第十六章 海を見下ろす温泉
目を覚ました和真は、肩のすぐ脇にある髪を見て、起こしかけた身体を止めた。
美波が横向きに丸まって眠っていた。両手を頬の近くへ寄せ、曲げた膝で寝袋を押し広げている。昨夜、二人の間には床板が見えていたはずだった。その隙間を越え、今は美波の額が和真の肩に触れそうなところにある。
和真は反対側へ肘をついた。床に置いた手のひらが冷たい。寝袋の擦れる音に美波の眉が動き、やがて薄く目が開いた。
「……おはよう」
「おはよう」
美波はそのまま和真を見ていたが、顔を少し離すと、自分の下にある寝袋へ手を置いた。指で縫い目をたどり、空いたままの自分の枕を見る。
「ごめん。こっち来てた?」
「起きたら、そこにいた」
美波は肘で身体を支え、自分の寝床へ戻った。引きずった寝袋の端が和真の膝に引っかかり、それを外す時だけ顔を伏せた。
「寒かった?」
「ううん。そうじゃなくて」
枕を引き寄せた美波は、まだ眠そうな声で続けた。
「なんか安心するから」
和真が返事を探している間に、美波は寝袋の中で足を伸ばした。
「寝てる時のことだから、よく分かんないけど」
「まあ、よく眠れたなら」
「うん。すごく」
隣で寝具が大きく動いた。レイナが腕を伸ばし、半分起きた姿勢のまま窓を見ている。
「もう朝?」
「まだ早いと思う」
「そっか……」
そう言いながらも、レイナは起き上がった。部屋の奥では理央が顔の上へ腕を載せ、こちらに背を向け直している。和真はその足元を避けて立った。
膝を伸ばしても、すぐ上に布の天井はなかった。腰を反らすと、昨日まで荷物を担いでいた背中に鈍い張りが残っていたが、身体の芯に沈んでいた重さは薄れている。夜中に何度も姿勢を変え、硬い地面から逃れる場所を探した覚えもない。
廊下へ出ると、食器の触れ合う音が聞こえた。
洗面所で顔を洗い、濡れた手で髪を押さえる。蛇口を閉じたあとも、台所からは水音が続いていた。自分が使い終わるのを待たず、別の誰かが朝の仕事をしている。その音を聞きながら、和真は顔を拭いた。
ダイニングに入ると、詩乃が鍋をかき混ぜていた。手元から湯気が上がり、温めたスープの匂いがする。
「おはようございます。そこの器、取ってもらえますか」
指された箱から器を取り出す。テーブルへ運ぼうとすると、先に座っていた乃亜が両手を伸ばした。
「こっちに重ねて。ボクが並べる」
右足は椅子の下へ引き込まず、少し前に出していた。和真が器を渡すと、乃亜は身体を傾けて奥の席へ置こうとする。
「向こうは俺がやるよ」
「じゃあ、この三つ」
器を受け取って回り込むうちに、廊下からリリスが現れた。和真の手元を見ると棚へ引き返し、スプーンを持ってくる。昨夜は箱を開くたびに中身を尋ねていたのに、今日はそれがどこに入っているか分かっているらしい。
最後の一つを置いたところで、美波とレイナが入ってきた。理央は少し遅れて席につき、差し出されたスープを両手で受け取った。
和真も腰を下ろした。器を膝に載せずに済むので、片手を離してパンをちぎれる。誰かが椅子を引いても、汁がこぼれないよう身構える必要がなかった。
「そっち、まだある?」
レイナに聞かれ、和真はパンの袋を渡した。空になった袋を畳もうとして、開いた入口の向こうに目が留まる。
昨日まで往復した道は、広場から斜面を下っていく。その脇には、まだ誰も歩いていない木立が続いていた。朝日を受けた枝の下に、奥へ通れそうな隙間がある。
「西側って、ここからはまだ行ってないよな」
レイナがパンをくわえたまま振り返った。飲み込んでから、入口の方へ顎を向ける。
「そっちなら沢の上に出るかも。前に歩いたの、もっと下だったし」
和真は広場の端から先の傾きを思い浮かべた。港へ下りる時には背を向けていた方向だ。寝起きする場所がここになったのに、すぐ裏手がどうなっているかも知らない。
「食べ終わったら、少し歩いてみないか」
「ボクも行く」
乃亜がスプーンを置いた。
「足は?」
「平らなところは平気。下りは、ゆっくりになるけど」
「急なところが続くようなら、途中で戻ろう」
「うん。それなら行ける」
詩乃が鍋の底に残ったスープをよそい、乃亜の器へ足した。
「お昼の分も包んでおきます。歩きながら食べられるものにしますね」
「そこまで遠くへ行くつもりはないけど」
「近くても、お昼にはなりますから」
空の器を返そうとしていた和真は、そのまま受け皿を差し出した。
食後、食器を拭いて棚へ戻す頃には、テーブルに水のボトルと食べ物の包みが置かれていた。和真は自分の荷物にそれを分け入れ、タオルと小さな灯りも加えた。帰るのが遅くなるつもりはなくても、森の中では日が落ちる前に足元が暗くなる。
靴を履いた乃亜が、戸口の段差を下りていた。左足に体重を残して右足を置く。その一歩を見て、和真は荷物の肩紐を短く締め直した。
*
広場を離れると、靴の下がすぐに柔らかくなった。
積もった葉を踏むたび、湿った土の匂いが上がる。第一号棟の壁は枝の間からしばらく見えていたが、緩い斜面を回ると隠れた。和真はそこで一度振り返り、戻る時に目印になりそうな二股の幹を見ておいた。
先に進んでいたレイナが、太い根をまたいだところで足を止めた。
「こっちは下が急だな。横から行こう」
和真も根の向こうをのぞいた。枯れ葉の下で土が落ち込み、その先は細い枝に遮られている。脇へ回れば距離は増えるが、木の間を緩く下れそうだった。
美波が足先で葉をよけた。
「この根、乗ると滑る。土のところ踏んで」
和真はその横に立ち、乃亜へ手を出した。乃亜は手首をつかむと、左足から一段下りた。右足が土につくまで待ち、支えていた手を離す。
「ここを戻るんだよね」
「ああ。帰りは上りになる」
「じゃあ、この木も撮っておく」
乃亜がカメラを構える間、和真は前のレイナへ待つよう声をかけた。葉擦れが静まり、その隙間から細い水音が聞こえた。
レイナも顔を上げた。
「聞こえる。あっち」
沢に近づくにつれ、木の根元に露出した石が増えた。和真は木々の間に流れを見つけ、その向こうの斜面を見て足を止める。
「ここか」
以前は下流側から来た。水面のすぐ上まで枝が張り出し、その下で流れが二つに分かれている。上から見ると違う場所に思えたが、石の間を抜ける水の形には覚えがあった。
「前は、あそこに下りたよな」
「うん。こっちまで上がらなかった」
レイナが指した先を見て、和真にも位置がつながった。あの時、目で追っていたのは水の流れと、足を置ける石ばかりだった。今立っている斜面は、下からでは枝に隠れていたはずだ。
流れの手前を歩いていると、靴の下で小石が転がった。
その行き先に、灰色の平らな面があった。
和真は足を引いた。土の崩れた斜面から、何かの角が露出している。大きな石にも見えたが、表面を横切る線が真っすぐすぎた。細い根がその線に沿って這い、先の方は土の中へ入り込んでいる。
「これ、岩じゃないよな」
呼びかけると、理央が隣へ来た。すぐには近寄らず、少し横へずれて露出した面を見ている。
「継ぎ目がある。上も見える?」
和真は立ったまま首を伸ばした。土と落ち葉が厚く載っていて、上端は分からない。見えているのは横長の一面と、その端で折れる短い面だけだった。
美波がしゃがみ、斜面の下側を指した。
「下、浮いてるところがあるよ。ここから土を取ると落ちるかも」
和真の靴先から、小さな土の粒がこぼれた。乾いた表面の下は黒く湿っている。足を置いている場所まで緩んでいるようで、和真は一歩退いた。
「今日は触らないでおこう。上にどれだけ載ってるかも分からない」
理央はすぐにノートを開かなかった。露出した角の前で、片手を伸ばしかけてから止める。触れずに形をなぞるように、指先を空中で動かした。
「見えている部分だけでも、幅は和真さんの肩よりある。沢が削ったなら、下の方にも続いているかもしれない」
「でも、今は近寄れない」
「ええ。写真と位置だけ残す」
乃亜が安定した木の根元に立ち、沢と露出面が一緒に入る角度でカメラを構えた。
「ここからなら、近づかなくても撮れる。和真さん、そこにいてもらっていい?」
「この辺?」
「うん。大きさが分かるから」
シャッターの音を聞きながら、和真は足元から灰色の角までの距離を見た。土に埋まった部分がどこまで続くのか、ここからは見当もつかない。
隣にいたリリスへ顔を向ける。
「何か分かる?」
「この形だけでは、分かりません」
リリスは露出した角から、その上に張った根へ目を移した。
和真も同じ根をたどった。幹へつながる途中で、土の中へ潜っている。人が作ったものに木が根を張り、そのすぐ横では今も水が流れていた。第一号棟からそれほど離れていないのに、足元に何があるかさえ分からない。
撮り終えた乃亜が、画面を理央へ見せた。
「沢の曲がるところも入った。帰ってから見ても、場所は分かると思う」
和真は水を飲みながら、来た斜面を見上げた。引き返す道はまだはっきりしている。時刻も昼には早かった。
「もう少し西へ行けそうか?」
レイナが沢と反対側の木立をのぞいた。
「あっち、下草が薄い。上がったら平らになってると思う」
乃亜もカメラをしまい、肩紐を掛け直した。
「ボクは大丈夫。今のところ、痛くなってない」
和真はボトルを荷物へ戻した。斜面の際から離れ、レイナの後を追う。沢の音が遠くなっても、土の中へ続く灰色の面がしばらく頭に残った。
*
森を抜ける手前で、頬に当たる風が変わった。
木の葉と湿った土の匂いに、潮の匂いが混じっている。和真は枝を手でよけ、前を見た。木立の間が白く明るい。
「海だ」
レイナの声がした。
その横へ出ると、視界が一気に広がった。眼下には木々に覆われた斜面が落ち、先に海が続いている。入江から見ていた時より水平線が遠く、海岸沿いの岩の並びまで見渡せた。
和真は足を止めたまま眺め、それから数歩先にある石の縁に気づいた。
地面に埋め込まれたように、低い岩が弧を描いている。内側に水があった。海を映しているのかと思ったが、水面の上を白いものが流れ、風にほどけて消えた。
湯気だった。
和真は近づき、岩の手前でしゃがんだ。顔に湿った温かさが触れる。手を水面の上へかざし、指先だけを入れると、歩いている間に冷えた爪の際まで熱が届いた。
「……温かい」
「温泉?」
すぐ後ろでレイナが聞いた。
「たぶん。少なくとも、お湯だ」
指を沈め直し、今度は手のひらまで入れた。熱くて引っ込めるほどではない。水は澄んでいて、底に敷かれた石の継ぎ目が見えた。
自然に水がたまった場所ではなかった。縁の岩は高さをそろえて据えられ、手前には足を下ろせる段がある。奥の岩の隙間から細い流れが入り、反対側の低いところから絶えずあふれていた。
和真は周囲を見た。
森を背にして、小さな建物が一棟立っている。板壁は色が抜け、軒の端には長く風にさらされたような筋があった。その古びた壁に比べ、入口へ続く石の上は妙にすっきりしている。落ち葉は数枚あるだけで、戸口を塞ぐ枝もない。
美波が岩の縁へ手を置いた。
「ここ、継いである。全部運んできたんだ」
和真の足元にも、形を合わせた石が並んでいた。岩の水際には白っぽい跡が幾重にも残っているのに、欠けて湯が漏れ出しているところは見当たらなかった。古びた小屋と違って、岩風呂の周りには、長く放っておかれた場所に積もるはずの枝や土がない。
「リリス、ここは?」
「私も、見覚えがありません」
和真はもう一度湯へ手を入れた。分からないと聞かされても、指を包む温度は変わらなかった。
レイナがその隣でしゃがみ、水面をのぞき込んだ。
「これ、入れるかな」
和真も同じことを考えていた。岩に囲まれた湯の向こうには海が広がっている。腰を下ろせば、縁より上に水平線が見える高さだった。
「足元と、小屋を見てからにしよう」
小屋の戸は、軽く引くだけで開いた。
和真は外から声をかけ、返事を待った。中には誰もいない。開いた戸から光を入れると、板張りの床と、壁沿いの棚が見えた。奥には腰掛けがあり、壁の高い位置に細い窓が開いている。
入口に手を掛けて一歩入ったが、床は沈まなかった。木の乾いた匂いがする。棚には何も置かれておらず、隅にも枯れ葉は積もっていない。
「着替えるところみたいだな」
和真が外へ戻ると、美波が戸を閉じたり開いたりしていた。内側の掛け金を動かし、窓の高さを見上げる。
「戸は閉まる。こっちから中は見えないよ」
湯へ続く短い通路は、小屋の壁と背の高い岩に挟まれていた。森側から回り込んでも、すぐには水面が見えない。海側は斜面になっていて、人の通れそうな道はなかった。
和真は濡れた石へ靴底を載せ、ゆっくり体重を移した。ざらついているところもあれば、滑りそうなところもある。
「ここは気をつけた方がいい。特に出る時」
乃亜が少し離れた場所から、湯へ下りる段を見た。
「端に座ってからなら入れそう」
「私が横にいるよ」
レイナの言葉に、乃亜が笑った。
「うん。お願い」
和真も笑いかけ、岩に置いていた手を離した。乃亜は自分の足で来て、もう湯へ入る順番を考えている。
詩乃が荷物からタオルを取り出した。
「皆、タオルはありますか。小さいものでも」
和真は自分の荷物を開いた。汗を拭くために入れたタオルが一枚ある。レイナも肩に掛けていたものを持ち上げ、美波は荷物の底から畳んだ布を出した。
「着替えはないけど。浸かるだけなら」
「帰ったら、ちゃんと着替えればいいか」
レイナが言い、濡れていない岩の上へ荷物を置いた。
和真は腕時計を見た。まだ昼を少し回ったところだった。ここから先へ進まなければ、帰りの時間を残して休める。
「先に昼にしよう。食べて、少し休んでから」
「賛成。私、もうお腹空いた」
詩乃が和真を見て、食べ物の入った荷物へ手を伸ばした。和真は朝のやり取りを思い出し、何も言わずに包みを渡した。
*
小屋の脇には、腰を下ろせるほど平らな石が続いていた。
和真は荷物を置き、その横へ座った。靴紐を緩めると、歩いている間は気にならなかった足の甲がじわりと広がる。受け取ったパンをかじりながら、海の上を動く小さな白い点を眺めた。鳥らしい。翼を動かすたびに光り、少し経つと見失った。
「何かいた?」
乃亜に聞かれ、和真は沖を指した。
「鳥だと思う。今、見えなくなった」
乃亜はカメラへ手を掛けたが、すぐには持ち上げなかった。パンを包み紙の上へ置き、同じ方角を眺めている。
「あ、いた」
その声で和真にも見つかった。さっきよりずっと低いところを飛んでいた。
カメラの小さな作動音がして、乃亜が画面を見せてくる。青い海の端に、白い点が一つだけ写っていた。
「小さいな」
「うん。でも、いた場所は残せた」
和真は画面から顔を上げた。鳥はまた見えなくなっていたが、今度は探し続けずにパンの残りを口へ運んだ。
食べ終えてからも、誰もすぐには立たなかった。石に預けた手が温まっている。森の中を歩く時は次の足場ばかり見ていたので、目の前に何も遮るものがないと、どこまで見ていればいいのか分からなくなる。
理央がノートを閉じる音で、和真はそちらを見た。
「記録、終わった?」
「今見えるものは。湯がどこから来るかは、ここからでは分からないわ」
理央は閉じたノートを荷物に入れ、留め具を掛けた。
「入るなら、乾いたところに置いておかないと」
和真も食べ物の包みを片づけた。
湯船は一つだったので、女性たちが先に使うことになった。和真は森側へ少し戻り、小屋の陰になる場所に座った。ここからでは岩風呂も通路も見えない。着替え終わったら呼んでもらうことにして、背中を木の幹へ預けた。
*
理央は湯の縁へ腰を下ろし、足先からゆっくり沈めた。
柔らかい熱が、足首を越えてふくらはぎへ上がってくる。石の段は濡れていたが、さっき和真が言った通り、表面には細かなざらつきが残っていた。足を置けば滑りにくい。湯に隠れた底も急には深くなっていない。
「熱くない?」
隣でレイナが聞いた。
「最初は少し。でも、入れないほどではないわ」
「じゃあ、行く」
レイナは手をついて段を下り、膝まで入ったところで肩をすぼめた。次の瞬間には顔が緩む。
「うわ……すごい。歩いたあとだと、全然違う」
理央は自分の周りの水面を見た。岩の隙間から入る湯は、底に落ち葉を溜めず、反対側の低い縁から流れ出している。小屋と同じように古いものだとしても、これは雨水をためただけの場所ではない。
美波が岩の縁を握り、片足を湯へ入れた。
「底、ちゃんとしてる。足を置くところもある」
「美波、ゆっくりね」
詩乃の声に、美波は振り返らず手を振った。
「分かってる」
湯へ身体を沈めた美波が、首まで浸からないよう岩に背を預ける。表情までは見えなかったが、肩から伝わっていた力が抜けたのは理央にも分かった。
「これ、毎日入れるなら、洗濯も少し楽になるかな」
「洗濯は、まだ考えなくていいんじゃない?」
レイナが湯を手ですくい、腕へ流しながら言った。
「今日は、ただ入ってればいいよ」
「でも、考える」
美波は湯の向こうに見える海へ顔を向けた。
「使える場所なら、使い方を決めないと危ないし」
その言葉に理央も岩風呂の端を見た。自分たちだけなら段差も深さも覚えられる。けれど、乃亜の足が回復途中であることを考えれば、手すりがない場所を毎日使うには工夫がいる。
「足元の印はあった方がいいかもしれない。濡れた石と、乾いた石の境目も」
「木で目印を作る?」
美波が聞く。
「まずは、置けるか見てから。勝手に打ち込むと岩が割れるかもしれない」
「理央らしい」
レイナが笑った。
理央は返さず、縁に指先を触れた。石と石の間は、目で追わなければ分からないほどぴたりと合っている。ここを作った者が誰かは分からない。けれど、島の沢で見た灰色の面と違い、ここには人が使うための形が残っていた。
小屋から、乃亜とリリスが出てきた。
「ボクも、入る」
「私も」
乃亜は段の上へしゃがみ、先に足を湯へ浸けた。レイナがすぐ隣へ寄り、岩に手を置く場所を示す。
「ここ持って。右足は、最後でいいから」
「うん」
乃亜は左足で段を下り、それから右足をそっと湯へ入れた。水面が大きく揺れ、理央の膝へぬるい波が当たる。
「どう?」
詩乃が聞くと、乃亜は両手で水をすくった。
「痛くない。温かいから、少し楽」
詩乃もその横へ入り、乃亜の手元に近い場所へ座った。リリスは最後まで段の上に残り、湯気の上へ手をかざしている。
「温度が保たれています」
「うん。理由は分からないけどね」
理央が言うと、リリスは湯の流れへ目を向けた。
「第一号棟と同じです。使用できる状態にあります」
それ以上は続かなかった。理央も尋ねなかった。答えが出ないことを、今この場で並べても湯の温度は変わらない。
リリスが湯へ入ると、六人が岩風呂の中に収まった。狭いと感じるほどではないが、誰かが足を伸ばすと位置をずらす必要はある。理央は少し横へ寄り、美波が空いた場所へ腰を下ろした。
「第一号棟にお風呂もあったのに、こっちまで来て入るんだね」
乃亜が海の方を見ながら言った。
「あっちは屋内だろ」
レイナが岩の縁へ腕を置いた。
「ここは、外だし」
「それだけ?」
「それだけで十分じゃない?」
レイナは空を見上げた。雲がゆっくり流れている。その下で、湯気が風に押されて海の方へ薄く伸びた。
詩乃が髪の先を濡らさないよう、首の後ろへ手を添えた。
「帰り道もあります。長く入りすぎないでくださいね」
「詩乃も出る時に声かけて」
「分かりました」
美波が湯の中で膝を抱えた。
「帰ったら、今日見つけた場所を地図に書く?」
「うん。沢のところも、温泉も」
乃亜が答える。
「温泉には、何て書こう」
「そのままでいいだろ。温泉」
レイナが言うと、乃亜は小さく笑った。
「分かりやすいね」
理央は聞きながら、肩まで湯に沈んだ。歩いている間に固まっていた背中が、少しずつほどけていく。何かを調べるために見つけた場所ではない。使えるかどうかを判断するために、最初に入ったはずだった。
けれど、湯に浸かったまま海を見ていると、今すぐ結論を出す必要があることが不思議なくらい少なかった。
*
「和真さん」
詩乃の声がして、和真は顔を上げた。
木にもたれている間に、少し眠っていたらしい。靴の先を照らしていた枝の影が、さっきより横へ伸びている。
「もう出ましたよ。和真さんもどうぞ」
立ち上がると、小屋の前に六人がそろっていた。詩乃は濡れた髪の先をタオルで挟み、乃亜は腰掛けに座って靴を履いている。美波に水のボトルを渡された和真の横を、レイナが通った。
「奥の海側、座るとちょうどいいぞ」
「熱くなかった?」
「私は平気。理央は途中で上がってたけど」
「長く入りすぎないようにしただけよ」
理央がタオルを畳みながら言った。リリスも小屋から自分の荷物を運び出し、和真の前で足を止める。
「主も、お入りください」
「ああ。行ってくる」
小屋へ入ると、床の一部にまだ濡れた足跡が残っていた。和真はそこを避けて服を脱ぎ、棚へ畳んで置いた。靴下を抜いた足裏に板の感触が直接伝わる。肩紐も靴もない身体は頼りないほど軽く、戸を開ける前に、服の上へ置いたタオルを取り直した。
外へ出ると、肌に触れる風がひやりとした。
岩の手前へ腰を下ろし、浅いところから手で湯をすくった。足先、膝、腕へ少しずつかける。手を入れた時より熱く感じたが、二度、三度と繰り返すうちに、風の当たる背中の方が気になり始めた。
段へ足を置き、岩を支えに身体を下ろす。
湯が腰を包んだところで、和真は動きを止めた。足を置ける場所を探し、ゆっくり膝を曲げる。腹から胸へ温かさが上がり、最後に肩まで沈んだ。
「……ああ」
声が勝手に出た。
誰に向けたものでもなかった。聞かれていないのが少しありがたく、和真は岩の縁へ置いた腕を湯の中へ戻した。
荷物を担いだ肩の辺りが、初めはじんじんした。首を片側へ傾けると張りがあり、すぐには楽にならない。何度か姿勢を変え、背中を預けられる窪みを見つけてから、ようやく足を伸ばせた。
湯の中で踵が軽く浮く。
昨日までなら、座る時にも何かを避けていた。湿った地面や細かい砂、足元に置いた荷物。今は身体をずらしても湯が揺れるだけで、手をついて支え続ける必要がない。
和真は両手を開いた。水の抵抗に任せて指を動かすと、手のひらに残っていた荷物の持ち手の感触が薄れていった。
正面に海があった。
立って見ていた時より、ずっと近く感じる。岩の縁に下の景色が隠れ、湯の向こうへそのまま青が続いていた。水平線をたどるために首を動かしても、端まで見渡すことができない。
あの海を渡って戻ってきたのは、三日前だった。
和真は少しだけ身体を起こし、岸沿いへ目をやった。ここから船は見えない。見えないものを探し始めた自分に気づき、また背中を岩へ預けた。
湯の流れる音が耳の近くにあった。小屋の向こうでは、誰かがボトルを倒し、拾い上げたらしい。レイナの声に美波が返し、それきりまた静かになった。
和真は目を閉じた。
すぐに何かを思い出して立ち上がるつもりだった。次に何を運ぶのか、どこを見に行くのか。けれど、浮かびかけたものはまとまらず、肩に触れる湯の方がはっきりしていた。
少しして目を開けると、海は同じ場所にあった。
和真は片腕を縁へ載せ、今度は何も探さずに眺めた。
*
湯を出て服を着ると、袖に腕を通すだけで肌が熱を返した。
小屋の外では、乃亜が足を投げ出して座っていた。和真の姿を見ると、隣に置いていた荷物を少し寄せる。
「どうだった?」
「気持ちよかった。思ったより、ずっと」
「ボクも。足を入れた時、出たくなくなった」
和真は空いたところに座り、渡された水を飲んだ。冷たさが喉を通り、胸の辺りまで落ちてくる。ボトルを下ろすと、乃亜が海を見たまま右足首をそっと動かしていた。
「帰り、急がなくていいから」
「うん。でも、今は歩けそう」
和真は靴紐を結び直した。きつく締めようとして、少し緩める。さっきまでと同じ靴なのに、足を収めた時の窮屈さが違っていた。
詩乃が小屋の戸口から顔を出した。
「和真さん、タオルを忘れていませんか」
「あ、タオル」
棚の端に置いたままだった。取りに戻る和真を見て、レイナが笑った。
「珍しいな」
「ちょっと、ぼうっとしてた」
「いいんじゃない。今日は」
和真はタオルを手に外へ出た。六人はもう荷物を持っていたが、レイナは出発せず、海側の岩へ腰を下ろしている。美波もその隣に立ち、濡れたタオルを風に広げていた。
「明るいうちに帰ろう」
「うん」
和真は肩へ掛けかけた荷物を、いったん足元に置いた。タオルを畳み直し、開けた荷物の口へ収める。肩紐を持ち上げても、背中に残っていた張りは抜けたままだった。




