第十七章 暮らしをつくる
種の袋に描かれた茄子を見ていると、焼いた時の匂いまで思い出しそうだった。
乃亜は袋を裏返し、細かな文字を読み直した。隣にはとうもろこしとトマト。朝食の皿を下げたテーブルに並べると、三袋ではずいぶん心細く見える。
「ねえ、乃亜。これ、今日まくの?」
レイナが向かいの椅子へ腰を下ろした。
「そのつもり。場所を見てからだけど」
「どこがいい?」
「まだ決めてない」
答えてから、乃亜は窓の外へ目を向けた。第一号棟の脇は近い。朝に見に行くのも、水を運ぶのも楽だろう。だが、袋には日当たりのよい場所とある。建物の影が伸びてくる時間を、まだ知らなかった。
「ここなら育ちます、って言えたらいいんだけど。ボクも、この島で育てたことはないから」
「うん。だから一緒に見ようよ」
レイナは茄子の袋を手に取り、写真をこちらへ向けた。
「これ、採れたら焼きたい」
「まだまいてないよ」
「食べるところまで考えた方が、草抜くのも頑張れそうじゃない?」
乃亜は笑って、袋を受け取った。自分も、さっき同じことを考えていたとは言いそびれた。
「じゃあ、最初は家の横。それから、荷物を運んだ道の途中も見たい」
「沢へ行く道にも、少し平らなところがあったよ」
器を重ねていた和真が、戸口の方を指した。
「水は近い。ただ、そこまで歩ける?」
「ゆっくりなら。途中で座れるところ、ありますか」
「ある。道具は俺が持つから、足がつらくなったらそこで休もう」
乃亜は三か所分の余白をノートに取った。袋をしまおうとすると、詩乃が水滴のついた布巾を避け、乾いたところを空けてくれる。
「種は全部持っていきますか」
「ううん。少しずつ。最初から使い切りたくないから」
「では、残す分はこちらへ。濡れると困りますね」
詩乃と袋を分けながら、乃亜はレイナの持ってきた移植ごてを見た。土がついていない刃が、窓の光を返している。
どれも、持ってきてよかったと思えるように使いたかった。
*
第一号棟の脇で最初に出てきたのは、種をまく場所ではなく石だった。
レイナが草の根を引くたび、小石が乾いた音を立てる。乃亜は右足を楽に置ける向きへ座り直し、掘り返した土をほぐした。表面だけ見た時より石が多い。
「これ、全部どかす?」
「まくところだけでいいよ。その先は、まだ」
「あ、もう抜いちゃった」
レイナの手に、長い根がぶら下がっていた。乃亜が示した範囲から、手のひら二つ分ほど外れている。
「そこまで使うと、水をあげるところも増えちゃう」
「私もやるよ」
「うん。でも、ほかの二か所にもまいてみたいの。どれくらい手がかかるか、ボクにもまだ分からないし」
レイナは抜いた草を脇へ置き、乃亜の置いた目印まで戻ってきた。
「じゃあ、今日はここまで。足りなくなったら広げる?」
「育ったら、ね」
「育ったら」
同じ言葉を言い直したレイナが、今度は範囲の内側へ移植ごてを入れた。乃亜はその横に、とうもろこしをまく場所の印をつけた。
二つ目の候補地は、第一号棟より空が広かった。草の間へ踏み入れた途端、靴の底に湿り気が伝わる。
「日当たりは、こっちの方がよさそう」
乃亜がノートを開くと、美波が先の地面を指した。
「でも、そのへん低いよ。雨が降ると、水が集まると思う」
「どこまで?」
「このへんから。ほら、道の方が高い」
しゃがんで横から見ると、確かに道から緩く下がっている。乃亜の足元にも、土の色が濃いところが続いていた。
「ここが一番いいかと思ったんだけどな」
「端なら、もう少し高いよ」
美波について数歩移り、乃亜は土に移植ごてを差し込んだ。柔らかい。刃を抜くと、湿った土がまとまって持ち上がってきた。
「少しだけ、ここでも試したい。雨のあとに見に来れば、分かるかな」
「うん。その時、呼んで」
美波が目印の石を拾う。乃亜は、さっきまで自分の立っていた場所も写真に入れた。晴れた日に選んだ理由を、雨の日に忘れないように。
三つ目へ着く頃には、右足首が靴の中で重くなっていた。
乃亜が道の端に腰を下ろすと、和真は持っていた容器を置いた。
「少し待ってて。水をくんでくる」
「ここから近いですか」
「音は近いけど、下りてみないとな」
木の根を避けていく背中を見送った。足元さえ平らなら、いまも一緒に行ける気がする。だが、靴を動かすと足首の奥が引っ張られ、乃亜は膝へ置いたノートに目を戻した。
「ここ、いちばん遠いね」
詩乃が隣へしゃがみ、水を差し出した。
「毎日、三か所回るんでしょう?」
「うん。朝だけじゃなくて、夕方にも見たい」
「全部、乃亜さんが?」
乃亜はふたを開けかけた手を止めた。
「同じ人が見た方が、違いが分かると思って」
「そうですね。でも、家の横なら私も見られます。何を見てほしいか、教えてもらえませんか」
毎日回れるかどうかを、種をまく前から考え直すのは少し悔しかった。けれど、詩乃はやめようとは言っていなかった。
「土が乾いてるか。それと、目印が動いてないか。最初はそれだけでいいと思う」
「分かりました。夕食を作る前に見てきます」
「……ありがとう。気になることがあったら、ボクも呼んで」
戻ってきた和真の容器から、水が靴先へ一滴落ちた。
「近いけど、運ぶのは家の横より大変だ。途中が滑る」
「ここは和真さんにお願いしてもいいですか。ボクはこの上で待ってます」
「うん。どれくらい要る?」
乃亜は、まだ草の残る地面に小さく範囲を描いた。
「まず、この分だけ」
腰を下ろしたまま種をまいていると、リリスが袋の口を支えてくれた。茄子の種は思ったより小さく、手のひらへ出した数粒を指で分けるのに手間取る。
「見えますか」
「うん。そっち、ちょっと日陰にしてくれる?」
リリスの手が光を遮った。種の輪郭が見え、乃亜は一粒をつまむ。
「これが、あの大きさになるんだよね」
「袋の写真にあるものですか」
「そう。土の中に入れたら、しばらく見えなくなるけど」
リリスは乃亜の指先を見ていた。種を置き、土をかぶせるところまで目で追ってから、空いた場所へ手を伸ばす。
「私も、まいてよろしいですか」
「もちろん。こっちにお願い」
リリスの手のひらへ、種を一粒渡した。
帰り道で残る二か所にも種をまき、第一号棟の脇へ戻った時には、レイナの指の付け根まで土がついていた。自分の手も大して変わらない。乃亜は手首でノートを押さえ、まいた位置を書き込んだ。
「もう、写真撮っていい?」
レイナが土のついた手を引っ込める。
「いいよ。あ、ちょっと待って。トマトの札、曲がってる」
「読めるから大丈夫」
「せっかくなら、真っすぐにしたいじゃん」
立て直してから、レイナはようやく畑の脇へ退いた。乃亜は札と小さな区画を画面に収める。さっきまでレイナが掘っていた土と、真っすぐになった札が、写真の中に収まった。
「明日には出る?」
「まだだと思う。袋に書いてある日数なら、もう少し先」
「そっか。……でも、朝は見に来ようかな」
「ボクも来るよ」
シャッターを押してから、乃亜は種の袋をノートへ挟んだ。明日のページは空けておいた。
*
午後、沢沿いの道で和真は足を止めた。
灰色の角は、昨日と同じ木の根の下にあった。見覚えがあるだけで近づきやすくなった気がする。靴先を置こうとした土が湿っていることに気づき、和真は足を引いた。
「そこ、踏まない方がいい」
美波も同じところを見ていた。
「上からなら、形が分かりそうなんだけどな」
「上に乗ってる土も、どこまで支えられてるか分からない。下から見たいんだけど」
「沢の方、俺が見てくる。美波はそこで待ってて」
回り込めそうなところを探したが、構造物へ近づくほど道は細くなった。足を下ろせる石には水が流れている。和真は枝をよけて引き返した。
「駄目だ。下も濡れてる」
「じゃあ、ここから見える分ね」
理央がノートを差し出す。美波は鉛筆を借り、土に隠れるところで線を止めた。
「この先、続いてると思う?」
「続いてはいると思う。でも、この形のままかは分からない」
「中が空いてる可能性もあるよな」
和真が言うと、美波は図から顔を上げた。
「ある。だから、掘るのも嫌なんだよね」
和真はもう一度、露出した灰色の面を見た。入口なら、中を見られるかもしれない。そう思っていたのに、穴があるかもしれないという同じ理由で、足を出せなくなる。
「昨日の写真と比べよう。今日はこの図を持って帰る」
「うん。あと、ここの下だけ見たい」
美波が道端の根を指した。
「そこから届く?」
「のぞくだけ。足は動かさない」
美波は木の幹に手を添え、膝を曲げた。前へ身体を傾けた時、スカートの裾が枝に押され、黒いショートスパッツが見えた。
和真は視線を外した。足元を見ていたはずなのに、急にどこへ目を置けばいいのか分からなくなった。
「美波、裾が引っかかってる」
理央に言われ、美波は背を起こした。枝から布を外し、汚れを手で払う。
「やっぱり、今日はズボンの方がよかったでしょう」
「たまにはスカート着たかったんだよ。下も履いてるし」
そう言って、裾をつまんだ。
「ほら。これなら動ける」
和真は沢へ顔を向けた。間に合わなかった。
「美波、下ろして」
「スパッツだよ?」
「分かってるわ。分かってるから、見せなくていいの」
「ハーフパンツみたいなものだと思ってた」
「それなら、最初からハーフパンツで来ればよかったでしょう」
「今日はスカートがよかったんだって」
和真は口を挟みかけてやめた。どちらの言い分も分かるのが、余計によくなかった。
「和真は?」
「え?」
「そんなに変?」
顔を戻すと、裾はもう下りていた。美波はスカートの脇を両手で押さえ、こちらを見ている。
「変じゃない。似合ってるよ」
「じゃあ、なんでそっち向くの」
理央がノートを胸に抱えた。助け船は出そうにない。
「……急に見せられると、困る」
美波の目が一度、下へ動いた。黒い布はもう見えない。そこでようやく、和真の顔を確かめるように見上げた。
「見えた?」
「うん」
「あ。……そっか」
美波は裾から片手を離し、髪を耳へかけた。いつもならすぐ別のものへ向く目が、和真の胸元で止まってから足元へ落ちる。
「次は、ズボンで来る」
「スカートをはくなって話じゃないからね」
理央が言うと、美波は小さく頷いた。
「うん。分かった」
和真は足元の枝を脇へ寄せた。さっきの黒い布と、言葉のあとで変わった美波の顔が、まだ頭から離れない。
「戻ろうか。図、俺が持つ?」
「私が持ってる。あなたは先に行って」
理央に言われたとおり道を戻った。後ろで美波が「理央」と呼ぶ声がした。返事は聞こえたが、その先は沢の音に紛れた。振り返るのはやめておいた。
*
第一号棟へ着く少し手前で、美波と理央が追いついた。玄関で靴を脱ぎかけた美波のスカートを、詩乃が見ていた。
「そこ、こすらない方がいいかもしれません。土が広がっています」
「あ、本当だ」
美波は裾を持ち上げて、ついた泥を確かめている。沢で見た黒いスパッツを思い出しかけて、和真は靴を脱ぐ方へ視線を落とした。
「洗いますか。ほかのものと一緒に」
「うん。着替えてくる」
「あ、その前に見せて」
レイナが椅子から立った。美波は裾に触れかけた手を引っ込める。
「何を?」
「服。昼に着替えた時、ちゃんと見てなかった。スカート、いいじゃん」
「……ありがとう」
「私も、持ってきたやつ着ようかな。汚したくなくて、しまったままだったんだよね」
レイナが自分の袖をつまんだ。その手の甲にも、洗い残した土が少しついている。
「乃亜、あとで一枚撮ってくれる?」
「いいよ。外が明るいうちにね」
「詩乃も着ようよ」
「夕食の支度が」
「汚れる前に撮ればいい。もう、今日の草抜きは終わったし」
詩乃は布をたたみ、乃亜へ目を向けた。
「乃亜さんは?」
「ボクはカメラを……」
「服のことです」
乃亜は自分の膝を見た。午前中に座っていたところが、薄く土色になっている。
「じゃあ、ボクも」
和真は着替えを持って浴室へ入った。土のついた上着を替え、ダイニングへ戻ると、先に出てきた詩乃が、襟元に小さなボタンの並んだブラウスを着ていた。
「あ。和真さんも着替えたんですね」
和真は自分の襟元を見下ろした。
「これでいい? 写真って聞いたけど」
「いいと思います」
少しして乃亜が出てきた。薄い色のワンピースは、畳みじわがまだ残っている。普段なら、作業の前に選ばなそうな服だった。
「これ、変じゃないかな」
「変じゃないよ」
和真が先に答えると、乃亜は目を丸くした。すぐに、ワンピースの脇を指でつまむ。
「……ありがとう」
廊下からレイナの声がした。
「理央、それも持ってきてたんだ!」
「大きな声で言わなくても見えるでしょう」
理央は柔らかな生地のスカートをはいていた。裾の折り目を直していた指が、和真たちに気づいて止まる。
「そんなに見る?」
乃亜が笑った。
「似合ってるなと思って」
「レイナにも言われたわ」
「なら、二票だね」
理央は返事の代わりに、裾をもう一度整えた。
その後から美波が出てきた。今度は脚を動かしやすい短いパンツに、袖のゆるいTシャツを合わせている。和真と目が合うと、すぐに裾へ手をやった。
「美波、さっきのスカートは?」
「洗う。あれは、外でしゃがむ時は駄目だった」
「何かあった?」
「あとで。写真を撮るんでしょう」
理央がレイナの肩へ手を置き、戸口へ向けた。美波は理央の横をすり抜ける時も、こちらを見なかった。
リリスは戸口の手前に立っていた。いつもの服よりやわらかな色の上着へ着替えていて、襟へ髪が少し入っている。詩乃が断ってから、襟に入った髪を外へ出してやった。
「これで大丈夫。リリスさんも、一緒に」
「私もですか」
「七人で撮りたいんです」
カメラを持った乃亜が、皆の前で立ち止まった。和真を含めて見回したあと、少しだけ笑う。
「なんだか、いつもと違うね」
和真も、目の前の皆を見た。泥のついた服と靴を気にしていた朝とは、同じ部屋にいるのに空気が違う。
「……みんな、似合ってる」
言うと、レイナがすぐに笑った。理央は何も言わず、裾から手を離す。美波はTシャツの端を指先でつまんだまま、顔を上げなかった。
乃亜はカメラを胸元へ戻した。
「じゃあ、撮ろう」
外へ出ると、乃亜は第一号棟の戸口と両脇の壁が入るところまで歩き、画角を確かめ始めた。六人がこちらを見ると、和真はすぐに気づく。
「乃亜、そこから撮ったら入れないだろ」
「分かってます。置くところを探してるんです」
「椅子で足りる?」
「箱もほしい。ちょっと高さが」
和真は椅子と箱を運んだ。乃亜は箱の上へ椅子を置き、畳んだ布でカメラの傾きを直す。画面の右に余白を残してから、皆の方へ振り向いた。
「ボク、ここへ入るね。詩乃さんの隣」
「走らなくていいから。時間、長くできる?」
「うん。十秒ある」
タイマーを押すと、乃亜は足元を見ながらこちらへ戻ってくる。和真は、足首をかばうような歩き方になっていないかを見ていた。詩乃が腕を少し開き、乃亜の入る場所を作る。
まだ切れない。
「……長くない?」
「レイナが止まるの早かったんだよ」
言ったところでシャッターが切れた。
「今の、私しゃべってた!」
「たぶん撮れてる。見てみる」
乃亜がカメラをのぞき込む。和真も横から画面を見た。レイナは乃亜へ顔を向け、乃亜もそちらを見ている。理央だけが正面を向き、口を閉じているせいで、ほかの皆より少し怒っているようだった。
「私、こんな顔してた?」
「ちゃんと撮ろうとしてた顔」
「してたわよ」
「もう一枚撮る?」
「撮る」
理央が誰より先に元の場所へ戻った。乃亜は一枚目を残し、カメラの向きを直す。
「さっきより、少し寄って。リリスの横が空いてる」
レイナが動き、和真も場所を空けた。美波が和真の隣で一度止まってから、半歩だけ近づく。袖が腕へ触れたが、和真は動かずに待った。
タイマーを押した乃亜が戻る。
「そんなに止まらなくてもいいよ」
「だって、動くなって言うと思って」
レイナの言葉に、理央が横を向いた。
「あなたは動きすぎるの」
「今は止まってる!」
言いながらレイナの肩が理央へ寄った。理央が押し返そうとする手を見て、乃亜が笑った。詩乃の袖をつかんだところで、二度目の音がした。
画面を確かめた乃亜が、すぐに顔をしかめる。
「……もう一枚」
「え、今のよかったじゃん」
レイナがカメラをのぞき込む。
「ボクの顔」
「笑ってる」
「分かってるよ」
「乃亜さん、これを残してほしいです」
詩乃が画面を指した。そこには、詩乃の袖をつかんで笑う乃亜と、その方へ顔を向けている詩乃が写っている。理央の口元も、一枚目とは違っていた。
「撮り直すなら、これは消さないでくださいね」
乃亜は画面から手を離した。
「じゃあ、二枚とも」
「私にも見せて」
美波が背後へ回り、反対側からリリスものぞいた。和真は画面の中の自分を見た。一枚目でも二枚目でも、カメラではなく、乃亜の戻る方を見ている。
「和真さん、カメラ見てない」
「間に合ったか気になって。乃亜が戻るまで見てたら、そのまま撮られた」
「もう、とっくに隣にいましたよ」
「そうだったな」
*
夕食の食器を拭き終えると、和真は席を立たない理央に気づいた。
テーブルには昼の図と、乃亜から借りたカメラが並んでいた。理央は写真と図を見比べ、空になった自分のカップが邪魔になるたび、少しずつ遠ざけている。
「お茶、足す?」
「もうないと思ってた」
「お湯ならある。薄くなるけど」
「それでいいわ」
和真は二つのカップを持ってきて、斜め向かいへ座った。カメラの画面には、昨日の灰色の角が写っていた。
「何か違った?」
「土の境目が少し違って見える。でも、撮った場所も違うから。今日崩れたのかどうかまでは言えない」
理央は写真を拡大した。黒い影と灰色の面が大きくなり、和真にはかえって形が分からなくなる。
「美波、下を見たがってたな」
「私も見たかった。入口なのか、ただの隙間なのか。それくらいなら分かると思ってたのに」
「行ってみると、遠かった」
「ええ」
理央はカップへ手を伸ばしたが、口をつける前に図へ戻った。
「美波が言っていたの。あの上の土を取ったら、横の土がどうなるか分からないって。私は、見えているところを少し広げるつもりだった」
「掘らなくてよかったよ」
「分かってる」
返事は早かった。和真がカップを持つ間にも、理央の目は図を離れない。
「……分かってるけど、気になるのよ」
「明日も行きたい?」
「同じことをしに行っても仕方ないでしょう。分からないからって、近づけるわけじゃない」
鉛筆の先が紙へ触れ、短い線を引いた。すぐに消しゴムで消す。和真はその小さな消しかすを見ていた。
「俺、さっきまで水が出る理由なんて考えてなかった」
理央が顔を上げる。
「食器洗って、いつもみたいに蛇口を閉めた。ここに来た時は、あんなに確かめたのにな」
「私だって、お風呂に入る時は使ってるわ」
「でも、気になる?」
「気になる。使わないと困るから、余計に」
理央はようやくお茶を飲んだ。カップを両手で持ったまま、台所を見る。
「止まったら、どこを触ればいいのかも分からない。美波に聞いても、調べるところからでしょう。リリスだって、全部知ってるわけじゃない」
「沢の水はくめる。火も起こせるよ」
「それは知ってる。あなたができることも」
理央の目が戻ってきた。
「でも、私はここがいい。雨が降ってもノートが濡れないし、夜に明かりもつく。今日みたいに、みんなで着替えて写真を撮る余裕もある」
和真は、戸口のそばに置いた空き箱を見た。写真を撮ったあとで乃亜が運び込んだものだった。
「だから、分かるところは知っておきたいの。何かあってから、知らなかったって言いたくない」
「うん。俺も、戻れなくなるのは嫌だな」
言ってからカップを置いた。テントでどうするかばかり考えて、理央がこの家を気に入っていることを聞き逃すところだった。
「あの埋まってるものじゃなくて、入ったことのある場所からならどうだろう」
「リリスがいた小屋?」
「あそこも全部見たわけじゃない。あの時は、リリスと三人がいるのを見て、ほかのことまで頭が回らなかった」
「私はまだ行ってない。見てみたいわ」
理央はノートの新しいところを開き、何か書こうとして手を止めた。
「リリスに聞いてからね」
「明日の朝、みんなで話そう。乃亜の足のこともあるし」
「ええ。今度は、何を見るか考えてから行きたい」
机の上でノートが閉じられた。和真が立とうとすると、理央はカメラを手元へ寄せた。
「これ、集合写真はどうやって出すの?」
「そこのボタン。さっき乃亜が教えてくれた」
写真を切り替えると、土と木の根のあとに七人が現れた。理央は画面をのぞき込み、自分のところを指で示す。
「やっぱり一枚目、硬いわね」
「二枚目は?」
「レイナのせいで、横を向いてる」
和真はその横顔を見た。理央は一枚目へ戻さずに、画面の端まで見ていた。
「次は、ちゃんと正面を向く」
「また撮るんだな」
「あなたも向いてないでしょう」
「俺は乃亜が」
「それ、夕方も聞いたわ」
理央が笑って、カメラを置いた。
廊下から、乃亜が「見終わった?」と顔を出した。和真が返すと、彼女は画面を確かめてから電源を切り、胸元へ持った。
「その箱、しまわないでね。高さ、ちょうどよかったから」
「次もあれを使う?」
「うん。今度は、畑に芽が出た時とか」
「じゃあ、取っておくよ」
和真は箱を手前の棚へ移した。上へ重ねかけた荷物は別の場所に置き、椅子もすぐ隣へ戻しておいた。




