ。
「ボクは大丈夫です。一人で待つって意味じゃないですよ。詩乃先輩はここにいてください」
そして和真を見る。
「……お願いします。レイナさんを探してもらえませんか?」
詩乃は少し迷ってから頷いた。
「分かりました。森の入口まで案内します」
乃亜を船の入口付近に残し、詩乃だけが和真と入り江の端まで進んだ。
砂地から落ち葉の積もった地面へ変わる境目に、朝の靴跡がまだ残っている。
「ここです。高い場所を探すと言っていたので、斜面を上る方向へ進んだと思います」
和真はしゃがみ、靴跡と周囲の草を確認した。
「今のところは追えそうです」
「服は動きやすい格好で、私たちより背が高いです。水と携帯電話を持っています」
「分かりました」
和真はバッグを背負い直し、森へ向く。
「じゃあ行ってきます」
「和真さん」
振り返った。
「無理はしないでください」
「分かってます」
「本当にです」
詩乃が重ねると、和真の口元が少し緩んだ。
「分かりました。危なかったら戻ります」
「……お願いします」
船の方から乃亜の声が届く。
「和真さん!」
二人が振り返る。
「気をつけてください!」
和真は片手を上げて応え、そのまま靴跡を追って木々の間へ入っていった。
背中が緑の向こうへ隠れるまで見届けてから、詩乃は船へ戻った。
「大丈夫でしょうか」
乃亜が聞く。
「分からない」
今は、それ以上のことは言えなかった。
発煙用の容器を見ると、煙がまた細くなっている。
詩乃は火が消えないよう湿った葉を足し、もう一度森へ目を向けた。




